1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 芸能
  4. 芸能総合

小林麻央さんのデビューから14年間連れ添った担当マネジャーが語っていた「麻央が亡くなった日」――2021上半期BEST5

文春オンライン / 2021年8月30日 6時0分

写真

小林麻央さん ©文藝春秋

2021年上半期(1月~6月)、文春オンラインで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。女性芸能人部門の第5位は、こちら!(初公開日 2021年6月22日)。

*  *  *

 2017年6月22日、小林麻央さんが34歳の若さで亡くなった。2014年に乳がんを告知されてから、2年8カ月に及んだ闘病の末だった。自らの病状を詳細に綴った彼女のブログは、同じ病に苦しむ人たちへの優しさに満ち溢れ、多くの人々の共感を呼んだ。

 上智大学在学中に芸能界入りした彼女を、芸能事務所、セント・フォース取締役の菅大善氏は担当マネジャーとして14年間支え続けてきた。麻央さんが亡くなって4年。その菅氏が麻央さんとの日々を振り返った「文藝春秋」2017年8月号の記事を、命日に故人を偲び、特別に掲載する。(※日付、年齢、肩書きなどは当時のまま)

(全2回の1回目/ #2 へ続く)

◆ ◆ ◆

 6月22日の夜、事務所の社長から電話があり、「麻央ちゃんが亡くなった」と知らされました。その瞬間に、頭の中が真っ白になりました。訪れることがないと信じ祈っていた日々。5年後、10年後、いや20年後も元気でいてくれたら、と願っていました。亡くなったという実感が湧かず、涙も出てこなかったのですが、その日はまったく寝られませんでした。

 翌日、自宅に伺って久しぶりに彼女の顔を見たとたん、胸にこみ上げてくるものを抑えきれず、涙が止まりませんでした。一緒に仕事をしてきた日々のことが、次から次へと思い出されてくるのです。

「お疲れさま」

 月並みですが、そう言葉をかけるのが精一杯でした。

麻央から毎年届く誕生日のメッセージが来なかった

 麻央――私は「麻央」と呼んでいましたので、普段どおりの言葉遣いにさせてください――。

 麻央から病気のことを知らされたのは、2016年1月のことでした。彼女自身ががんを告知されてから1年3カ月ほど経ったころです。私の誕生日は大晦日なのですが、彼女は毎年必ずメールやLINEなどでメッセージを送ってくれていました。ところが、2015年の誕生日は連絡がなかったのです。

 少し前に連絡したときに「ちょっと体調が悪いんです」と話していたし、11月に長男の勸玄(かんげん)くんの初お目見えなどがあって、忙しいんだろうなと特に気にすることもありませんでした。すると年が明けて数日経った頃、電話がかかってきました。

「ごめんなさい。体調が悪くてメッセージを送れませんでした」と第一声は謝罪の言葉でした。続けて「実は私、がんなんです」と。私は、衝撃のあまり「え……、どういうこと?」と言ったきり、言葉が続きませんでした。

「大丈夫です。治しますから」

 そんな重大な告白をしているのに麻央の声は普段通りに明るく「がんって知ってますか?」と、わざとおどけたりして。ショックを受けているであろう私への心遣いでした。

「実はちょっと前にがんになっていたんです。本当に言えなくてごめんなさい。すぐに治して、みなさんに『がんでした』と報告するつもりだったんです。でも長引いてしまって……。遅くなってしまいましたが、報告です。自分ががんになるなんて人生わからないですよね。でも、大丈夫です。治しますから」

 努めて明るく、話してくれました。今思えば、すでに深刻な病状だったはずです。麻央と仕事をするようになったのが2003年。当時は、まさかこんなことになろうとは、想像さえしていませんでした。

同期入社のような関係

 麻央は大学時代、かつて姉の麻耶が出演していた縁で明石家さんまさん司会の「恋のから騒ぎ」に出ていましたが、そもそも人前に出るのが得意ではないタイプでした。姉がTBSのアナウンサーなので、麻央も同じ道を目指しているのではないかと噂されたようですが、彼女自身は、「テレビ局のアナウンサーになろうとは思わなかった」と言っていました。のんびりした性格なので、目まぐるしい仕事は合わないと思っていたのかもしれません。

 ただ、「めざましテレビ」でお天気キャスターをしていた吉田恵に憧れていたそうです。吉田はうちの事務所に所属しているので、社長が麻央と引き合わせたんです。吉田から仕事について話を聞くうちに、この世界で仕事をしてみたいと考えるようになり、うちの事務所に入ることになりました。

 第一印象は、とにかく明るく、フワっとした感じ。キラキラと華があるのに、芸能界で活躍したいというガツガツしたところがまったくない。そこが魅力的な子でした。

 私が担当することになったのですが、実は私も他業種から転職したばかりのマネジャー1年生でした。年齢は私が3つ上。同世代だったせいか、友だちとは言いませんが、同期入社のような関係だったかもしれません。お互い手探り状態で芸能界に踏み出していったのです。

 初めての仕事は2003年10月から始まった「めざましどようび」のお天気キャスターでした。夏には地方局を回る全国キャラバンがあり、どこに行っても麻央は、すぐに地元の方と打ち解けていました。

 仕事を始めると人前に出ることにも積極的になりました。未来へ向かってとにかく目の前の仕事に真摯に取り組み、全く経験のないドラマやグラビア、様々な仕事に挑戦していきました。「その仕事は嫌です」ということは、まずありませんでした。

人を喜ばせることが何より大好き

 最初から変わらなかったのは、周囲の方への気遣いです。ヘアメイクでもスタイリストでもマネジャーの私でも、みんなの誕生日を覚えていて、必ずお祝いをしてくれるのです。ケーキを買ってきたり、レストランを予約してちょっとしたパーティーを開いてくれたりと、人を喜ばせることが何より大好きでした。

 それで思い出すのは、あるバラエティ番組にゲスト出演したときのことです。年齢×1万円の予算でゲストが、「自分の人生を豊かで華やかにするための買い物をする」というコンセプトの番組でした。欲しかったものを買ってもいいし、好きなところに旅行に行ってもいい。

 すると麻央は、「いつもお世話になっている方たちに、打ち上げ花火を見せてあげたい」と言ったんです。いまでも花火の光景が脳裏に焼きついています。そうしたことを自然にできてしまうのが麻央でした。

一卵性姉妹と言われて

 麻央は姉の背中を見て育ってきたので、頼りにして何でも相談していました。“一卵性姉妹”と言われましたが、本当に仲がいいんです。麻央はのんびりと穏やかで、麻耶は明るくよく話す。対照的ですけれど、それがまた良かったんでしょうね。二人は同じ高校に通っていたのですが、麻耶を見てきた先生に麻央は暗いねと言われたらしく、「私は決して暗くないのに、お姉ちゃんがほんとに明るいから」って笑っていたのを思い出します。

 二人は実家暮しだったので、私が麻央を迎えに行くとき、麻耶も一緒に車に乗せて、職場の近くまで送ることもよくありました。すると二人はずっと車の中でしゃべり続けている。ほとんどは、麻耶の方が「麻央ちゃん、麻央ちゃん」って話しかける一方でしたが。

 麻耶がまだTBSにいるとき、雑誌の企画で篠山紀信さんに姉妹のツーショットを撮影してもらったことがあります。撮影が終わった後も二人並んだまま麻耶がずっと麻央に話しかけるので、なかなか解散にならず、さすがに麻央が「お姉ちゃん、みんなもう困っているから」と止めていました(笑)。

 一度だけ麻耶に怒られたことがあるとも言っていました。番組の打ち上げでお酒を飲んで、帰りが少し遅くなったことがあったそうです。「ただいま~」とご機嫌で帰ったら、「心配してたんだから!」とすごい怒られたそうです。

(「文藝春秋」編集部/文藝春秋 2017年8月号)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング