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「欧米にありがちな上から目線ではなく」天皇陛下と雅子さまが“日本のよきイメージ”を体現された“皇室外交”秘話

文春オンライン / 2021年7月23日 6時0分

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天皇皇后両陛下 ©JMPA

「雅子さまのとっさのブルースーツご変更は大成功」天皇陛下のお出ましに“カップルが似合う”理由 から続く

 7月23日、コロナ下で行われる東京オリンピックの開会式には天皇陛下がお一人で出席し、開会を宣言される。こうした国際舞台でのご活躍について、ジャーナリストの西川恵氏は「皇室は日本の最高のソフトパワーの一つである」と解説した。西川氏が寄稿した「文藝春秋」2019年11月号の記事を転載する。(※日付、年齢、肩書きなどは当時のまま)

(全2回の1回目/ 前編 から続く)

◆ ◆ ◆

「即位の礼」に参列する外国の賓客は、米国のペンス副大統領、中国の王岐山副主席、トルコのエルドアン大統領といった首脳のほか、英国のチャールズ皇太子、オランダのウィレム・アレクサンダー国王、ベルギーのフィリップ国王など、皇室が交流をもってきた各王室の顔触れが揃う。

 戦後の皇室外交は事実上、上皇と上皇后によって築かれてきた(他の皇族の貢献はもちろん認めた上で)。皇室の家長として昭和天皇は来日する賓客を先頭に立ってもてなされた。しかし年齢や、また戦争発動者としての責任もあって、外国訪問は米国と英国など欧州数カ国にとどまった。この空白を埋めたのが、昭和天皇の名代で各国を訪問された上皇、上皇后だった。ご結婚(1959年)して、平成末期までの約60年間、お二人は体力的、精神的な負担を押して世界を回り、来日する外国の賓客を接遇された。これは政府同士の関係とは異なる位相で国同士の絆を固め、国際社会における日本のよきイメージを高めるのに貢献してきた。

昭和天皇の「大喪の礼」で王族を参列させなかったオランダ

 王室からの参列者の中で目を引くのはオランダのウィレム・アレクサンダー国王だ。昭和天皇の「大喪の礼」の時、オランダ政府はファン・デン・ブルック外相を参列させた。欧州の王室で、王族を参列させなかったのはオランダだけだった。

 これにはオランダの厳しい対日世論があった。大戦中、日本軍は占領した蘭領インドネシアで、オランダの民間人、軍人を強制収容所に入れ、栄養失調や暴行で多数の人が亡くなった。戦後、皇室とオランダ王室は親密な関係を築いたが、オランダ人の引き揚げ者の間には日本への恨みが深く残った。「大喪の礼」の時には、使節を送らないように求める反日デモが起きた。ベアトリックス女王(当時)は事前に明仁天皇、美智子皇后に電話で「私は列席したいが、両国のためには出ない方がいいと判断しました」と伝えている。翌90年の「即位の礼」には自分の名代で現国王のウィレム・アレクサンダー皇太子を参列させたが、女王自身は参列を控えた。

 その後、91年に同女王が国賓で来日、00年には明仁天皇、美智子皇后が国賓でオランダを訪問されるなかで、両国政府の間で多様な策が打ち出され、オランダの対日世論は大きく改善した。ウィレム・アレクサンダー国王の参列は、30年前には王族どころか首相さえも送れなかったオランダの世論の大きな変化を物語る。

中国の参列者の「格」が上がった

 中国の王岐山副主席の列席は、昨今の日中関係の改善の脈絡で説明されている。前回の即位の礼では呉学謙副首相だった。王副主席は共産党政治局常務委員の経験者で、党政治局員だった呉氏より格は上だ。参列に両国の政治関係が反映していることは間違いないが、それだけではないと思われる。

 17年12月、中国外務省の耿爽(こうそう)副報道局長は明仁天皇の退位日が決まったことに絡む質問で、92年10月の天皇訪中について「中日関係を発展させるために前向きの貢献をされた」と述べた。これまで中国が総括的に天皇訪中にコメントしたことはなく、これは中国政府の公式の結論といえた。皇室が日中関係で果たした前向きの役割、さらには「慰霊の旅」に象徴される皇室の平和志向への評価も、王副主席の列席を後押ししたと見ても間違いではないだろう。

 天皇は両親が培ってきたものの恩恵に浴していることへの感謝を、吐露されている。英国留学時代、欧州各国を旅行すると、そこの王室から手厚い接遇を受けられた。

「私は、ヨーロッパの王族の方々からこのような温かいおもてなしを受ける度に、私の両親が長年かけて築き上げてきた友情によるものであることを常に認識し、その恩恵を受けている自分が幸せだと思ったし、このような交際を次の世代にも継承していく必要性を強く感じた」(『テムズとともに』)

女性王族の世界で交流を深められた雅子さま

 天皇は皇太子時代から、天皇、皇后である両親を皇室外交の面でもサポートされてきた。その一つの成果がアラブ王室との交流である。

 戦後の皇室とアラブ王室との交流は、平成になるまでこちらから訪問するより来日するアラブ王族の方がはるかに多かった。日本からは明仁皇太子と美智子妃が昭和天皇の名代でヨルダン(76年)とサウジ(81年)に、三笠宮崇仁親王と百合子妃がヨルダン(80年)を訪れた計3回のみ。一方、アラブ王室からの来日は、サウジとヨルダンが中心で、特定の国に偏っていた。

 徳仁皇太子が初めてアラブ世界に足を踏み入れられたのは独身時代の91年、北アフリカのモロッコだった。初めてのイスラム圏でもあった。3泊4日の旅は皇太子に深い印象を与え、同行記者団に「モロッコは非常に楽しかった。イスラムの文化圏にいることをつくづく実感した。街角や家の中からのぞいている人の表情が明るく、人なつっこくて忘れられない」と語られている。

 この訪問によって同世代の徳仁皇太子とモハメド6世皇太子は関係を深め、皇室とモロッコ王室の絆が構築された。皇族と王族の行き来が増え、国王に即位したモハメド6世の国賓での来日(2005年)に繋がった。

 雅子妃とご結婚(93年6月)後に最初の訪問先に選ばれたのもアラブ世界だった。94年11月と95年1月の2回に分けて、サウジアラビア、オマーン、クウェート、ヨルダンなど王室を戴くアラブ7カ国を回られた。

 この訪問では、公式行事に男女が同席しないイスラムの慣習に基づき、各国で皇太子と雅子妃は別々に晩餐会に臨まれた。皇太子が男だけの饗宴に出席している間、雅子妃は女性王族の集まりに参加し、通訳なしで会話をはずませた。外国人の男性が入ることの出来ない女性王族の世界で雅子妃は交流を深められたのだ。

お二人が体現された「日本のよきイメージ」

 サウジでは、夫妻は首都リヤド郊外のネフド砂漠を訪れ、赤色を帯びた雄大な景色をカメラに収め、砂漠に設営されたテントで羊の丸焼きを楽しまれた。雅子妃が緑色の服と帽子を身につけられていたのはこの時だ。オマーンでは砂漠に張られたロイヤルテントに国王を表敬。また幾つかの国では、邦人技術者が働く油田開発や天然ガスのプラント建設現場に足を運び、技術者とその家族を励まされた。

 国際親善を果たされる溌溂としたカップルの様子は、アラブ各国のメディアに大きく取り上げられた。お二人が欧米にありがちな上から目線ではなく、謙虚で、平等に接してくれることへの好感もあっただろう。カップルが体現する日本のよきイメージは好感をもって受け入れられた。

 元々、アラブの王室は日本の皇室に敬意と親近感を抱いてきた。万世一系といわれる世界でも珍しい長い歴史と伝統を保持し、皇室が日本国民の幅広い尊敬と支持を集め、「自分たちもこうありたい」という羨む気持ちもある。皇室が華美や贅沢から一線を画していることにも、イスラム教の精神に通じるものを感じてきた。

 これに続くご夫妻の外国訪問もヨルダンだった。99年2月、フセイン国王が亡くなり、カップルで葬儀に参列された。フセイン国王は4回来日した親日家で、日本は皇位継承第1位の皇太子ご夫妻を差し向けることで、その死を悼んだのである。また徳仁皇太子はサウジ王室の王族が亡くなった05年8月(ファハド国王)、11年10月(スルタン皇太子)、12年6月(ナイフ皇太子)、15年1月(アブドラ国王)と弔問に訪れられた。

 皇室と王室の関係が築かれることで、とくにアラブ側の日本への関心は高まった。先のアラブ7カ国訪問の首席随員を務めた大河原良雄・元駐米大使(故人)は「中東の王族との接触の途が開け、中東諸国が日本に十分な認識を持つようになった」とその意義を語っている。

天皇陛下の留学経験 自分で洗濯をし、アイロンがけを…

 ご結婚されてからの皇太子時代の約26年間に、今上天皇、皇后はご夫妻で延べ14カ国を訪問された。

 雅子妃は02年のニュージーランドと豪州の訪問までは国際親善に尽くす意欲に溢れていたが、それ以降病気になり、体調と相談の上での訪問となられた。一方、皇太子単独での訪問は延べ48カ国に上っている。

 戦後世代の天皇と皇后によって担われる皇室外交はどのようなものになるだろう。平成の皇室外交は国際親善の主旋律の中に、「慰霊」と「和解」が通奏低音のように響いていた。これは上皇、上皇后の戦争体験に根差した強い平和への希求と無縁ではなかったし、また平成になって、内外で「歴史問題」が避けて通れない課題となって浮上したことも背景にあった。上皇、上皇后が天皇、皇后として丹念に続けられた慰霊の旅が日本の信頼性と道義性を高めたことは間違いないだろう。

 もう一つ、令和の皇室外交を考える時、上皇と天皇の人々との向き合い方の違いも押さえる必要がある。昭和天皇は戦後、「象徴」となってからも、自らに権威があると考え、そう振る舞われてきた。この「君主」としての意識は明仁天皇にも引き継がれた。小学高学年まで大日本帝国憲法の下で育ち、昭和天皇に不断に接していたことを考えれば当然でもあった。しかし今上天皇は自らを権威ある「君主」として自己規定するには、育った環境が大きく異なる。とくに独身時代の83年から85年までの02年4カ月、英国のオックスフォード大学で学び、寮生活を送られたことは大きかった。

 自分で洗濯をし、アイロンがけをし、アフリカやアラブの学生とも交流し、大学最寄りの店で買い物をし、友人とパブに行き、クレジットカードで支払いをされた。朝は食堂で朝食を終えると、郵便受けから購読している英紙ザ・タイムズをとり、講義までのひととき、自室で自分の淹れたコーヒーをすすりながら、新聞を読むのが日課だったとも『テムズとともに』に書いている。

令和の皇室外交を読み解く2つのキーワード

 今上天皇は「権威」への意識よりも、「国民と対等にある」との意識が強いように思う。その上で皇室外交を読み解くキーワードは両陛下が共通に持つ「経験に裏付けられた国際感覚」と「普遍的価値」の2つだと思う。

 日本にいると東西の視点で世界を見がちだが、欧州で暮らすと南北の視点も育つ。かつて植民地にしたアフリカ、中東、中南米の地域であり、世界を広角に見る目と、皮膚感覚で世界をとらえる仕方、そして日本を世界の中に位置づけて客観視する視線が育つ。皇后も大学と外交官時代、米国と英国で約6年過ごされた。子供の時は外交官だった父親の転勤で、モスクワ、ニューヨーク、ボストンで暮らしている。経験に裏付けられた国際感覚では天皇に優るとも劣らない。

 天皇、皇后が影響を受けられたであろうポスト冷戦の「普遍的価値」にも触れておこう。天皇が英国に留学中の80年代半ばは、ゴルバチョフ・ソ連書記長が登場し、東西融和が進み出した時期だ。30代を目前にした89年に「ベルリンの壁」が崩壊し、冷戦が終結。人権や民主主義が地球全体の普遍的価値となり、グローバリズムが一気に花開いた。いまでこそ米中ロの大国は自己主張を強めているが、80年代後半から90年代を通して、国際社会には協力と融和の新しい世界秩序が誕生したとの期待が満ちていた。国の利害を超えた地球市民という考えが広く共有され、国や国連やNGO(非政府組織)など、多様な主体が協働して地球規模の問題に取り組むグローバル・ガバナンスという概念が生まれたのもこの時期である。20代半ばから30代を通して天皇と皇后は、この協力と融和の空気を胸一杯吸われた。

 その意味は小さくない。先に挙げた「経験に裏付けられた国際感覚」には地球市民としての視座や、地球規模の課題への関心が内包されていると思うからだ。天皇は「水」をテーマに研究を行い、その講演をまとめた著作を最近出された。これを読んでも地球の視座から「水」を捉えられているのがよく分かる。 

 ここで改めて皇室の伝統文化の継承者という両陛下の役割に立ち戻って考えたとき、この国際感覚と普遍的価値に敏感なことは重要である。「普遍主義の中の多文化共生」「普遍的価値と伝統文化の両立」というメッセージを説得性をもって発信していけると思うからだ。それは日本の立ち位置にも繋がる。疑いなく皇室は日本の最高のソフトパワーの一つである。

(西川 恵/文藝春秋 2019年11月号)

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