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藤井聡太二冠が「史上最年少九段」に そもそも、将棋界では「九段」とはどんなポジションか

文春オンライン / 2021年7月5日 17時0分

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棋聖戦五番勝負をストレートで制して、史上最年少九段となった藤井聡太棋聖 写真提供:日本将棋連盟

 第92期ヒューリック杯棋聖戦で藤井聡太棋聖が挑戦者の渡辺明名人を下し、棋聖位を防衛した。史上最年少でのタイトル防衛を果たすとともに、藤井の通算獲得タイトル数は3期目となり、規定により九段昇段も決まった。18歳11ヵ月での九段昇段は、こちらも渡辺の21歳7ヵ月を大幅に更新する史上最年少記録である。

 プロ棋士の段級位は四段から始まり、最高位が九段となる。藤井は段位でも高みに上り詰めたわけだが、そもそも将棋界における「九段」とはどのような立ち位置なのか。その歴史から追っていきたい。

かつては「九段=名人」が不文律だった

 現在の日本将棋連盟につながる東京将棋連盟が結成されたのは1924年の9月8日だが、当時の棋士の肩書をみると十三世名人である関根金次郎(東京将棋連盟の名誉会長でもある)を別格とすると、東京将棋連盟の会長を務めた土居市太郎も八段であり(のちに名誉名人を贈られる)、九段を名乗るものは1人もいなかった。

 なぜかというと「九段=名人」が当時の不文律だったからである。文化7年(1810年)に刊行された「将棋奇戦」には、当時の段位の呼称が以下のように書かれている。

九段=名人
八段=半名人
七段=上手
六段=上手間手合
五段=上手並
四段=強片馬
三段=並片馬
(二段と初段には該当する呼称が書かれていない)

 実力制名人戦が発足し、1937年に木村義雄が名人の座についてからも、長らくこの不文律は生きていた。肩書としての九段が登場するのは1950年である。1948年に始まった全日本選手権戦が再編成され、「九段戦」という名人戦に続く2つ目のタイトル戦が始まった。九段戦は3期獲得すると永世称号の資格を有するとされ、1954年に塚田正夫が「永世九段」の称号を獲得した。

 ただし、現在の日本将棋連盟が発表する永世称号に永世九段はリストアップされていない。また九段通算3期獲得はのちに大山康晴十五世名人も達成したが、「永世九段」の称号は与えられていない。

 塚田がタイトルとしての九段を失冠したのは1956年だが、その後も常に肩書きは「九段」であった。あえて永世九段といわずに九段としたことは、当時の九段という存在が永世称号に匹敵するものとして見られていたからではないかと思う。1977年に現役のまま亡くなった塚田は、名誉十段の称号を贈られている。

九段問題の論議のきっかけとなった第17期名人戦

 現在のような段位としての九段が創設されたのは1958年4月17日である。その九段昇段規定は「名人三期以上在位した者、在位二期でも順位戦の成績抜群の者」だが、なぜこのような規定が作られたのか。この年の第17期名人戦で升田幸三名人に挑戦者として名乗りを上げた大山をめぐって、その処遇が問題とされたのだ。山本武雄九段著の「将棋百年」に以下のような記述がある。

〈かくして、大山前名人は復仇を期して、升田名人と対決することになったが、問題はその処遇である。「前名人の呼称は一年限り」という約束から、八段として名人戦にのぞむはずだが、すでに「永世名人」の資格も取っていれば、九段のタイトルを二期、ほかにも数々のタイトルを獲得している人を、たんなる八段とすることは、常識的に考えても出来かねる話で、これが発端となって、九段問題が論議され、関係新聞社と話し合いのうえで、従来、全日本選手権戦の優勝者にだけあたえられていた九段位の門戸が開放され、新たに「九段贈位規定」が制定された〉

 この規定により升田、大山の2名が九段に昇段した。補足すると、当時の三大タイトルの残る一つである王将を大山はこの年の3月29日に升田から奪回している。そして第17期名人戦の挑戦者が決まったのはプレーオフの末の4月12日だった。もし大山がもっと早くに王将を奪回していたら、あるいは名人挑戦権を早々に逸していたら、この時点で九段昇段規定が作られていたかどうかは「歴史のイフ」だろう。

将棋界と囲碁界の九段の“差”

 将棋界の九段は長らく塚田、升田、大山の3名という時代が続いたが、1973年に規約が改訂された。昇段の条件が緩和され、「九段昇格規定30点」と「タイトル3期」の2つが加えられた。タイトル3期のほうはわかりやすく、現在まで継続している規約だが、前者のいわゆる30点規定について補足すると、棋士の実績を

〈タイトル獲得期数×3+タイトル挑戦回数+一般棋戦優勝回数+A級以上在籍年数〉

 という数字で計算して、その点数が30点に達したら九段に昇段するというものである。

 この規定改訂により、1973年11月3日に丸田祐三、二上達也、加藤一二三、中原誠の4名が九段に昇段した(30点規定では、のちに米長邦雄と有吉道夫の2名が九段に昇段している)。そして、1974年2月4日に内藤國雄が九段に昇段したのが、タイトル3期による初の昇段だった。

 規約改訂の背景には、囲碁界と比較して将棋界の九段は少なく、八段の将棋棋士が九段の囲碁棋士と同席した際、段位によって待遇に差をつけられることがあったため、将棋界も九段を増やそうという動きがあったのが要因とされている。

「名人に香を引いて勝った自分が並の棋士と同格か」

 そして、この新規約に反対したのが升田で、九段返上を申し出たという(これは「保留」という形で一応の解決をみた)。いわく「囲碁界に弱い九段がたくさんいるのを真似する必要がどこにあるのか。九段は本来名人の段だ」。

 升田の反対には「名人に香を引いて勝った自分が並の棋士と同格か」という不満もあったとされているが、歴史は繰り返すといったもので、この50年ほど前に同様のことが起きている。いわゆる阪田三吉の「名人僭称問題」だ。

 1925年に阪田は京阪神の財界有力者に推されて「名人」を名乗る。これは当時の東西の対抗意識が一つの要因とされているが、もう一つの要因は八段の増員にあった。

 前述の通り、当時の棋界は名人を除くと八段が最高位であるが、1924年の東京将棋連盟創設時に八段の資格を持っていたのは阪田と土居の2人しかいなかった。だが東京将棋連盟の結成に貢献した木見金治郎、大崎熊雄、金易二郎、花田長太郎が褒賞として八段へ昇段し、このことに阪田は不満を持ったことが名人を名乗ることにつながったともされる。

 当時の八段には免状発行権があり、これが大きな収入源となっていた。八段とそれ以下の違いは、現在のA級とB級1組以下の差とは比較にならないほど大きかったと思われる。八段が増えることは自身の生活権の侵害でもあったのだ。

藤井の肩書が「九段」になる日はいつ来るのか

 その後、1984年に現在の勝ち星昇段規定が導入され、同時に30点規定は廃止された。相当に大きな制度改革だったと思うが、当時の将棋専門誌ではあまり触れられている様子がない。昭和59年版将棋年鑑にて「59年4月1日付で新昇段制度が制定された」と書かれているくらいである。

 また新昇段制度は九段昇段について以下のような一文があった。

「名人獲得は1期で九段を認め挑戦者はこれをタイトル1回と同様で扱う」。

 ただ、実際にタイトル2期+名人挑戦1回という実績で九段に昇段した棋士はいない。該当する棋士は数名いたが、それ以前に勝ち星規定で昇段している。直近では豊島将之竜王が通算タイトル2期の時に名人挑戦権を獲得したが(2019年3月1日)、その時点では九段に昇段していない。よって、上記の一文は現在では廃止されているものと考える。

 現在の九段昇段規定は、「竜王位2期獲得」「名人位1期獲得」「タイトル3期獲得」「八段昇段後公式戦250勝」の4つ。他に引退棋士や物故棋士に九段が贈られることがあるが、まず現役時代に八段へ到達している必要がある(現役時代に七段以下でのちに九段を贈られたのは山本武雄九段のみ)。

 現役のまま九段昇段を実現したのは、1954年の塚田から数えて藤井が66人目となる。だが、藤井の肩書が「九段」になる日は来るのかというと、現時点ではちょっと想像がつかない。九段の資格を得てから実際に名乗るまでの期間が最も長かったのは羽生善治九段の24年で、渡辺の16年(継続中)が続いているが、藤井はいつまでタイトルを持ち続けるだろうか。

(相崎 修司)

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