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宮沢りえ「悲劇のヒロインにはなりたくない」貴乃花と破談会見の真相、母の死、森田剛と再婚…30年の軌跡――2021上半期BEST5

文春オンライン / 2021年8月30日 11時0分

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宮沢りえ ©文藝春秋

2021年上半期(1月~6月)、文春オンラインで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。女性芸能人部門の第4位は、こちら!(初公開日 2021年3月28日)。

*  *  *

「この度、V6は2021年11月1日をもちまして、解散いたしますことをご報告申し上げます」。3月12日、ジャニーズ事務所はV6の解散を発表した。「これからの人生、ジャニーズ事務所を離れた環境で役者としてチャレンジしたい」と明かし、事務所を退所するメンバーの森田剛(42)と、妻の宮沢りえ(47)の存在に注目が集まった。

 宮沢りえ(47)の半生に迫ったノンフィクション作家の石井妙子氏による「宮沢りえ『彷徨える平成の女神』」(「文藝春秋」2019年5月号)を特別に公開する。その才能の虜になった人々が明かした30年の波瀾万丈とは。(全2回の2回目/ 前編 から続く)

(※年齢・肩書などは取材当時のまま)

◆ ◆ ◆

誰が見ても幸福な風景から…破談会見の真相

 街中でデートをして間もなく、貴乃花は、「結婚して欲しい」と切り出し、りえは受け入れる。

「大人ばかりに囲まれ育ったりえさんは、自分と同世代の貴乃花に惹かれていった。住む世界は違うけれど境遇は似ていました。ふたりとも中学を出て特殊な世界に入り、10代で日本を代表するスターになった。常に注目され、大人たちの期待を背負っていたところも一緒でした」(音楽プロデューサーの酒井政利)

 平成4(1992)年10月26日夜10時、久米宏の「ニュースステーション」(テレビ朝日)の冒頭で、いきなりふたりの婚約が報じられた。貴乃花が所属する藤島部屋が、懇意にしていたテレビ朝日に特ダネとして情報を流したからだ。日本中に激震が走り大騒ぎになった。雑誌は急遽臨時増刊号が出され、テレビは連日この話題を追い、海外メディアでも報じられた。

 1カ月後の11月27日、ふたりはともにピンク色のキモノに身を包み、手をつないで記者会見に臨んだ。誰が見ても幸福な風景だった。だがこの頃、すでに周囲では波風が立ち始めていた。角界の周辺が、宮沢りえとの結婚を危ぶんだからだ。

 一方、酒井は光子の心が麻のように乱れるのを目にしていた。

「さみしかったんでしょう。りえさんは幸せそのもの。愛する人に夢中で自分の声が届かない娘を見るのが光子さんは辛い。恋人と長電話をするりえさんに激高することもあれば、気弱さを見せることもあった。りえさんも、そんなママを見ると不安になり、さびしくなる」

 貴乃花の背後には、両親、部屋、後援会、角界が確固としてあった。それは日本の男社会そのもので、光子の価値観とは相容れない。「宮沢りえ」を低く位置づけ、嫁に来たければ仕事を辞めろ、女将さんになる覚悟はあるのか、と迫ってくる。そうした態度が許せない。光子に対する悪意に満ちた報道が続き、無軌道な母が結婚の障壁とまで書かれた。

 婚約は2カ月後に、解消される。

 翌年、初場所を終えて大関への昇進が決まった1月27日午後、りえと貴乃花は久しぶりに会い、破談を確認する。夕方6時、先に記者会見を開いたのはりえだった。宮沢家と親しかった、スポーツ紙の元記者、神戸陽三が明かす。

「記者会見場をセットしたのは私です。あの時は光子さんも焦っていました。6時からの全国ニュースで中継されることを意識して、貴乃花側より前に記者会見をやったほうがいい、と進言した。『最高のオシャレをしてきてください。泣かないで、しっかりと自分の言葉で話をした方がいい』と、りえさんには光子さんの関係者を通してアドバイスをしました」

 りえは、「人生最高のパートナーにはなれなかった。悲劇のヒロインにはなりたくない」と語り、破談の原因は光子かと記者に聞かれると、母をかばった。

 数時間後、貴乃花が記者会見を開く。破談を申し入れたのは自分だと語り、記者に理由を聞かれ、「愛情がなくなった」と答えて、「無責任ではありませんか」と責められた。

 5月に予定されていた、りえと貴乃花の結婚は流れ、6月、皇太子と小和田雅子さんのご成婚に世間は歓喜した。

京都のホテルで自殺未遂騒動を

 この破局から、快進撃を続けていた「宮沢りえ」の歯車は狂い始める。CDは売れず、出演したドラマは振るわず、CMの話は来なくなった。加えてりえは、傍目にも明らかなほど痩せていった。

 平成6(1994)年、歌舞伎役者で妻子ある中村勘三郎(当時は勘九郎)との交際が噂されたのは、たけしの時と同様、光子の思惑が働いたからだった。酒井が振り返る。

「勘三郎さんのような男性と付き合うことは、芸の上でも、女性としてもプラスになると光子さんは考えていた。でも、ビートたけしさんの時もそうですが、母親にけしかけられたら、男性はむしろ引きます。りえさんが交際を心から望んでいたのは、勘三郎さんとは別の若い歌舞伎役者さんだった。その人には恋人がいて完全な片思いでした」

 片思いの相手、市川右團次(当時は右近)に元モデルの恋人がいると週刊誌に報じられた約10日後、母親と大喧嘩をしたりえは京都のホテルで自殺未遂騒動を起こす。同ホテルに勘三郎も泊まっていたため、大騒ぎになった。

 さらに翌年には映画『藏』を突如、降板。浅野ゆう子の次に名前がクレジットされることに対する抗議が理由だと報じられ、一斉にバッシングを受けた。倉本聰脚本「北の国から」では元AV女優の幸薄い女性を演じたが、あまりにも痩せた姿が痛々しかった。

 一方、貴乃花は絶頂期にあった。この年の初場所から横綱となり、5月に元人気アナウンサーの河野景子と結婚。9月に第一子を授かった。

 昭和から平成の初めまで女性スターは主に女優か歌手だった。だが、平成に入って突如、テレビ局の女性アナウンサーたちがその座を奪い始める。容姿に恵まれ、学歴もあり高嶺の花とされる。その頂点にいた1人がフジテレビの河野だった。

 平成8(1996)年1月、りえ親子はひっそりとロサンゼルスに居を移した。酒井は出立を見送った。

「事実上、芸能界を追放されたようなもので、痛々しい旅立ちでした」

再び日本に戻り、20代後半で本格復帰

 りえが再び日本に戻り、仕事に本格復帰するのは、平成13(2001)年前後。ちょうど、小泉旋風が吹き荒れ、第一次小泉政権が誕生した頃だ。りえは20代の後半になっていた。

 幸先の良いスタートだった。山田洋次監督に抜擢され、平成14(2002)年公開の『たそがれ清兵衛』で日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞する。

 翌々年には野田秀樹作・演出の舞台「透明人間の蒸気」に初主演。30歳になっていた。りえとの出会いを野田はこう振り返る。

「人に紹介されてアムステルダムで出会いました。とにかく痩せていて、どうしてだろうって。僕は当時、イギリスにいたし、芸能ニュースには疎かったので、あんまり彼女の事情を詳しくは知らなかった。でも、話してみると、とにかく陽気で面白い子だった。舞台に出てもらったのは、それから3、4年後。華奢で線が細い印象がありましたが、舞台に立つと周囲の空間まで支配してしまうオーラがあった。これは演出して出るものじゃないし、訓練してどうなるものでもない。持って生まれたものです」

 野田はその後、主演女優として宮沢りえを使い続け、「圧倒的に信頼している」と話す。

「漢字は読めないんだけれど(笑)、本(脚本)を非常に深く読める。演出家の予想を超える演技で返してくれる」

 野田や蜷川と親しく、数々の舞台を見続けてきた演劇評論家、長谷部浩の評価も高い。

「声、姿、顔のどれをとっても女優として傑出している。大女優と呼ばれるのも時間の問題だと思います」

「りえちゃんは見事に演じ、作家そのものだった」

 更に映画『父と暮せば』で評価され、フジテレビ「女の一代記」シリーズでは、『瀬戸内寂聴~出家とは生きながら死ぬこと』に主演。瀬戸内を演じて評判になった。りえはこの作品に大変なこだわりを見せ、剃髪するシーンでは自分の髪を実際にそり落とすと言い張り、周囲に止められる。

「私をどうしても演じたいっていうんだけれど、美人の作家なんてリアリティがないからダメだって反対した。でもりえちゃんは見事に演じ、作家そのものだった。驚きました」

 瀬戸内の生涯をそれほど演じたいと思った理由はどこにあったのだろう。瀬戸内に尋ねた。

「本人に聞いていないからわかりませんが、私は家庭の主婦、小説家、出家者と変化していった。変わりたい、新しい人生を歩みたい、という思いが、当時のりえちゃんにもあったのかもしれません」

 話題性や人気がかつての「宮沢りえ」を支えていた。だが、りえはロスでの日々を経て、演技力のある女優として再スタートを切ったのだ。

自分の存在自体が「消費」されていくあり方に決別

『ぼくらの七日間戦争』に起用した監督の菅原浩志は、その変化をこう捉えている。

「スターは常に光を浴びる。その光が強ければ強いほど、濃い影が出るものです。人気がなくなれば手のひらを返され、周囲から人が去っていく。それをりえも体験したと思う。アメリカのショービジネスの世界には、『泳げ、さもなくば、沈む』という言葉がありますが、りえは本当に辛かった時も、必死に泳いでいたんだと思う。そういった経験を経て、表面的なものや話題性を追うのではなく、本質的にいいと思える仕事をしていきたいと考えたんじゃないでしょうか」

 平成21(2009)年、野田作・演出の『パイパー』に出演中、妊娠と結婚が報じられた。35歳での結婚相手はハワイで知り合った一般人の日本人男性だった。

 光子は孫娘の誕生は手放しで喜んだものの、この結婚には一貫して反対していたという。光子への反発から選んだ相手であったのかもしれない。光子とりえは以前のような「一卵性親子」ではなくなり、少し距離を置くようになっていた。

 光子にも反対された、この結婚は長くは続かず、3年後には早くも不仲説が流れるようになり、長い離婚協議を経て、りえが親権を取って離婚が成立した。

 その間も、蜷川、野田といった演出家に重用され、平成26(2014)年には7年ぶりに映画『紙の月』に主演。東京国際映画祭で最優秀女優賞を受賞する。

 かつては彼女の婚約も、恋愛も、仕事もすべてが「話題」として消費された。歌や演技ではなく、彼女自身が商品だった。自分の存在自体が消費されていった。

 だが、彼女はそうしたあり方に自ら決別をしたのである。別の見方をすれば、あまりにも突出し、存在そのものが特別だった「宮沢りえ」を放棄した、ともいえるだろう。

 篠山紀信が言う。

「野田秀樹の舞台稽古でのりえがあまりにも素晴らしかったので楽屋に顔を出した。りえは放心状態でひとりボーッとしていた。僕が『すばらしかったよ』と興奮して告げても、彼女は喜ばず、『本当に?』とこちらを疑うように見つめた。僕は少し驚いて、『何言ってるんだ。最高だよ、りえ』と言い続けた。そしたら突然、駆け寄ってきて僕に抱きついたんだ。その時、思った。この子はこんなにも大きな不安を抱えながら、舞台に挑み続けているんだと」

母・光子の死後、V6の森田剛と再婚

 りえと距離を保つようになった光子はパリと日本を行き来して、ひとり暮らしを楽しんでいた。

 だが、体調を崩し診察を受け、余命を宣告される。日本で自宅療養をしながら、平成26年、肝腫瘍で旅立った。65歳の早すぎる死。それでも宮沢家の女性たちのなかでは最も長命であるという。光子の母も、姉のさつ子も短命だった。また、3人とも離婚を経験し苦労した。宮沢家の女性には、平穏には生きられない、あらぶる血が流れているのかもしれない。

 母の死後、りえは舞台で共演したV6の森田剛と平成30(2018)年に再婚する。娘を連れて公園を散策し、気軽な店で食事をする姿がよく目撃されている。

「りえにはカッコいい女になってもらいたいの」

 光子は結婚の実態を知る先達として、りえに同じ轍は踏ませたくないと思っていたのだろうし、結婚すれば幸せになれるといった他力本願な生き方も嫌った。「りえにはカッコいい女になってもらいたいの」と周囲に語っていたという。

 経済的にも精神的にも肉体的にも自立した自由な女、それが光子の理想とする女性像だったのだろう。光子が生きた昭和の時代、光子自身は理想を実現することはできなかった。その夢を娘の肉体を使って果たし、日本の男性社会に一矢、報いたかったのかもしれない。

 昭和の末期に男女雇用機会均等法ができたものの、平成の経済停滞のなかで、十全には機能せず、むしろ保守化が進み、松明を掲げて女性たちを導く自由の女神は忌み、敬遠された。「宮沢りえ」は一度、居場所を失い、再び日本に戻ってからは注意深く世間と距離を取り、演技力という鎧で身を守っているようにも見える。

 映画プロデューサーの奥山和由は、りえの平成における変化をこう語る。

「大人になり光子さんから離れる過程で、女優としてのスキルを磨く方向に向かった。その努力は立派だったと思う。でも、演技力という殻で身を覆い、固い女優になってしまった印象もある。

 りえちゃんは自分の中にある昭和の情念のようなものを消して時代に合わせた。時代を的確に読んだけれど、少しそれが残念でもあるんだ。スターは多くの人の気持ちを引っ張っていくものだから、りえちゃんが相変わらず昭和っぽくて、松田優作が生きていたら、こういう平成じゃなかったかもしれない。

 今の『宮沢りえ』は、本来の『宮沢りえ』を眠らせ、封印した上に成り立っている。意図的にりえちゃんが眠らせたんだと思う。でも、次の時代では、もう一度『宮沢りえ』で暴れて欲しい」

 宮沢りえは昭和の残照がまだ色濃く残る中で、「宮沢りえ」というスターになった。

 貴乃花との破局が伝えられた頃、昭和の名残も完全に消え、様々な問題点が噴出し、平成の不況へと突入していった。その「失われた10年」に、「宮沢りえ」もまた失われた。

 女優として最も恵まれていただろう20代に、代表作を持てなかったのは彼女自身のせいなのか。それとも彼女を生かせなかった時代の責任なのか。

 文字通り「平らかに成る」時代。すべてが平均化され停滞した。

 ネット社会の到来もまた、社会の在りよう、人の意識を大きく変えた。憧れはすぐさま嫉妬に変わり、目立つものは標的とされ、スターであっても否応なく批判される。

 平均化される世の中において、あまりにも突出していた彼女は傷つけられ、生き方を変えていった。時代の象徴、それがスターだ。

 平成時代の光と影を、「宮沢りえ」の半生は浮き彫りにする。

(文中敬称略)

(石井 妙子/文藝春秋 2019年5月号)

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