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藤井聡太二冠が豊島将之叡王に挑戦 タイトル戦“ダブルヘッダー”は両者が勝ちまくっている証

文春オンライン / 2021年7月24日 11時0分

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藤井(左)と豊島(右)による王位戦七番勝負は、すでに第3局まで終わっている 写真提供:日本将棋連盟

 豊島将之叡王に藤井聡太二冠が挑戦する、第6期叡王戦の五番勝負が始まる。現在進行中の第62期王位戦に続く、豊島VS藤井による番勝負である。タイトル戦のダブルヘッダーが実現した形だ。

 言うまでもなく、ダブルヘッダーは両者が充実していないと不可能である。今回は藤井王位への挑戦権を得た豊島、豊島叡王への挑戦権を得た藤井という構図だが、これはいかにこの両者が勝ちまくっているかという証だろう。

木村時代から大山・升田時代へ

 では、過去にはどのようなダブルヘッダーが実現したのだろうか。見ていきたい。

 同一年度にタイトル戦の同一カードが2戦以上行われた事例の中で、もっとも古いのは1951年度の第10期名人戦と第1期王将戦だろう。いずれも木村義雄十四世名人と升田幸三実力制第四代名人によって争われた戦いだ。当時40代の半ばを迎えていた木村と30代前半の升田という構図は、年齢差もあって升田が絶対有利と見られていたが、第10期名人戦では死力を振り絞った木村が4勝2敗で挑戦者の升田を降した。

 だが、名人戦の半年後に行われた王将戦では升田が木村を圧倒する。4勝1敗で初タイトルとなる王将を奪取すると同時に、木村を香落ちに指し込んだ。時の名人が初めて駒落ちの下手を持って指すという対局が実現する一歩手前まできたが、この時は実際に香落ち対局は行われていない。升田が対局を拒否したという、いわゆる「陣屋事件」が起きたのだ。

 陣屋事件の詳細については触れないが、この騒動をうまく収めたのが、名人・木村の最後の花道だっただろう。翌年の第11期名人戦では大山康晴十五世名人になすすべもなく敗れ、名人を失冠すると同時に引退を表明した。1951年のタイトル戦は、将棋界が木村時代から大山・升田時代へ移り変わっていく象徴だったのかもしれない。

タイトル戦初のダブルヘッダーは……

 大山・升田時代の両者がどれだけ飛び抜けて、他の棋士を引き離していたかを説明するならば「2年間にわたって、すべてのタイトル戦がこの両者で行われていた」という言葉でお分かりいただけるのではないだろうか。このような事例は他にない。

 ただ、この時代はタイトル戦がまだ少なかったこともあって、2つ以上のタイトル戦が同時進行で行われることはほとんどなかった。タイトル戦初のダブルヘッダー(一方が決着する前にもう一つが始まる)は、1963年度の第2期十段戦と第3期棋聖戦だろう。やはりというべきか、大山―升田戦である。

 第2期十段戦七番勝負は、第5局を終えた時点で大山が3勝2敗とリードしていたが、その時点で第3期棋聖戦も始まった。当時の日程を見てみよう。

12月18日、十段戦第5局、升田勝ち
12月23日、棋聖戦第1局、大山勝ち
12月28日、十段戦第6局、升田勝ち
1月8日、十段戦第7局、大山勝ち
1月12日、棋聖戦第2局、大山勝ち
1月23日、棋聖戦第3局、升田勝ち
2月7日、棋聖戦第4局、大山勝ち

中原―米長戦でも、一度も実現していない

 升田は十段戦でフルセットまで持ち込んだが、最後の壁を抜けなかった。そして、大山は棋聖戦第2局の直後に二上達也九段との王将戦七番勝負も始まっている。こちらはストレートで二上を破り、五冠復帰を果たした。この間、トーナメント棋戦も3局指して1勝2敗と、さすがに全勝とはいかなかったが、大山全盛期のタイトル戦における強さは類を見ないレベルであっただろう。

 その後、ダブルヘッダーは65年度の大山―二上戦と、71年度の大山―中原誠十六世名人戦の2例があるが、それを最後にしばらく行われなかった。将棋界の同一カード通算最多対局数を誇る中原―米長邦雄永世棋聖戦でも、一度も実現していないのだ(中原―米長によるタイトル戦の連戦は数多くあるが、先に行われた番勝負が未決着のまま別棋戦の番勝負が始まるという例はなかった)。

 ほぼ20年ぶりに実現したタイトル戦のダブルヘッダーが、1992年度の谷川浩司九段―郷田真隆九段戦である。谷川が持つ棋聖と王位に、当時四段の郷田が連続して挑戦した。結果は棋聖こそ谷川が防衛するも、王位は郷田が奪取。四段がタイトル保持者となるのは史上初の快挙で、そして規約が変わった現在(タイトル挑戦の時点で五段昇段となる)では、実現不可能な記録である。

1年間に23局も指した羽生と谷川

 1990年代の半ばから、本格的な羽生善治九段の時代が始まるが、意外なことに羽生のダブルヘッダーはしばらく実現していない。打倒羽生を目指す数多くの棋士が相次いで番勝負に登場を果たしたからである。そしてそのすべてを打ち破って七冠制覇を実現した羽生が、当時の棋士の中ではどれだけ図抜けていたかということにもなるであろう。

 羽生初のダブルヘッダーは2000年度、棋聖戦と王位戦で谷川と戦ったシリーズである。結果はいずれもフルセットで羽生が勝利した。この年度の両者は他に王将戦でもタイトル戦を戦っているが(4勝1敗で羽生が防衛)、トータルでは23局(羽生の16勝7敗)も指している。これは単年度における同一カード数の最多タイ記録だ。

 00年度の羽生は89局・68勝の不滅ともいわれる年間最多対局と最多勝利を達成しているが、この年の谷川は78局・51勝で、いずれも羽生に次ぐ2位だ。年間78局は、将棋大賞の最多対局賞を受賞できなかった対局数としては最多の数字である。

 そもそも01年以降の最多対局賞で、78局を超えたのはただの1度しかない。そう考えると00年度の谷川がどれだけ勝ってきたか、そしてそれを上回る羽生がどれだけすごかったかということもわかろうというものだ。

3連続タイトル戦で実現した羽生ー佐藤戦

 21世紀になってから行われたタイトル戦のダブルヘッダーは羽生―佐藤康光九段戦のみで、まず01年度の王将戦と棋王戦があるが、次に行われた05年の勝負がすさまじい。

 05年度の羽生―佐藤戦は棋聖戦、王位戦、王座戦という3連続タイトル戦同一カードが実現した。それぞれ棋聖戦が決着する前に王位戦が、王位戦が決着する前に王座戦が始まっている。

 結果は棋聖戦が3勝2敗で佐藤の勝ち、王位戦は4勝3敗で羽生の勝ち、王座戦は3勝0敗で羽生の勝ち。それぞれが持っているタイトルを防衛して、このトリプルヘッダーは終わった。さらに王座戦の後に王将戦でも羽生―佐藤が実現し(4勝3敗で羽生勝ち)、00年の羽生―谷川戦に並ぶ単年度同一カード23局(羽生の14勝9敗)を記録した。

 だが、佐藤の凄いのはその翌年だ。まず棋聖戦で鈴木大介九段を3勝0敗で下して防衛を果たすと、続く王位戦では再び羽生に挑戦。王座戦でも挑戦権を獲得し、こちらは2年連続のダブルヘッダーとなった。そして竜王戦では渡辺明竜王に、王将戦で羽生に、棋王戦では森内俊之棋王に挑むことになった。タイトル戦5棋戦連続挑戦は史上初の記録である。竜王戦と王将戦ではフルセットの末に敗れたが、棋王戦は最終局で勝ち、自身初の棋王を獲得した。06年度の佐藤は86対局、57勝であり、この86局は01年以降の年度対局数としては最多だ。

新棋王は「自画自賛の手です」と語っていた

 佐藤が棋王を奪取したその日、筆者は先輩記者の方々と一緒の酒席にいたが、なんとその場に新棋王がやってきた。当時の佐藤はいわゆる現在の「丸太を振り回す」棋風に転換しつつある頃だったが、棋王奪取につながった図の▲4七角を「自画自賛の手です」と語っていたことが思い出される。

 今回の豊島―藤井戦は、2006年の羽生―佐藤戦以来のタイトル戦ダブルヘッダーとなる。単なる連戦ではなくダブルヘッダーを戦うのは、それぞれの番勝負の進行度合いも影響してくるであろう。理想はすべての対局に全力投球だが、一方の棋戦でスコアが偏るとそこで優先順位をつけたくなるのではと考えるのが外野の野次馬だ。

 幸いなことに、筆者は観戦記者としてこのダブルヘッダー対局を間近で見る機会に恵まれた。現在の棋界の最高峰ともいうべき戦いの魅力を、余すところなくファンの方々にお伝えできればと思う。

(相崎 修司)

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