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「自宅にSMAPが勢揃い」「レギュラー12本で移動はヘリ」芸人・森脇健児が明かした“バブル期バラエティ”の栄光と挫折

文春オンライン / 2021年7月17日 11時0分

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29歳のころの森脇さん(所属事務所提供)

 全盛期はレギュラー12本、移動はヘリコプター……。バブル経済の余韻があった1990年代前半に大阪から破竹の勢いで東京に進出し、全国区の人気を誇っていたのが、芸人の森脇健児(54)だ。

 冠番組『夢がMORIMORI』(フジテレビ系、1992~95年)は、SMAPが“国民的アイドル”となるきっかけの一つとなり、ジャニーズのバラエティ進出の起点となった番組とも言われる。その森脇に、当時の華やかなバラエティ界の様子、若き日のSMAPとの思い出から、全レギュラー番組を失って大阪に戻る顛末までを聞いた。(全2回の1回目/ #2を読む )

◆◆◆

「どこかで『こんなはずはない』と思っていた」

――1990年代初頭からの7年間、東京に拠点を置いた森脇さんは大変な人気でした。レギュラー番組は12本、フジテレビの「月9」ドラマにも出演。海外で撮影された吉田栄作さんとのCM・男性化粧品「GATSBY」も話題になりました。当時はまだ、バブルの残り香があった時期でしたね。

 

森脇 あの頃はスケジュールの都合で、本当にヘリコプターで移動することもあったんですよ。ドラマの打ち上げも豪華で、ディスコやカラオケ店を全館貸し切る時代でした。CM撮影で海外に行った時には、家にリムジンバスで迎えにきてくれた。乗り込むと車内にはシャンデリアがついていて、ブランデーまで用意してある(笑)。バンコクでもVIP専用のイミグレーションで、一般の人の列に並ばず入国できたのを覚えてますね。新幹線でも、そのままホームに出ると人が集まって危ないからと、新大阪駅の駅長さんに「そこで新幹線くるまで待っていて」と、貴賓室で待機させられてました。

――まさに華やかな芸能界を思わせるエピソードですね。森脇さんもご自身の人気を実感したんじゃないですか?

森脇 ただ忙し過ぎて、たとえば『夢MORI』が、世の中でどういう存在になっているのかわからなかったんです。収録現場ばっかりだから世間の方との接点がない。リアルタイムで「人気あるな」なんて感じたことないです。とにかく無我夢中。神輿の上に乗せられて、ワッショイワッショイという状態ですから。当時の自分のモットーは「我に返らない」。ブレーキのない車に乗って、アクセルを踏み続けるみたいな感じでした。どっかで「こんなはずはない」と思ってましたね。

芸人とジャニーズの共演は珍しかった

〈1992年4月にスタートした『夢がMORIMORI』のレギュラー陣は、森脇と森口博子に加えて、当時売り出し中だったSMAPの中居正広、木村拓哉、稲垣吾郎、森且行(のちに脱退)、草彅剛、香取慎吾。ジャニーズアイドルが本格的にバラエティ進出を始めた最初の番組とも言われている〉

――『夢がMORIMORI』が、その後のバラエティに与えた影響は大きい気がします。そもそも、芸人とジャニーズが共演するバラエティ番組は珍しかったですよね。

森脇 当時、僕みたいな松竹芸能所属の芸人がジャニーズさんと仕事するっていうのは、あまりなかったですから。ジャニー喜多川さんが避けていたのかもしれないですね。

 そもそもの始まりは、テレビ朝日の『アイドル共和国』(1989~91年)。SMAPを中心とするアイドルがいっぱい出演する中で、僕と光GENJIの内海(光司)くんが3代目の司会を務めたんです。SMAPとは、『桜っ子クラブ』(1991~94年)って番組名に変わってからも、そのまま共演して『夢MORI』へと続く。お笑いタレントがジャニーズさんと絡む番組っていうのは、それ以前はほとんどなかったと思います。

「SMAPを平成のドリフターズにする」

〈『ザ・ベストテン』(TBS系)といった歌番組が軒並み終了した1990年代初頭、アイドルはプロモーションの場を失っていた。SMAPが新たなアイドル像を作り上げる必要があったのは、こうした時代背景も大きい〉

 

――SMAPは、『夢がMORIMORI』で、ミュージカルコント「音松くん」や、ドラマのパロディに挑戦したことでも注目を浴びました。

森脇 まだフジテレビが河田町にあった頃でしたが、1発目の収録でジャニー喜多川さんが現場にいらっしゃってました。そのとき、番組のスタッフと「SMAPを平成のドリフターズにするんだ」と話されていたのを直接聞いたんです。あの頃は光GENJIや少年隊、忍者などが活躍していて、そのバックでSMAPが踊っていた時代。そこで「次に何か新しいことを」と考えた時、ジャニーさんの中でバラエティっていうのがピタッときたんじゃないですかね。

 SMAPの6人はとても優秀なタレントで、僕はメンバー全員が好きでした。なぜかと言うと、みんなマジメなんです。コントを作る時にもスタッフの言うことを真剣に聞いていて、「アイドルって、こんなマジメなんか」って感心したのを覚えてます。それに6人とも仲がよかった。森口さんもSMAPをすごく受け入れていました。

『夢MORI』では、トークもやったし、スポーツもやったし、コントもやった。その後の仕事を考えると、彼らにとっても原点だったのかもしれませんね。番組を続ける中で、ドラマや映画の仕事も増えてSMAPはどんどん人気者になっていきました。

――当時はバラドル全盛の時代。『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』(フジテレビ系、1989~92年)の流れを、森口さんが引き継いだイメージもありましたよね。

森脇 それはあったんちゃいますか。当時、彼女がムチャクチャ忙しかったのを覚えてます。森口さんも芸能界でしか生きていけない人でしょ(笑)。幼少の頃から歌手になりたくて、のど自慢の番組に出たりもしてますし。これまでいろいろあったんでしょうけど、それでも芸能界でずっと一生懸命やってますよね。

 SMAPも売り出し中だから忙しかったし、言うてる僕もお陰様で当時はピーク。ムチャクチャ忙しかった。そんな中、『夢MORI』に行くとなぜかホッとしてました。仲間とか家族に会うような気持ちでしたね。

「吉田栄作さんに影響されて…」

――『夢がMORIMORI』のメインコーナー「スーパーキックベース」は子供たちの間で流行しました。後のスポーツバラエティの流れを作ったようにも感じます。

森脇 駆け出しのSMAPが一緒だったこともあって、スポーツを入れようとなったんだと思います。僕も学生時代は陸上競技をやってましたし。今振り返ると、男の子も女の子もできるスポーツだし、「授業にこういうのがあったらいいよね」とスタッフから提案されたんですよね。

――同番組では、森脇さんがプロボクシングのライセンス取得に挑戦したことも話題となりました。当時、バラエティ番組としては異例の企画でしたよね。

森脇 これにはきっかけがあったんです。「GATSBY」のCMで吉田栄作さんと海外ロケに行ったときに、彼の身体がムキムキでビックリしたんです。「どれだけ僕はサボってたんだろう」と反省して、帰国してすぐにボクシングジムに向かいました。1年ぐらい通った頃に、ちょっと体付きがきれいになってきて、スタッフから「プロテスト受けるんだったら番組で追い掛けますよ」と言われたことで企画が持ち上がったんです。

 それまでの週2回だったジム通いが、元WBA世界ジュニアウェルター級王者の平仲(信明)さんに教えてもらった半年間は、ほぼ毎日。本格的なスパーリングをはじめ、練習内容がどんどん変わっていきました。当時、すでに(片岡)鶴太郎さんもボクシングやっていましたけど、まだ若い25、26歳の僕みたいなタレントがそういう挑戦したことで少し話題になったのかもしれないですね。

「僕らはゴリゴリのバラエティでは太刀打ちできない」

――半年間のボクシング企画はなかなか過酷ですよね。

森脇 あの企画は『夢MORI』が始まってしばらくして、20代後半に差し掛かるタイミングでした。僕自身もタレントとして下降気味だと肌感覚でわかってきた頃。「ここで何かに無我夢中になって自分を追い込まないと、芸能界の居場所はなくなる」と感じていたんです。それで、ボクシング企画を受けることにしました。

 プロテストに受かれば、芸能界における自分のポジションが変わるかもしれない。そう考えていた時点で、ピークが過ぎていたんでしょうね。その頃は、まだレギュラーの仕事はあったんですよ。ただ、自分の感覚としては終わっていた。だから、汗かいて、ベソかいて、恥かいて、ボロボロになって……そういうのをテレビで見せないと、って感じたんだと思います。お正月もクリスマスもゴールデンウイークもお盆も、ずっとボクシングジムに行ってサンドバッグ打っていましたね。

――その真剣さは当時のバラエティの見せ方としては異例で、後に人気番組となった『めちゃ×2イケてるッ!』(フジテレビ系、1996~2018年)の岡村隆史さん「オファーシリーズ」のような挑戦企画の先駆けだった気もします。

森脇 『夢MORI』は、そういう新しいことをやらなければいけないっていう意識があったんでしょうね。当時、山田邦子さん、ダウンタウンさん、ウッチャンナンチャンさんっていう錚々たるタレントの冠番組があった中で、僕らはゴリゴリのバラエティでは太刀打ちできない。森口さんとSMAPと僕で、「何か新しい方向からやれないか」とスタッフさんが考えてくれた結果だと思います。それが『めちゃイケ』のひな型になったかどうかはわかりません(笑)。ただ、後に『めちゃイケ』(当時は『とぶくすり』)のレギュラーになる、ナイナイやよゐこが、早い段階でスーパーキックベースに出演してくれたのは覚えています。

SMAPに伝えていた「腐ったらダメ」

――番組の共演当時、プライベートでもSMAPのメンバーと交流があったそうですね。

森脇 中居くんとはプライベートでプロ野球の日本シリーズも見に行きました。東京ドームの巨人対西武、やったかな? 9回に屋鋪要がセンターライナーをダイビングキャッチした試合です。中居くんが巨人ファンで喜んでいたから、よく覚えてます(笑)。

 

 あと、目黒にある僕の自宅マンションにSMAPがきて、よく食事はしていましたね。メンバー全員で来るから、うちの奥さんがビビッてましたよ。みんなでスーパーに食材の買い出しに行くんですけど、SMAPは若くていっぱい食べるから安い肉にしてもらって、僕だけちょっといいお肉でワインとか飲んでた(笑)。終わると、奥さんが車を運転して、SMAPのメンバーを自宅に送っていました。

――森脇さんのご自宅で食事をしながら、SMAPを励ましたこともあるそうですね。

森脇 当時、ジャニーズの中でSMAPだけがデビューシングルで週間オリコンチャートの1位になれなくて、その後もなかなか日の目を見なかったんですよ。そんな中で、12枚目のシングル「Hey Hey おおきに毎度あり」を出すって時に、「ジャニーさんが1位獲れるって言うてはるから信用して頑張りや。腐ったらダメ」って言ったのは覚えてます。実際に、その曲で初めてトップになったんですよね。

 このエピソードは『ナカイの窓』(日本テレビ系)に出た時に、中居くん本人にも話したんですけど「記憶にない」って言われました(笑)。その後の彼らは破竹の勢いで、新曲を出せば全部1位みたいな感じ。今振り返ると、すごい瞬間に立ち会ったんだなと思います。

――1995年の『夢がMORI MORI』終了後、間もなく始まった『SMAP×SMAP』(フジテレビ系、1996~2016年)でSMAPは不動の人気を獲得します。一方、森脇さんはレギュラー番組がなくなって東京を去り、関西に戻ります。森脇さんは当時の状況を、どう感じていたんでしょうか?

森脇 SMAPの活躍はすごく嬉しかったですね。どんどんスターになっていきましたから。森口さんも、その後も相変わらず紅白歌合戦に出たりと活躍していた。一方、自分は仕事が激減して関西に戻るわけですけど、それでも当初は「地道にやってたら、もしかしたらもう一度東京で……」っていう淡い期待をもっていました。

 それから『夢MORI』メンバーとの共演はしばらくなかったんですけど、後に『SMAP×SMAP』や『ナカイの窓』に呼んでくれました。今年の元日も、『7.2 新しい別の窓』(AbemaTV)に森くん、草彅くん、香取くん、吾郎ちゃん、森口さんが出られて、僕も関西からリモート出演しました。ありがたいことです。今の自分があるのも、SMAPのみなさんのお陰ですよ(笑)。

( #2に続く )

「ダウンタウン全盛期は自分のことで一杯一杯で…」東京の全レギュラーを失って関西に戻った芸人・森脇健児の“本音” へ続く

(鈴木 旭/Webオリジナル(特集班))

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