1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 芸能
  4. 芸能総合

「私、こんなことやりたいのかな」さとう珠緒48歳が振り返る“幻の地下アイドル時代”

文春オンライン / 2021年6月26日 11時0分

写真

さとう珠緒さん

 さとう珠緒は、あの頃と同じく小柄で華奢な体を、純白レース素材のワンピースと、水色に透けるカーディガンに包んで現れた。撮影が始まると、階段の手すりに両肘をついて片足をそっと跳ね上げたポーズを取り、小首を傾げる。そしてカメラを見上げ、幾種類もの笑顔を送っていく……。今年で48歳になった彼女は今も、私たちが思い描く“さとう珠緒”そのものを見せてくれていた。

 ゼロ年代、テレビを点ければ、そこにはいつもさとうの姿があった。ぶりっ子キャラでバラエティ番組を席巻した彼女は、今の“あざとい”ブームの先駆者と言えるかもしれない。だが、その代わりにさとうは――世間から嫌われた。

 当時、各局の番組に次々と出演しながら、さとうは何を思っていたのか。いや、そもそも、テレビカメラが回っていないときの“本当のさとう珠緒”は、どんな人物なのだろうか。今、改めて本人に聞いてみた。(全2回の1回目/ 後編に続く )

(文中敬称略)

子ども時代の忘れられない記憶

 ICレコーダーを向けられたさとうは、こちらが心配してしまうほどに謙虚・謙遜の塊のような女性だった。

「ほんとすみません、私なんか。私、頭がよくないんですよ。ほんとに脳みそが鳥レベルなんだと思うんですよね……」

 聞いているこちらが申し訳なく感じてしまうくらいの謙遜ぶりだが、そんな言葉も明るい声で、まっすぐ目を見て語ってくれるため、「いえいえ、そんな……」と応えているうちに、いつの間にかさとうの“間合い”に引き込まれているような気がする。「最近は鏡を見て、年齢を感じることもあります。そろそろ更年期も来るだろうし、ヤバイですよね」

 1973年生まれ、千葉県船橋市出身。どんなお子さんだったんですかと尋ねると、「わりとポンコツ系?っていうか……。周りの大人からは、一つのことに集中しちゃうと他が見えなくなるって心配されていたようで、よく迷子になっていたんですよね。親の後ろにくっついていたと思ったら、全然違う人だったり」。

 幼い頃には迷子のせいで“警察沙汰”になったこともあるそうだ。「たぶん遊園地だったと思うんですけど、そこで迷子になっちゃって、自分一人で帰ろうと思ったんです。いろいろな人に住所を伝えて、わからなくなったらまた聞いてとかやっていたら、ある方が警察に電話してくれて。それでパトカーに乗って帰りました」

 そんな子ども時代を過ごしていたさとうには、まだ小学校に上がるか、上がらないかの頃、もう一つ忘れられない記憶があるという。

「競馬場に行くのが楽しみでした」

「おじいちゃんが船橋で厩務員さんをやっていて、競馬場に行くのが楽しみでした。サラブレッドは性格的に荒い子もいるので、怪我をする危険があるからあんまり近づいちゃいけないよと言われていたんですけど、私はほんとにお馬さんが大好きで、よく大人の目を盗んで忍び込んでは、飼い葉をあげてました。

 お馬さんが笑ってくれるんですよね、ヒヒヒーって歯茎を出して。ちっちゃい子から見ると怪物ぐらいに大きいんですけど、なんてかわいいんだろうって思ってた、そんな記憶があります」

 小学校では、女の子の友達も男の子の友達もいる、「あまり勉強もしないマイペースな子」だったという。「たとえば女の子がリカちゃん人形で遊んでいたら、自分もリカちゃん人形を買ってもらって一緒に遊んだり、男の子とは自転車に乗って、ワーッてどこまでも行ったりして。でも、一人遊びも好きで、『はいからさんが通る』のイラストを刷るおもちゃ(ポピーの『いんさつやさん』)でよく遊んでいました」

 この頃、さとうは初めて人前に出る体験をする。「小2ぐらいからバトントワラーの習い事を始めて、夢中になりました。当時は『フラッシュダンス』が流行っていて、本当はそっちをやりたかったのに定員オーバーで入れなかったんです。でも、空いていたバトントワラーの先生がすごくきれいで優しい人だったので、はまっちゃいました。発表会があったり、市民祭りのパレードに出たり……」。そんな小学生時代を、さとうは「活発なような、活発じゃないような、不思議な感じでした」と振り返る。

革のミニスカでZELDAのライブへ

 さとうが小学校に上がる年、松田聖子が「裸足の季節」を歌ってデビューした。のちに自らも芸能界に飛び込むさとうは、当時のアイドルブームをこう懐かしむ。「やっぱりクルクルドライヤーを買ってもらって、聖子ちゃんの髪型を真似したりしていましたね。他にも松本伊代ちゃんとか、柏原芳恵さんや薬師丸ひろ子さんのコンサートに行って写真集を買ったり、ガッツリテレビっ子でした。アイドルがアイドルらしい時代でしたよね」

 意外なのが、中学時代からの展開である。“王道アイドル”に釘付けだった女の子は一転、ロックバンドにのめりこむ。「当時、バンドブームがやってきて、BOØWY(ボウイ)やALFEE(アルフィー)、米米CLUB、THE BLUE HEARTSとか、いっぱいバンドがあった中で、私はZELDAっていう女性グループが好きだったんです。それが中2、中3ぐらいの頃だったかな。お小遣いを貯めて、革のけっこうなミニスカとかはいて、ライブに行ってたんです」

 そんなさとうの変貌ぶりが、芸能活動への扉を開くことになる。「そしたら親戚が、ちょっと大丈夫かな珠緒ちゃん、と心配し始めて(笑)。たまたま知り合いが小さな芸能事務所をやっていたので、『なんかやれば』ということになって、漫画アクション主催のアイドルオーディション『ミスアクション』に応募してくれたんです。そこで準グランプリをいただきまして」

 そこからさとうの華々しい芸能生活が始まる……かと思いきや、このときはたった数ヶ月活動しただけで芸能界を離れている。

「当時、おニャン子クラブが流行っていて、その流れでモモコクラブとか、同じようなグループアイドルがワーッと出てきて。で、その『ミスアクション』の入賞メンバーの中にも『キキミークラブ』という、誰も知らないアイドルグループがあったんです(笑)。

 TBSラジオの公開録音やイベントに出演するのが主な仕事で、そこで中学を卒業した春休みから高校1年の途中ぐらいまで、活動させていただいたんですよね。でも、セーラーズのトレーナーをみんなで着せられたりとかして、なぜそんなことをしなければいけないのか、理解できなかったんです」

「大人は笑ってくれているからいいのかな」

 それは80年代の終わり、ちょうど昭和から平成への過渡期に当たる頃だった。革のミニスカをはき、ロックバンドのライブに通い詰めていた中学生は、高校生になると“大人たち”からセーラーズのトレーナーを着せられていた。そんな状況に、さとうは強烈な違和感を覚えたという。

「ラジオで『珠緒の懺悔の部屋』という、今週こんな失敗しちゃった、神様ごめんなさいっていうコーナーを担当したんですけど、何が面白いのかわかりませんでした。でも、大人は笑ってくれているからいいのかなという感じで。

 あと、日比谷で夜に公開生放送をすると、すごく太いレンズを構えた男の人たちがいっぱいいて、バンバン写真を撮られるんです。そんな状況で『なんでこんなことしてるのかな』『私、こんなことやりたいのかな』と思ってしまって……。写真を撮られるのに慣れていないのもあったんですけど、それ以上に『仕事とは何か』をわからないままやっていたのかもしれないですね」

 大人たちに言われるまま、連れていかれた現場で仕事をこなす。公開放送会場に行けば、鈴なりの男性ファンたちに遠慮なくカメラを向けられ、一体どこを撮られているのかもわからないまま笑顔を浮かべなければならない――高校1年生のさとうにとっては、それを“当たり前のこと”として受け入れることができなかった。

“普通の高校生”として……

「同じグループの他のメンバーはほんとに誰にでも愛想良くニコニコ、ニコニコしてて、すごいな、私にはちょっと向いてないなって、そのときに感じちゃったんです。年齢的にも、いろいろ考えちゃう年頃ですよね。反抗期というのか、何だろう。繊細ですよね。あの頃は、みんなそうだと思うんですけど」

 結局、さとうは数ヶ月で芸能界を離れる決断をする。だが、その活動も「地下アイドルのようなもの」だったので、あっさりと“普通の高校生”に戻れたという。

都会への憧れとカルチャー系女子

「部活は帰宅部みたいな感じでした。でも、当時、タルコフスキーとか、フランソワ・トリュフォーとか、エリック・ロメールだとか、そういう難解な映画を見に行ったり、ちょっとわかりづらい文学を読んでいるのが大人っぽくてカッコいいんじゃないかみたいな、自分の中で背伸びしているところがあったんです。

 そしたら、気の合う国語の先生が『そういうのが好きなら、ポストモダンアートクラブを作ろうよ』って。それで何人かメンバーを集めて、ちょっと小難しい映画を見ながら、みんなでお菓子を食べるというのを、週に1回ぐらいやっていました」

 ポストモダンアートクラブとは、タレント・さとう珠緒のイメージからは新鮮である。「オリーブ少女とかが流行っていたんですよね。船橋というのが微妙に田舎だったので、そういうお姉さんとか、都会への憧れみたいなものがあったんです」。オリーブ少女だったさとうは、ファッションにもこだわりがあった。もちろん古着も着た。「『CanCam』『JJ』とは全然違う世界観で、かわいくて、おしゃれで……あと、わかぎゑふさんのエッセイのファンでした」

卒業後、再び芸能界へ

 J-POPが隆盛を迎える90年代に、“カルチャー系女子”として高校生活を満喫したさとうは、ここで再び芸能界へ戻る決断をする。「『キキミークラブ』時代のVTRを見ていたモデル事務所の方から、もし良かったらどうですかって声をかけていただいたんです。ちょうど就職難の時代で、就職活動も大変そうだから、なんとなくいいかな、みたいな(笑)。あのときやめたのは何だったんだって感じですけど、ちょっとやってみようかなと思って。映画が好きだから、女優さんとか、何かできたらいいなという軽い気持ちでした」

 だが、さとうを取り巻く状況はガラリと変わっていた。アイドルオーディションで準グランプリを獲得し、周囲から与えられたものをこなせば良かった3年前とは違い、自ら仕事を勝ち取らなければ、厳しい芸能界の中で居場所などどこにもなかった。

「一生懸命CMのオーディションを受けても、ことごとく受からなくて。仕事といっても、たまに紙媒体の広告をやったりだとか、深夜のドラマにちょこっと出てみたりだとかで、きびしい毎日を送ってました。だから事務所では電話番も、事務作業もやっていましたね。やっぱり簡単には売れっこないな、難しいだろうなと自分の中でも思い始めていました」

 そんな下積み生活を送っていたさとうを本気にさせたのは、とある誓約書だった。「親戚のおばさんに『今後2年間やって売れなかったら、もうやめなさい』と言われて、誓約書を書かされたんです。日付入りで。『ダラダラしてもダメよ』って活を入れられた感じです」

 さとうの人生の転機には、常に彼女の背中を押してくれる“誰か”の存在がある。このとき、親戚のおばさんに書かされた誓約書は、やはり彼女の人生を大きく変えることになる。自らを窮地に追い込んださとうは、代表作となる特撮ドラマ『超力戦隊オーレンジャー』のオーディションに合格したのだ。

「ようやく『オーレンジャー』の仕事が決まって、芸能生活を続けられることになりました」。それは、さとうが初めて掴んだ大役だった。

厳しくて熱かった『オーレンジャー』

 1995年3月から翌2月末まで放送された『超力戦隊オーレンジャー』。当時の特撮戦隊ものの典型だった、戦隊メンバーの女子枠、桃色のコスチュームを着る「オーピンク(丸尾桃)」役でブレイクしたさとうは、この作品が自身のキャリア上、大きなターニングポイントになったと語る。

「特撮のスタッフ50人ぐらいが現場、現場で動く、家族みたいなチームだったんです。2話ずつ撮って、終わったら軽い打ち上げがあってという繰り返しだったんですけど、スタッフが昔の映画畑の人だったりして、皆さん職人気質で厳しくて。子ども番組だからなんていう甘えはまったく無いんですよ。立ち位置に止まれなくて照明さんに怒られたりとか、いろいろな人に叱られたりしながら、ちょっとずつ現場での動きを教わりました」

 プロ同士がぶつかり合い、一つの作品を磨き上げていく。子ども番組だからといって、一切手は抜かない。そんな緊迫感のある現場に必死にくらいつきながら、さとうは自らの気持ちが大きく変わっていくのを感じていた。「『オーレンジャー』の現場は、仕事ってみんなで作るものなんだという、チームの一員としてのやりがいや楽しさ、面白さを初めて教えてもらった現場だったんですよね。刺激を受けて、自らやるぞっていうスイッチが入った仕事でした。だから、今もすごく感謝しています」

『オーレンジャー』の放送が終了したとき、さとうは23歳になっていた。高校卒業後、オーディションに落ち続け、事務所の電話番をしていた“元・地下アイドル”は、このとき初めて芸能界で生きていく覚悟を決めた。間もなく、さとうはバラエティの世界から声がかかるようになる。一つの作品を、みんなで作り上げる。チームの一員として、自分の役割を全力でこなす――。

 だが、その道の先に待っていたのは、「女が嫌いな女」第1位という、予想もしていなかった“称号”だった。

( 後編に続く )

撮影=橋本篤/文藝春秋

「田中みな実さんは全然違うジャンルですよ」さとう珠緒48歳は今の“あざといブーム”をどう見てる? へ続く

(河崎 環)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング