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話題の『テスカトリポカ』。古代アステカの人身供犠と現代社会のダークサイドが浮彫にした人間の本質とは?

文春オンライン / 2021年7月17日 10時0分

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©松本輝一/文藝春秋

「人間は“生贄”を選びたがる。それは五輪でも」新直木賞作家・佐藤究が凄惨な暴力描写に込めた思い から続く

『テスカトリポカ』(佐藤究著)の直木賞受賞を記念して、過去に行われた著者インタビューを掲載する(初出: 別冊文藝春秋 電子版37号 (2021年5月号) )。

◆◆◆

――3年半ぶりの新作『 テスカトリポカ 』、大変面白く拝読しました。メキシコのカルテル一族のバルミロ・カサソラが麻薬抗争で家族を殺され、一人国外に脱出。辿り着いたジャカルタで日本人の臓器ブローカー末永と出会い、臓器売買ビジネスを企て日本にやってくる。彼らの犯罪に巻き込まれるのは天涯孤独の少年、土方コシモで……。この濃密で圧倒的な熱量の大作を3年半で書き上げたとは驚きです。

佐藤 自分でも10年くらいかかるかと思いました。2017年に編集者から、「次はクリストファー・ノーランの『ダークナイト』みたいな話に挑戦しませんか」と言われたんですよ。そうはいってもバットマンやジョーカーを出すわけにはいかないし、大変じゃないですか(笑)。でも、もともとクライムノベルは好きなんです。一番好きなのはコーマック・マッカーシーの、映画『ノーカントリー』の原作なんですけれども。

――『血と暴力の国』ですね。

佐藤 原作も映画も好きで、自分がノワールをやるならあのレベルに到達したいなと思って。マッカーシーにはアメリカとメキシコの国境を渡る国境三部作もありますし。

――『 テスカトリポカ 』でもメキシコは重要な舞台のひとつです。バルミロは先住民の血を引く祖母から、アステカの神話や人身供犠の儀式について教え込まれている。アステカについては前から詳しかったんですか。

佐藤 マヤ文明に関してはたくさん文献があるのに、アステカってエグいから研究書があまりないんですよ。だから今回のために勉強しました。

――アステカには神に、人の心臓を献上する儀式があった。それがバルミロと末永が画策する心臓売買と重なっていきますね。

佐藤 スコット・カーニーの『レッドマーケット 人体部品産業の真実』を読んで、臓器売買にも興味を持っていました。人間の臓器が世界でどういうふうに売りさばかれているかということに迫ったノンフィクションで、これはすごいなと思って。

 同じ時期に、マーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム』という資本主義のダークサイドを批判している本を読んだら、マイク・デイヴィスという批評家がジェイムズ・エルロイを批判した文章が引用されていたんです。ノワールの世界でエルロイは神格化されているじゃないですか。でもデイヴィスは、エルロイの小説は社会のダークサイドを善も悪もなく、ただ垂れ流すように描いていて、その結果、腐敗や汚職の過剰飽和を引き起こしたと。

 ある意味、今年の一月に連邦議会議事堂を占拠したような過激なトランプ支持者のバックボーンに近い。“陰謀がすべてを動かしている世界で、俺たちだけが見えざる敵と闘っているんだ”という考え方を生んでしまった。デイヴィスの見方に従えば、フィクションは最終的にQアノンみたいな陰謀論を生み出す土壌にもなっていく、といえるんです。

 久々に鈍器で殴られたような衝撃を受けました。小説家はエフェクト中毒になっているところがあって、僕も爽快さを出すために小説で暴力を描くけれど、それが最終的にQアノンを生み出す原因になるのかもしれない。だとしたら、もう一度、自分の仕事を考え直さなきゃいけないなって。

 そこで、デイヴィスの問いかけに対して僕自身はどう答えるのかを突き詰めて考えた結果、浮かんだのが人身供犠の問題でした。神に心臓を捧げる古代アステカの人身供犠と、利益のためには犠牲も厭わない現代の資本主義が、深いところで繫がったんですね。それが2018年くらい。

 自分の勘としては正直「もうやめておけ」って話ですよ。やばいだろう、書けないだろうって。でも、やらざるを得なかったんです。暴力を描きながら、同時に暴力を解除する、無効化するための道筋を入れること。それこそを描かないといけないんだけど、それが本当に難しかったですね。

――ああ、暴力シーンを読んだ時、迫力もあるし残酷だけど、悪趣味じゃないなって思ったんです。

佐藤 僕はボクシングや格闘技をよく見るんですけれど、本物って一瞬で決着がつくんですよね。野生動物の狩りに似ている。ライオンの狩りって、見ていて可哀想だけど、相手が憎くてやっているわけじゃないし、陰惨じゃないんですよね。メキシコの麻薬カルテルの陣の取り合いも同じで、感情や恨みによる行為とはまた違う。まあ、やっていることはだいぶエグいですけどね。

 今回、カルテルとか麻薬密売人を調べていて、初めて夢にうなされました。今までどれだけバイオレンス描写にあたってもそんなことはなかったんですが、麻薬密売人はちょっと次元が違って、書けないような暴力が多いんです。でもアステカの人身供犠や、日本の村で龍神様を鎮めるために娘の命を差し出すといった儀式だって実は同じ構造で。地球上の様々な地域で人間は同じことをやってきたんです。

――本作では、バルミロ、末永、コシモをはじめ、さまざまな人間の来し方と、彼らの運命がどう絡み合うかが丁寧に描かれます。緻密にプロットを組み立てられたのでしょうか。

佐藤 僕は昔から、プロットではなく、ゲシュタルト(形態)という言葉を使っていて。いつも最初に、ゲシュタルトブックというのを作るんです。スケッチブックに、本で読んだ情報なんかをコラージュしていく。シュルレアリスムでもデペイズマン(異質な環境に置く)という手法がありますよね。

 僕の場合、たとえばページの上にアステカの資料や絵や地図を貼って、下には現代メキシコの資料を貼る。フェリーやクルーズ船の資料を貼った下には児童虐待の資料を貼るなど、全然違うものを並べていく。それをずーっと見ているうちに、透かし絵のように見えてくるものがある。

 見えた世界が現実だと自分で思えるまでに時間がかかりますが、ゲシュタルトブックの仕上がりが良ければ後は勝手に話が出てくるので、長いものも書けるんです。『Ank : a mirroring ape』の時のゲシュタルトブックは2冊でしたが、今回はその倍以上になりました。

 あとは登場人物のプロフィールを事前に作ります。円グラフみたいなのを描いて、好きな音楽とか食べ物とか書きこんだりして。ただ、主人公のコシモは、登場時間が長く、作中で伝えられる部分も多いので、逆にそこまで綿密に作りませんでした。これはコシモのモデルのジ・アンダーテイカーという、去年引退したアメリカのプロレスラーの人形(下の写真の上参照)なんですけれど(と、モニター越しにフィギュアを見せる)、自作のアステカの武器を持たせてます(笑)。

――うわ、半端じゃないマッチョ! 髪の長さとか刺青とか、読んで想像した通りです。コシモの物語は彼の幼少時代から始まりますが、屈強な青年に育っていくんですよね。

佐藤 コシモの肉体は最終的に、ジ・アンダーテイカーの身長と体重に合わせています。

――コシモが育った場所としてだけでなく、その後バルミロたちのビジネスの拠点として、川崎が重要な舞台になりますね。

佐藤 構想段階から、川崎と東京を隔てる多摩川の六郷橋で、何かが激突しているビジョンがあったんですよ。『ダークナイト』に応じていると思うんですけれど。それで、終盤にそうした場面を書きました。

 川崎に住んでいる不良たちにとっては、多摩川とあの橋が自分の世界と東京とを分けているんですよね。それはアメリカとメキシコの国境に似ている。アメリカにとってメキシコは行って帰ってこられる観光地ですが、メキシコ側の人間にとっては、アメリカは一発勝負をかけて向かう場所。

犯罪集団って、グローバルで合理的なんです

――コシモはメキシコから来た女性と日本人の男性の間に生まれた子どもです。彼の母親がなぜ日本に来たかというところから物語は始まります。一方、バルミロはメキシコから脱出し、南米から密航してアフリカを経てジャワ島にたどり着く。あの行程も、ものすごく面白くて。ジャワ島での生活ぶりも現実味があって、佐藤さんって世界中を回ったバックパッカーだったのかと思ったくらい。

佐藤 僕自身はそんなに回っていないけれど、まわりに世界中を回っている知人がいるんです。『クレイジージャーニー』で有名になった危険地帯ジャーナリストの丸山ゴンザレスさんとかが、リアルな情報をくれる。屋台での頼み方なんかを教えてもらっているうちに、自分も世界を回ってきたような気になる(笑)。

 バルミロのメキシコからの脱出ルートについては、英語サイトで公開されている世界の麻薬犯罪の地図を参考にしました。バルミロがいきなり日本に来るのはおかしいな、とか。ヘロインやコカインの広がり方を知ると、僕らが思っている以上に犯罪組織はグローバルだと分かるんです。

――バルミロたちが関わる犯罪組織も中国人の集団がいたりテロリストがいたりして。彼らの通信アプリやテクノロジーを駆使した金銭のやりとりも驚きのリアルさでした。

佐藤 ああいうのも友人がいろいろ教えてくれるんです。犯罪組織はひたすら合理的に人の裏をかくことだけを考えているし、変な意味で真面目だし、ちょっと間違ったらすごく優秀なビジネスマンになるような連中の集団なんですよ。バルミロがジャカルタにいる時に世界のニュースを入念に読むシーンを書きましたけど、本当にあんな感じだと思いますね。

――そこでバルミロが出会う日本人が末永。彼は金儲けというより、とにかく心臓手術がしたいんですよね。それがすごく不気味というか。

佐藤 末永は、見かけは爽やかなスポーツマンタイプで、中身は怪物ってパターンですよね。バルミロはアステカの神に捧げる心臓に執着があり、末永は現代の資本主義側の、人身供犠主義のひとつの形として心臓に執着しているんです。

――彼らは日本で児童の心臓売買を企てますよね。子どもの集め方や、船を使ったやりとりなどの計画も巧妙ですね。

佐藤 かなり周到に考えました。ある意味、クライムノベルを書くっていうのは、新しい犯罪を作り出すってことなんですよね。だから考え方もどんどん犯罪者っぽくなっていく(笑)。そういうオーラが出ているのか、僕、常に職質受けるんですよ。

 きっと目つきが悪いんだろうなと思っていたんです。でも先日、池袋で後ろから肩叩かれて、振り向いたら警官が2人いた。顔すら見てないのに……。もう、面ですらなく、存在そのものが職質の対象なんですね(苦笑)。あれで持っていた資料まで見られたらやばかったですね。コカインの販売ルートとか書いてあったから。

 作中で、彼らの犯罪に船を使ったのは、船籍が違うと日本の警察がいきなり入っていけないという利点があるからなんです。それに、心臓病の患者さんって、気圧の変化がNGだったりするんですよ。心臓移植のために海外に行くにしても、飛行機より船で行けるならそのほうがいい。大型クルーズ船なんかは設備がすごくて揺れないらしいんですよね。だから現実的だと考えました。

資本主義社会の「原理主義者」たち

――闇医師の野村は別として、コシモや、ナイフ職人のパブロ、保育士の宇野矢鈴のように犯罪と知らずに加担する人も出てきて、彼らの運命が交錯していく。宇野は麻薬中毒者でもありますが。

佐藤 ブラックだったりグレーだったりする人も悪人とは限らない。ただ、資本主義のなかで生き残ることだけを考えている。これをフランスの哲学者のピエール・ルジャンドルはマネージメント原理主義と呼んでいますね。

 話せば普通だし、誰かが怪我すれば助けてくれるような人でも、とにかく原理主義なんですよね。現代に生きていると、みんなレベルの差はあれマネージメント原理主義の部分がある。そのトップに麻薬王のような人間がいて、下のほうに宇野矢鈴のような人間がいる。

 ただ、彼女は、そこに巻き込まれる善人として出したわけではないです。今、巷でたくさんドラッグの問題があるじゃないですか。芸能人のコカインくらい別にいいじゃないかという人もいるけれど、その裏でメキシコでとんでもない麻薬戦争が起きている。そうして人が死んだ結果、パッケージに入ったドラッグが日本にも届いているんだってことは伝えないといけないと思いました。

 麻薬じゃなくても、自分が買っている商品が、いろんな問題を抱える経路をたどってきたものだったりしますよね。そういうことに対しての想像力を与えるのがフィクションのひとつの仕事でもある。コカインをやったからって人格までは否定しないけれど、どんな人間にお金が流れているのかとか、そういうことは知っておいたほうがいい。それを知っていると、その道に踏み出さずに済むというのもありますから。

――読むうちに、彼らはそんなにお金を儲けてその先に何があるんだろうと思ったんです。何かのためにお金を稼ぐのでなく、金儲けが自己目的化している、それが今の資本主義なんですね。

佐藤 おっしゃる通りだと思います。昔、サッチャーが新自由主義以外の選択肢はないという言い方をしていましたが、善悪に関係なく「このゲームに勝つしかない」「だからどんな手を使ってでもお金を儲けよう」、そう考える人が、現実にいる。

 厳密には後期資本主義って言うらしいですね。前期資本主義では労働者がいて工場長がいてその上に資本家のオーナーがいた。今は、SNSもそうですけれど、みんながマーケターとか、CMプランナーみたいな発想になっているじゃないですか。知り合いの社長が言ってましたけど、最近は若い人たちのビジネスの考え方がエグいらしいです。金さえ儲かればそれでいいという。迷惑系YouTuberとかもそうですよね。

 文学のような美学に属する分野でも、普通にマーケティングという言葉を使う人がいる。リサーチをしてどう売るか考えるのは間違いではないけれど、そういうことに何の恥じらいもない人が、老いも若きも、すごく多いですよね。数の力で勝つことが目的で、それ以外はもう敗北という発想を植え付けられている気がします。それはもう、マネージメント原理主義ですよ。

人間は自分の「分身」と闘い続ける

――そんななか3年半をかけて、ここまでがっつりした読み応えのある小説を書いてくださって、一読者として嬉しかったです。

佐藤 これに集中するために、他の仕事をお断りするじゃないですか。他の作家に「そういうの、怖くないんですか」って訊かれたんですよ。みな仕事を断ること、忘れられていくことに対する恐怖感がすごくあるし、人の目をすごく気にしている。僕はどっちかっていうと忘れられたいほうなんですよ。「佐藤究って奴がいたけどあいつ今どうなったのかな」みたいに言われたい。

 でも、小説でも音楽でも、資本主義のなかで勝ち上がるのが正しいっていう風潮がありますね。実際、ある程度生活はできたほうがいいんでしょうけれど、僕は自分の作家としての人生設計なんて本当にどうでもいいんです。

 どっちかっていうと、物書きってドロップアウトして何もやることがない人間がなってきたものだと思うんです。エドガー・アラン・ポーが原因不明の野垂れ死にをしたとか、ハーマン・メルヴィルがずっと食えなかったとか聞くと興奮しますね。

 僕は、さっきも言った丸山ゴンザレスさんとか、ルポライターで漫画家でもある村田らむさんといった、一見すると無謀なことをしている人たちに昔の作家のオーラを感じます。飄々としながらも、酷いものをたくさん見てきている。どん底を知っている人たちは自然と他人に優しくなるんだなと、彼らから学びましたけど、僕の中の作家って、そういうイメージです。

――佐藤さんの作品にはドロップアウトした人や、裏社会や闇の組織がよく出てきますね。

佐藤 元特殊部隊の方とかから、表に出せないことをいろいろ聞くんです。僕らがニュースで知っている事柄はほんの少しにすぎなくて、彼らには違う景色が見えていたりする。そういうところに興味があるんでしょうね。

――どの作品からも、人間とは何か、人間の営みとは何かへの興味を感じます。

佐藤 『QJKJQ』では、人はなぜ人を殺したいのかという問いに、鏡というものを使って答え、『Ank : a mirroring ape』では自己鏡像認識が暴力の連鎖を生むことを書き、今回は、人間の本質を黒い鏡に託して書きました。『QJKJQ』は鏡像反転を表したタイトルだし、『Ank』でチンパンジーの名前の由来になった言葉は古代エジプト語で“鏡”、『テスカトリポカ』は“煙を吐く鏡”の意味で、一応、僕の中では鏡三部作の完結篇として位置付けています。

 特に今回描きたかったのは、分身について。ルネ・ジラールの『世の初めから隠されていること』という哲学書では、人身供犠について考察されているんですね。そこに鏡という構造の話が出てくる。基本的に、争うのは分身同士だっていうんです。

 例えば、ボクシングの世界チャンピオンは棒高跳びの選手とは競わず、ボクサー同士で闘いますよね。人間は自分と似ていない相手とは競わない。鏡像になっている者、つまり分身同士が徹底的に闘うのが人間の世界なんですよ。どちらかしか生き残れないから、分身をやっつけなきゃいけない。でも世界は分身だらけで、分身をやっつけてもまた別の分身が出てきて、また闘わなくちゃいけない。だから麻薬密売人たちは徹底的に闘い続けるんです。

 ルネ・ジラールは、古来よりその争いを止めてきたものこそが人身供犠で、次元の違う誰かを血祭にあげてトランス状態を起こしてきたというんです。その説明はすごく分かりやすかったですね。考えてみればSNSの炎上も同じで、生贄を作り出そうとしているとしか思えない。

 ミシェル・フーコーは18世紀の自由主義が今の資本主義の基盤になっていると言っている。彼は「世俗化」という言い方をするんですけれど、いろんな宗教とか思想の要素が俗になったというんです。ルネ・ジラールも、分身の最も世俗化した言い方が「同業者」なんだろうって言っている。だから人は同業者に嫉妬するし、憎いし足を引っ張ろうとする。それを読んで以来僕は、簡単に「同業者」って言葉を使わないようにしています。

――そう聞くと、人間の営みはもう、争いと暴力から切り離せないですね。

佐藤 マッカーシーの『ブラッド・メリディアン』に、印象に残っている台詞があるんです。この世には最初に戦争というものがあった、と。戦争が、自分を使ってくれる最高の存在を待ち望んでいて、そこに人間が現れた。何か大きな心の構造があって、その中で人が知らず知らずのうちに踊らされている感じがしますね。人間は人間でないものについて考えないと、ここから出られない。

 あとは、暴力とエンターテインメントにも密接な関係があるんじゃないかなと。『時計じかけのオレンジ』や北野武さんの映像作品とかもそうですが、新しい暴力のスタイルが出てきた時に、新しいエンターテインメントの形が生まれている気がするんです。

青春期に突きつけられた階級社会と、言葉の恐ろしさ

――エンターテインメントとおっしゃいましたが、佐藤さんはもともと別名義で小説を書かれていて、2004年に『サージウスの死神』で純文学系の群像新人文学賞からデビューされていますよね。その後、2016年に『QJKJQ』で江戸川乱歩賞を受賞している。小説を書くきっかけというのはどこにあったのでしょうか。

佐藤 うちは、親父が福岡のペンキ職人なんですよ。小中学校の頃から弟と一緒にペンキの現場に連れていかれていました。自分がワーキングクラスの生まれだったからこそ、本を読んだら自分にもちょっと違うライフがあるのかなと思ったのが読書を始めたきっかけです。高卒でペンキ屋になって、自分の人生はこのまま終わっていくのかという時に、労働者階級から出てきたチャールズ・ブコウスキーとかを読んで、憧れましたね。

 19歳の頃、健康商品会社の社長に運転士兼秘書みたいな感じで雇われていたんですけれど、社長が詩人の河村悟さんと知り合いだったんです。僕の親父と同じくらいの歳の方で、すごく格好よかったですね。帽子被って眼鏡かけて、トランクひとつで家もなく、日本中を転々として。そんな人いないじゃないですか。河村さんと話をするようになって、たぶん僕が「何か書きたい」と言ったんでしょうね。河村さんから「何か書いたら『群像』に出したらいいよ」って勧められたんです。

――そこからすぐ書き始めたんですか。

佐藤 ちゃんと書いたのは26歳になってから。若くして死んだロックスターたちを称する「27クラブ」ってありますよね。カート・コバーンもジミ・ヘンドリックスもジャニス・ジョプリンも、みんな27歳で死んでいる。自分も伝説になるためには26歳の今のうちに何かやっておくしかない、という焦りがあったんです、たぶん。

 ちゃんとケツまで書いたのは26歳の時の『サージウスの死神』が初めてで、何も考えずに群像新人文学賞に応募したら優秀作に選ばれました。書籍化は2005年になるのかな。福岡でやることもなくなったんで東京に出てきたんですが、そっから10年、11年くらいずっと“不良在庫”の時間が続きました。その間に、職を転々として、いい意味で訳のわからない友達もどんどん増えていったんです。

 純文学でデビューした場合、数年以内に芥川賞にひっかからないと仕事がなくなるんです。原稿を書いて編集者に送っても次第にボツの連絡さえ来なくなって、関係が自然消滅していく。その時にいろいろ考えました。純文学を辞めたと自分では一言も言っていないんですが、仕事がないんで困って、方向を変えようかなとゾンビ小説を書いた。最終的に900枚になったのかな。仕事がない人間は文学賞のパーティに行かないと編集者に会えないので、企画書を持って一張羅のスーツを着て行ったんです。

 僕はエンターテインメントの編集者を直接紹介してもらうつもりだったんですけれど、お酒が入ってほろ酔いの編集者に「乱歩賞に応募してみたらどうですか」って言われて。乱歩賞って、一般の人も応募する賞じゃないですか。ただ、格闘技でもアマチュアでもすげえ強い奴がいるし、それに挑戦するのは面白いかもしれないと思って。でも応募するにはゾンビ小説は尺が長すぎたので、それとは別の作品を3か月くらいで仕上げて出しました。

 純文学ばかりやってきたから書き方がわからなくて苦労したけれど、それが一次を通過したんですよ。通過したら雑誌に名前が載るので、編集者の目に留まって連絡があるかなと思ったら何もない。それでまた翌年、乱歩賞に応募することにしました。どうせ俺の名前は誰も憶えていないんだからと、ペンネームも替えて。それが受賞作の『QJKJQ』です。

――『サージウスの死神』も、闇カジノにはまって精神に破綻をきたしていく男の話でしたよね。社会の底や裏側を描くという点で、今に繫がるエッセンスを感じます。

佐藤 僕は福岡大学の付属高校に行っていたけれど、大学は嫌で行かなかったんです。キャンパスライフを楽しむ同世代を横目にペンキ塗りをやって、昼休みに段ボール敷いてペンキまみれで飯食っていると、街歩く人が誰もこちらを見ない。僕らなんてただの空気なんですよ。明らかに社会に階級があるんだと感じましたね。

 そういう経験の積み重ねは結構大きかった。運が良いのか悪いのか、社会の裏側と呼ばれるものはわりともう知っているから、想像力で補う必要がなかった。それで必然的に、そうした連中を書く側に回ったのかもしれません。

――佐藤さんの作品は、文章のリズム感や描写がすごく心地よいですよね。時にすごく静謐で。ご自身で文体についてどういうことを意識されていますか。

佐藤 最初に河村悟さんからいろんな作家について教わったのが大きかったですね。河村さんは若い頃、舞踏家の土方巽の飲み会に連れて行かれたりして、ダンサーとも交流があったし、三島由紀夫や澁澤龍彥がいた文芸の黄金期も知っている。その時代の香りを教わったんです。あの人たちの文章って強烈ですよね。河村さんの詩もそうですけど、言葉というものの、刃のような本質的な恐ろしさを知りました。それは運が良かった。

 よく、「純文学とエンタメの違いって何ですか」って訊かれるんです。いつも「改行の回数じゃないですか」って答えるんですけれど(笑)。真面目に答えると、純文学は文体に圧縮をかけられるかどうか。エンタメはストーリーテリングに特化して、いかに疾走できるか、そういう違いなのかなと。

 でもその二者は今、あまりに分断されていると僕の目には見えます。三島由紀夫とかを読むと、圧縮もかかっているけれどストーリーもジェットコースターライドなんですよね。分かりやすくいうと、格闘技とプロレスの両方、という感じ。格闘技は相手を仕留める動きしかしないんですけれど、プロレスはあえて相手をロープに逃がして展開を作って盛り上げる。自分もその両方を使っています。

 あとは文体で意識するのは、朗読に耐えうるかどうか。河村さんもよく朗読していたので、自分もいつもブツブツ声に出して原稿を読んでいます。

――次はどういう作品を考えているのですか。

佐藤 「未来は白紙」と答えたいところなんですが、だいぶ前からある文芸誌に、三島由紀夫さんについて書けってオファーをもらっていて。「どれだけ最強の作家か分かってますか。三島さんについて何か書けたらこの業界引退してもいいくらいですよ」と言ったんだけれど、それでもやってくれと言われて。どうなるか全然分からないですけれど、ちょっとずつ三島さんの資料を集めています。

(瀧井 朝世)

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