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「本番の約束でしょって、騙された…」“援デリ”の家出少女たちは数か月で別人になった

文春オンライン / 2021年6月24日 17時0分

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「今日初出勤の女の子いるんすけど、鈴木さん取材に来ませんか?」

 そんな連絡が僕のところに来たのは、東日本大震災前年の7月末のことだったと思う。誘いの主は、千葉県内は総武線沿線で活動するアンダー(未成年)専門の援デリ業者(売春の客付け業者)。すでにそこでキャストとして働いている16歳の少女が北関東の地元で小学生時代からつるんでいる友人少女を千葉に招き寄せ、新人として今日から所属することになるのだという。

 彼女らの出会いは生まれ育ったエリアの児童相談所に併設する一時保護所。お互い家庭環境が非常に居づらいものだったことから、小学5年生ぐらいから地元でたびたび家出や深夜徘徊を繰り返し、保護を繰り返される中で顔見知りになったそう。援デリでは在籍キャストがそうした仲間を呼び寄せるのがよくあることで、当時僕はこうしたキャスト少女らや業者からの紹介で取材対象者を広げていくことが多かった。だが……。

「本強(挿入の強要)だった。騙された」

「初日は気が進まないなあ」……なんてことを思いながらも業者とキャスト少女らが待機に使っている喫茶店に赴くと、案の定そこにはめちゃくちゃまずい雰囲気が流れていた。

 業者は黙って携帯で客のアポ取りをしているし、待機しているキャスト少女らも素知らぬ顔でメイクしたり携帯ゲーム機に没頭する中、ひとりの少女がふくれっ面でテーブルを睨みつけている。このグループで見かけたことがない少女だから、彼女がくだんの新人なのは間違いない。赤い目をみるに、少しばかり泣いたあとらしい。

「鈴木さん、その子ね。今日ちょっとあれなんで、よそで話聞いてやってもらえます?」

 面倒くさそうな顔で言う業者に追い出されるように、少女と連れ立って喫茶店を出た。近くの公園、ベンチに座った少女は、小刻みに貧乏揺すりをしながらブツブツ言い始めた。

「本強(挿入の強要)だった。騙された」

「騙された??」

「最初、りい(彼女を呼び寄せた友人キャスト)と一緒にホテル行って、あたしはプチ(非本番=手や口によるサービス)だけでいいって言われて来たのに、ほかの子が遅刻したせいでりいがほかの客取らなきゃってなって、あたしひとりで行って来いって言われて、行ったらすごいキモい客だった。杉さん(業者)もプチで大丈夫って言ったのに、ホテル入ったら話違って、本番の約束でしょって。そんで本強だった。騙された」

援デリは「何をされてもおかしくない。いつ殺されてもおかしくない仕事」 

 援デリ業者では、業者側のスタッフがサイトやメールのやり取りを介して客とのアポイントや条件の折衝を代理し、少女を派遣する。なぜか「素人の少女」にこだわる客は、業者ではなくあくまで少女と折衝していると思っているので、実際に会った後に客との間に齟齬が起きても「それは業者が言ったことで、私の条件とは違う」なんて言えるはずがない。

 けれど、少女の様子を見れば、こんな条件違いが今の精神状況の理由じゃないことぐらい、すぐわかった。

 恐ろしかったのだ。

 当たり前である。10代の少女が、ホテル内の密室という逃げ場のない環境で、全く初対面の男の前で裸になることが、どれほどの恐怖を伴うことか。

「何をされてもおかしくない。それこそいつ殺されてもおかしくない仕事」という言葉はセックスワーカー全体から聞く言葉ではあるが、まして援デリはあくまで違法ど真ん中の管理売春であり、風俗店に比べてキャストを守るシステムも確立されているとは言い難い。そんな中、まだ10代の少女にとって売春デビューに伴う不安や恐怖とは、それこそ男子中学生が総合格闘技の道場にノーアポで突っ込むよりも大きなものかもしれないのだ。

 かといって、僕には少女にかける言葉がない。

 彼女は友人の誘いでこうして家出してきているが、そもそも家庭環境的に絶対に戻りたくない事情を抱え、戻らぬ決心のもとで出てきている。業者のところをバックレたら、その瞬間から行く場所がない(夜は業者の用意した会員証を使って漫画喫茶に泊まる予定)。

「保護・補導」されて地元の児童相談所や親元に戻るぐらいなら、どんなことをしてでも逃げるというぐらいには、捨て身の覚悟を決めてもいる。

 結局、僕が言えたのは(その恐怖に対して)「いくらなら許せる?」という、しょーもない妥協の提案だった。少女の答えは「10万円?」。その日、僕は少女を連れて業者の所に戻ると、僕が元々少女に払う予定だった取材謝礼を含めて10万円を少女のギャラとする交渉をし、8万円で折り合いをつけてもらった(この期に及んで値切られた)。

 毎日のように売春で生計を立てる家出少女に取材を重ねる時期を経て、「だから初日の取材なんて気が進まないんだよ」と思うぐらいに、僕も現場の感覚に染まってしまっていた。

家出少女は数か月で別人になった

 この業者に所属するキャスト少女らがドン・キホーテで買い物するのに付き合ったのは、その夏が終わった頃のこと。公園で「プチだって言うから行ったのに」と震える声でぼやいていたあの少女は、驚くほど別の人間になっていた。

 身長がいきなり高くなったように感じるのは、超ハイヒールを履いているから。不自然に濃すぎたメイクはナチュラルに洗練されて、ハイブリーチとカラコンで、見事に年齢不詳だ。ヴィトン(コピー品)のトートバッグに不似合いなデカいディズニーキャラのマスコットぶら下げてぶんぶん振り回し、援デリのキャスト仲間と並んで、店内を闊歩する。

 地元の中高生だろう、騒々しい少女グループが前方から来ても、絶対に通路を譲らない。むしろ相手が避けなければ当たって進路を譲らせる。どう見ても同年代の少女らに「っせーんだよガキ」とか低く毒づきながら、自分たちは「粗チン(粗末な性器の)客が~」だの「ガシマン(乱暴に女性器を扱う)の糞客死ね」とか一般人には下ネタであることも分からないような言葉を敢えてでかい声で交わし、笑い声を張り上げる。

 衣類、靴、香水、ガスライター、時計、駄菓子、DVD、乾電池……カートのかごに思い思いの商品をぼんぼん投げ入れる際に、値札は見ない。鏡月(韓国焼酎)だけは僕に渡してきて、

「鈴木さんこれだけ会計してください」

 なるほど補導対策らしいが、僕はそのためだけに同伴ドンキを許されたらしい。年上のキャバ嬢風なお姉さん方とすれ違う際には、ぺこりと小さく頭を下げた。

「盛りっすねー」

「盛り盛りじゃね?」

彼女らには身一つで稼いでいるという矜持がある

 同じ少女である。夏が始まった頃に初めての客を取ってフルフル震えていた少女が、いまやまるでドンキの主。ひと夏を生き抜いた少女らのギラギラした瞳に宿っていたのは、爆発しそうな「矜持」だった。

 客と対峙する恐怖、いつ暴力の被害に遭うかもしれない不安を毎日乗り越え、危険と引き換えに、自分たちは自力で稼いでいる。

 値札? んなもん見るか。あたしらの財布見るか?

 今ドンキにいる客の同年代で自分たちより稼いでいる奴なんか絶対にいないし、大人を含めたって自分たちより根性座ってるやつはいないだろう。

 はいはい、売春婦ですよ。けど白い目なんかで見てみろ、倍の眼力で睨み返してやんよ。

「あんたら一般人とは違う」。これが援デリの少女らの抱える、ギラギラした矜持だった。

 子どもであるということは、大人が「ここ以外にいてはならない」と定めた場所以外にいることを許されないということだ。けれど彼女たちは、世の中の大人が定める居場所なんか蹴り捨てて自分の居場所を自分で決め、そこで誰にも支配されずに自由に生きている。大の大人が1週間バイトをして稼ぐ金を、2日で稼ぐ。しかも危険に立ち向かって身を張って!

当事者意識が欠落した規制案に違和感

 コロナ禍の中、多くの要望があったにもかかわらず、国は性風俗産業に持続化給付金を出さずにスルーし続けた。6月頭、立川でデリヘル嬢を惨殺した19歳の少年は「あんな商売をやっている人間はいなくていい。風俗の人はどうでもいい」と警察に語ったという。

 遡れば、切り裂きジャックが街娼ばかりをターゲットに惨殺して回ったのは、1888年のこと。セックスワーカーに対する差別は、日本に限らず連綿と歴史の中にあり続けてきたものだが、昨今のセックスワークに絡む議論には、違和感がある。

 セックスワークとは貧困にある者の自助努力の一つであり、業界はその場を提供し受け皿となる私的なセーフティネットだ。

 危険で不適切な自助努力であれば、セックスワークを規制し、そこで働く当事者を福祉制度の充実でカバーすべきだ。

 セックスワークを法の中で適切に「管理」できる産業とすればいい。

 様々な立ち位置があるものの、どこにも違和感を覚えるのは、論じるすべての者に「当事者感覚を内包しない議論は、その議論そのものが有害」という視座が抜けているように感じてならないからだ。

リスペクトなき憐憫や同情は、差別に等しい

 僕が過去に取材の数を重ねてきたのは、セックスワークの中でも性風俗ではなく売春、特に未成年が他者の管理下で行う売春だった。

 売春と性風俗は、グレーゾーンを介してスペクトラム状につながっているが、その両極端を見れば、本質的には別物だと考えていい。けれど、そのメンタリティに共通するのは上記の少女らが見せたような「矜持」。この矜持こそ、セックスワークを論じる際にもっとも見失ってほしくない、現在の議論からは欠けてしまっている当事者感覚だと思う。

 もちろん、「どこを見るか」によって、風景やそこから受ける印象が全く違うのは売春にせよ性風俗にせよ共通すること。ドンキの主になった少女は、あくまで売春少女の勝ち組であって、同じ環境を日々恐怖と不安の中で働き続ける者もいるし、自分を傷つけたくてその仕事をする者も、分かりやすく生きるためにやむない選択という当事者もいる。

 そこには向き不向きや、格差が間違いなくある。

 支援者が、そうした被害者像を強く抱えていたり業界に適性のない当事者にピンポイントでケアの手を差し伸べることが必要なのは、言うまでもない。

 けれど一方で、強い被害者像をもつ少女にもまた、矜持を持つ瞬間があったりもする。かつては矜持をもっていたが、そののち被害的立場に陥った者だっている。

 にもかかわらず、その「業界全体」を語るときに、一律に「セックスワークは不健全な産業」「それしか選択肢がない当事者は、貧しく可哀そうな救済の対象」とされたら、どうだろう?

 彼女らは差別されればされるほど、「あんたらとは違う」の矜持の念を燃え盛らせる。可哀そうと言われることは差別されることと同様の「存在の否定」「かつての自助努力の全否定」であって、だからこそ支援の手をはねのけてしまうことだってあるだろう。自分たちのことを、自分たち不在で議論されることの気持ち悪さもそこにはあるに違いない。

 リスペクトなき憐憫や同情は、差別に等しい。これが、彼女らセックスワーク当事者の、真情だと思う。

彼女らは決して「可哀そう」ではない

 先日、元援デリ&風俗キャストだった女性に、持続化給付金について聞いたら、こんな答えが返ってきた。

「まあ、税金払ってる届け出店に(給付金を)払うべきってのは、分かる。払えよ国。けど、そうやって議論して、例えばそれでコロナで客減ってお茶引いた日の保証(日給保証)がもらえたとするでしょ。もらうもんはもらうよ。でもあたしなら、その金は生活とか子どものためには使いたくない。ホストでその晩に溶かすとか服買うとか、すげー下らないことに使い切っちゃいたいかな」

 可哀そうなんて思われて出た金は、無駄遣いしてしまいたい。自分の生きる金は自分で稼ぐ。業界を上がって数年経ってもこの矜持……。

 果たして現状、セックスワークを語る文脈に、当事者の誇りへの視点は確保できているのか? こうしたメンタリティをもつ当事者を不在で語ることで起きる齟齬、害悪について、改めて考えてほしく思うのだ。

『アンダーズ〈里奈の物語〉』には、児童買春や管理売春の被害者像と、同時に併存する「少女らの矜持」を描く。登場する少女らの生い立ちは悲惨かもしれないが、彼女らは決して「可哀そう」ではない。たとえそれが長続きするものでなかったとしても、その瞬間の輝きは、彼女らにとって何人にも否定できない誇りだ。世にはびこる「貧困ポルノ」に異を唱える、そのリアルな生きざまに刮目してほしい。

(鈴木大介)

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