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山口組からの「要求」を断った作家を襲った“惨劇” 腎臓すれすれ“ドス襲撃事件”の一部始終

文春オンライン / 2021年7月8日 17時0分

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©iStock.com

 山一抗争、山口組五代目体制発足、山竹戦争、宅見勝若頭暗殺、山口組六代目クーデター、分裂抗争……。

 暴力団の数々の事件を第一人者として取材し続けてきた溝口敦氏の新著『 喰うか喰われるか 』(講談社)が話題を呼んでいる。

 ここでは、ノンフィクション作家として日本最大の組織暴力団に真っ向から立ち向かい続けた記録をまとめた同書の一部を抜粋。書籍出版直後に関係者の暴力団員から襲撃された際のエピソードを紹介する。(全2回の1回目/ 後編 を読む)

◆◆◆

連載終了後に組長から電話で呼び出しが

 3月になると「山口組五代」は3月いっぱい、204回まで引き延ばし、すぐその後「竹中武伝」を100回ぐらいの連載でやってくれと桜井局長は言った。私は引き受け、これは武さんを口説き落とさなければならないなと思った。しかし4月になっても「五代」の連載は続き、結局5月6日まで都合233回の長期連載になった。

 山口組の反応としては連載中、若頭の宅見勝から二度ほど自宅に電話があった。彼は山口組執行部を押さえきったと思っているのだろう、声は穏やかだった。

「いったい、どういうつもりで書いてるんだ」

「ちょっと私に考えがありましてね。近々直接お会いして説明しますから」

 と、私は苦しまぎれに答えた。

 宅見と実際に会うことになったら、どうせ渡辺は宅見若頭の傀儡(かいらい)だ、もっとわかりやすく宅見さんがトップになったほうがいいはずです、連載はまあ、そのお手伝いのつもりなんです、とか、いい加減を言ってごまかすつもりだった。だが、その後、宅見から電話がなく、私も宅見に電話しなかった。

 宅見からの二度目の電話はこうだった。

「近々東京に出るから、あんたに会って連載の真意を聞こうじゃないか」と言うのだが、これもそれきりになった。彼は若頭だから忙しい体だった。

 90年5月に連載を終えてホッとしていると、同月半ば、山口組直系組長の後藤忠政から電話があった。至急会いたいと言うので、私は気が重くなったが、一人で新宿ヒルトンホテルのラウンジに出掛けた。妻には「後藤との話し合いが終わったら電話する。夕方になっても電話がなかったら、警察に届けてくれ」と言い置いた。ラウンジは多くの客が利用している。多くの目があるからと思ったのだが、後藤組の若い衆二人が現れ、

「これから親分のいるところにご案内します」

 と車に乗せられた。これはヤバいなと思ったのだが、行きがかりで「車には乗らない」などと言い出せるはずがない。

 が、車を使うまでもない距離に後藤はいた。新宿警察署近くのマンション13階に後藤組系の企業事務所があり、その奥の部屋で後藤は待っていた。私は重苦しい気持ちのまま、彼の前に座った。

「出版は中止してくれ」

 後藤は言い出した。

「山口組の仲間があんたの連載を問題にしている。あんたとは知らない仲じゃないけど、山口組にははねっ返りもいる。あんたにケガをさせたくないし、俺ももう少しヤクザ人生を続けたい。今後山口組について書くに当たっては事前に俺に原稿を見せてくれないか」

 私は連載の記事をもとに、すでに単行本『五代目山口組』の準備を進めていた。原稿はあらかた仕上がっている。本が出た後は山口組について書くつもりがなかったから、こう答えた。なにより予定を隠して、後でもめたくなかった。

「お見せするのは構いません。しかし後藤さんにお見せするより前に、連載の一部を収録して、単行本を出しますよ」と正直に伝えた。

 後藤は「それは困る。本のゲラを見せてくれ」と言った。

「お見せする時間があるかどうか」

 私は一応答えて、考え込んだ。ゲラを見せれば、「これはダメだ、あれを直せ」と収拾がつかなくなる。ヘタをすれば本そのものが出せなくなる。そうであるなら、自分できつそうな表現を改め、変更前、変更後の文章を20本ぐらい用意する。それだけを見せて、後藤にはご勘弁願おうかとチラッと思った。後藤はどうせ山口組の執行部に報告するだろうから、「私が言って、これ、この通り改めさせました」と自分の功績にすればいい。私は虫のいいことを考えた。

「出版を中止するわけにはいかないのか」、後藤が言った。

「それはできません。輪転機がもう回ってますから」と、私はウソをついた。新聞ではないのだから、輪転機はないだろうが、この際、ウソだろうとなんだろうと、使える方便はなんでも使う。

「わかりました。お見せできるように努力します」

 私は答えて、立ち上がった。

 しかし、話が終わって表の通りに出たときにはぐったりした。とんでもない難問を抱えさせられた。とりあえず妻に電話し、後藤との話を終えたことを伝えた。

 2日後、後藤は東海道新幹線の中から電話を掛けてきた。

「ゲラを見せる、見せないでなく、出版を中止してくれ。初版の印税は負担する」

 と言うのだ。

 この要求には頭に血が上った。

「あんたの中止要求を飲めばもの笑いのタネだ。こっちはライター生命がなくなるんだよ、この話は、なしだ」

 と言い返して電話を叩き切った。私の悪いクセで、カッとすると後先わからなくなる。

 予定通り6月付で本を三一書房から出した。

 もちろん三一書房の編集者には山口組とのいきさつを話した。すでに岸優君は三一を辞め、フリーの編集者になっていた。後任の増田政巳さんが担当だったから、彼には出版の前後、山口組が抗議に押し掛けてくるかもしれないと注意した。その場合には警察官に立ち会ってもらったらいい。相手に断った上、テープレコーダーを目の前で回すのもいい、と。ふつう、こんな物騒な注意は逆効果だろうが、さすがに三一は左がかった出版社である。山口組だからといって、とくにびくつくことも、身構えることもなかった。

 本を出した以上、山口組が何か仕掛けてくるだろうと腹を括ったが、同時にそうなれば本が売れてしまう、山口組と渡辺の実態がより広く世間に知れ渡るのだと、私は保険を掛けたつもりでいた。恐怖と緊張でしばらく下痢が続いた。

ついに刺された

 8月2日、本は5刷り、計3万部になったと連絡があった。

 8月29日の夕方、私は小学館「SAPIO」の編集者竹内明彦さん(「週刊ポスト」編集長、「SAPIO」編集長、江戸文化歴史検定協会理事長を歴任、2002年退職)と仕事の打合せを兼ねて食事することになっていた。6時45分、竹内さんから電話があり、7時5分に高田馬場駅近くの焼き肉屋「森の家」で落ち合うことになった。

 私の仕事場は高田馬場にある小さなマンションの3階である。部屋は戸塚警察署の前に出る2車線の道路に面している。6時55分、私は仕事場の電灯を消して部屋をロックし、階下に下りた(外で見張っていた者はこの消灯で、私が外出すると知ったはずだ)。1階に郵便受けがある。配達されていた郵便物を取り出し、ショルダーバッグに収めようとした。

 このとき人の気配に目を上げると、玄関前に白っぽい上下を着た男が立っていた。年のころは30代、スポーツ刈りで眉が濃く、目は大きい。むっつりした表情で玄関内に入ってきた。身長165センチほどか。小太りの男である。

 私は男がどこかの部屋に行くのだろうと思い、道を譲る感じで体を横に開いた。男は私の脇に近づいた後、無言で右手を私の左脇背にぶつけてきた。私の左脇にはショルダーバッグが下がっている。それで相手の手は私の背のほうに回ったのだろう。

 一瞬、熱いと感じたが、殴られた程度の痛みしかなかった。たぶん私はきょとんとした間抜け顔だったろう。刺されたとはまだ思っていない。男はどうだと言わんばかりの目の色をしたが、続けて刺そうとはしなかった。

 私はゆらりと右足を一歩、男のほうに踏み出した。と、はじめて男の目にうろたえの色が走った。おそらく私がまるでダメージを受けていないかのように映り、反撃に出るとでも思ったのだろう。私は高校1、2年まで柔道をしていたから、男より体も大きく、骨格はいい。

 男は玄関を飛び出すと、右手の上り階段を逃げた。この階段は早稲田通りに出る小道になる。反射的に私は男の後を追った。猛烈にダッシュしている男の足の動きが記憶にある。たぶんズック靴を履いていたと思う。もう少し間合いを詰めてタックルすれば、男を倒せるように感じた。

 しかし、同時に頭の中でチラッと警報が鳴った。マンション玄関前は小さな児童公園になっている。そのあたりにこいつの仲間が潜んで、見届け役をやっているはずだ。追い詰めると、見届け役が飛び出し、私は二人を相手にしなければならなくなる。

 怯えていたのか、「待て、この野郎」という言葉が出なかった。ひたすら私も無言、男も無言で走った。階段を上りきると、男は左の小路に曲がった。すぐ明治通りに出る道である。追い切れぬと思い、私はいったんマンション玄関に引き返した。右手を左脇背にやり、指を目の前にかざすと血がついていた。血は少量だった。119番すべきか、竹内さんと「森の家」で落ち合ってから救急車を呼んでもらうべきか迷った。編集者を長いこと待たせられない。結局、ついさっき相手を追った道をたどって、「森の家」に向かった。

背中から出血し、傷口は幅5センチ、深さ10センチ

 背中に右手を当てて歩くうち、血の量が多くなるのに気づいた。早稲田通りに出ると、人通りが多くなる。たいてい高田馬場駅に向かう人である。私は後ろを振り向き、すぐ後ろを歩く30代ぐらいの女性に聞いた。

「私の背中から血が流れていますか」

「ええ、量が多いですよ」

 私はこの調子だと「森の家」まで行き着けぬと思い、途中にある文房具店に入った。いつもチューブ・ファイルなどをまとめて買っている顔なじみの店である。

 ご主人から電話を借りて、自宅にいた息子に、自分が何者かに刺されたこと、近くの店に竹内さんを待たせているから、「森の家」の電話番号を調べて「溝口は行けない」と伝えることを頼んだ。妻はたまたま近所の葬式に出ていて、留守だった。店の奧さんがタオルを出してくれたので、それで傷口を押さえて、その後、119番通報した。

 すぐ救急車が飛んできた。だいたいの事情を聞かれた後、担架ではなく、自分の足で歩いて救急車の中に入った。と、戸塚署の警官が駆けつけ、同じようなことを聞いた。犯人の人相や服装などについてである。救急車の中にも乗り込まれ、聞かれ続けた気がする。

 仕事場と同じ新宿区内にある東京女子医大病院に救急車が着いた。自分で歩けると言ったのだが、車椅子に座らせられた。このときも別の警官が待機していて、同じようなことを聞かれた。私はいらだち、「そのことは別の警官に話した。なぜ入れ替わり立ち替わり同じことを聞くんだ。前の警官に聞いたらどうだ」と突き放した。私は警察からすれば、可愛げのない被害者だった。

 病院ではシャツとパンツをハサミで切られ、麻酔を打たれて傷を縫われた後、集中治療室に入れられた。傷口は幅5センチ、深さ10センチ。刃先が腎臓の上端をかすめていたが、運がいいことに内臓に損傷はなかった。ただ出血量が多く、全身に疲労感を覚えた。私は輸血を断り、食事で回復しようとした。

【続きを読む】もはや「生存できず」…半世紀にわたって暴力団を見続けた男が語る“すべてのヤクザ”に突き付けられた“厳しい現実”

もはや「生存できず」…半世紀にわたって暴力団を見続けた男が語る“すべてのヤクザ”に突き付けられた“厳しい現実” へ続く

(溝口 敦)

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