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「神様、仏様、たか子様」と熱烈に支持されたが…“首相に最も近かった女”土井たか子の変革はなぜ失敗してしまったのか

文春オンライン / 2021年9月1日 6時0分

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© 文藝春秋

 2020年、日本の国会議員のうち女性議員が占める割合は9.9%だった。世界の平均が25.5%であることを考えると、日本の政治のメインシーンに女性が進出する日はまだまだ遠いように思われる。

 そんな日本政治の中枢で、女性として初めて首班指名を受けた土井たか子氏。当時の熱狂的なおたかさんブームと失脚の裏側とは。政治・ジェンダー論学者である岩本美砂子氏の著書『 百合子とたか子 女性政治リーダーの運命 』(岩波書店)より一部を抜粋し、紹介する。(全2回の1回目/ 後編 を読む)

◆◆◆

「山が動いた」 沸き立つ女性・市民のエネルギー

 7月23日、第15回参議院議員選挙の投開票が行われた。選挙結果は、社会党が前回21議席から46議席に伸ばし、野党全体では、全126議席中90議席を獲得、非改選議席との合計で、社会党は65議席、全野党は142議席(252議席中)となり、与野党が逆転した。女性は、それまで最高の10人の二倍増以上の22人が当選し、うち社会党が11人・社会党系無所属1人、連合2人で、女性は非改選と併せて33議席となった。また社会党は、女性だけでなく、「社会党『・』護憲協同」という「ポツ」方式でも伸びた。

 土井は、23日夜、「山が動いてきた」と勝利宣言し、消費税と、自民党一党支配の是非が問われたとの認識を示した。反消費税の女性パワーが社会党に集中した理由は、土井の存在だった。行く先々で「女性が変わるとき政治は変わる」「オバタリアン(*1)は、元気です」と説いた。

*1 「オバタリアン」は堀田かつひこの4コマ漫画の主人公でパワフルな主婦であり、1989年の新語・流行語大賞流行語部門金章を獲得、堀田と土井が共同受賞した

 若い女性・中年女性は「土井さーん」と声を上げ、年配の女性の中からは「神様、仏様、たか子様」との声も上がったという。女一匹、男社会で対等に渡り合うカッコよさが評価された。土井は1万5600キロの遊説の旅を行った(*2)。1986年選挙の社会党への投票者は、「いわゆる『オジさん』で、50歳以上の男性で、しかも労働組合員」だったが、89年では、「女性…30代や40代といった人達、また自営業といった保守的な人達が新しく加わったのである」(*3)。

*2 「全国約1万5600㎞で46議席!」『SPA!』1989年8月2日号、14~15頁
*3 小林良彰「分析的社会党凋落史」『正論』1991年8月号、87頁

 政治学者の蒲島郁夫は、1989年参議院議員選挙を典型的な「争点選挙(消費税)」だと言い、平素は自民党支持だが、そのおごりが目につくと野党に投票してバランスを取る「バッファープレイヤー」の行動を中心に、社会党支持の増大・支持なし層からの得票のゆえだと言っているが、それだけでは市民運動・女性運動・住民運動のさまざまなエネルギーが沸き立っていたことは理解できないであろう。(*4)ただし、社会党も積極的な政策を掲げたのではなく、反消費税、反リクルート、反農産物自由化というアンチで、批判票を集めたことは確かであった。また、この時期社会党の体質をめぐる記事も増えたが、社会党には政策審議に当たる政策審議委員が17人しかおらず、一省庁当たり一人以下であり、また、予算は1300万円で国会対策委員会の10分の1以下と、ヒト・カネともに公明党・共産党にさえ遠く及ばないことも指摘された(*5)。

*4 蒲島郁夫「社会党大勝は「争点選挙」化による一時減少」『エコノミスト』1989年10月23日号、56~61頁。高畠通敏・山口二郎・和田春樹「戦後革新 総括と展望」『世界』1994年4月臨時増刊、241頁
*5 西井泰之・西前輝夫「社会党研究」『朝日ジャーナル』1989年8月11日号、14~18頁。野田峯雄「絶頂・土井たか子も怯えるプロ対アマの軋轢」『宝石』1989年10月号、110頁、117頁。「危うい社会党のペレストロイカ」『朝日ジャーナル』1990年4月20日号

「本院は土井たか子君を内閣総理大臣に指名する」 女性初の首班指名

 宇野首相は、7月24日退陣を表明した。自民党の後継総裁は、8月8日に両院議員・都道府県代議員によって選出されることになり、河本派の海部俊樹に決まった。8月9日の臨時国会での首班指名では、まず第一回から社会党・社民連・連合の会のみならず、公明党が「土井たか子」と記名した。民社党は永末英一、共産党は不破哲三に投票した。参議院では決選投票になり、社会党・公明党・社民連・連合の会・共産党が土井に投票した。民社党は白票であった。労働組合をバックとする社会党と民社党で割れたのだ。民社党は、一部企業からも支持を受けており、土井に投票したら献金を断つと言われた民社党議員がいたという。

 午後2時2分「土井たか子君、127票、海部俊樹君、109票、本院は土井たか子君を、内閣総理大臣に指名する」と、土屋義彦参議院議長が発表した。首班指名は「衆院・海部、参院・土井」となり、両院議員協議会では当然調整がつかず、衆院本会議に差し戻された。午後5時37分、田村元衆院議長が「憲法第67条第2項により本院の指名の議決が国会の議決となりました」と告げた。

 片方の院であっても、女性が首班指名されたことは初めてである。女性が政治の頂点に最も近づいた瞬間であった。なお、衆参の首班指名が異なったのは、1948年2月、衆院芦田均、参院吉田茂となって以来であった。土井は、約300件の取材を受けることになる。

「最も先進的な党になる」ことを目指して

 社会党は、来る衆議院議員選挙で少しでも多くの議席を取り、政権に迫ることを目指していく。8月21日、静岡県伊東市での全国選対責任者・書記長会議で、土井は、政権の交代を求める世論に応えて、総選挙で勝利する必要があると述べた。大胆に女性の手を借り、「開かれた幅広い政党」に生まれ変わり、文化的多元主義と情報化社会という現代社会に対応する、最も先進的な党になる、とした。また、公明・民社両党に配慮して、日米安全保障条約を維持し、自衛隊の存続を認めることとした。しかし、各党固有の政策は尊重されるのであり、社会党の安保破棄・自衛隊違憲の立場は保持されることを確認している。

 そして、衆議院の512議席の過半数を野党で占めるためには、社会党だけでも180議席は必要であった。擁立候補の目標を150から180に改めたのである。約130の選挙区の7割以上で、2人当選させなくてはならない。しかし1969年の大敗以来、一選挙区に一人を立てることが常習化しており、共倒れの危険がある中選挙区で、複数擁立は容易ではなかった。とくに社会党は、落選した場合の候補者の経済的手当てが不十分で、立候補を説得するのに苦労した。また派閥が弱体化していることが、複数擁立にとってはマイナス要因だった。

 土井は、女性候補の目標を、与野党逆転を可能にする44人にしたいともしていた(*6)。180人を分母とすると24%に当たる。土井はもちろん、オーストリア社会党やスウェーデン社会民主労働党などが加入する社会主義インターナショナルでの交流や、とくにドイツ社民党との交流で、政治における女性のクオータが北欧・西欧を中心に広がり始めたことを知っていた。

*6 社会主義女性インターナショナル執行委員会女性シンポジウム(1989年9月5日実施)「女性と政治」(下)『月刊社会党』1990年1月号、143頁

 ところが当時の日本社会党では、女性衆議院議員は土井と金子みつの2人のみであり(金子は1990年に引退する)、女性参議院議員も14人で、うち新人が9人だった。クオータを推進しようにも、下から原動力になる勢力がなかったのである。土井は、女性候補者集めに獅子奮迅の働きをしたと思われる。しかし1990年1月の解散までに、無所属の外口玉子・岡崎宏美を入れて13人しか女性候補を集められなかった。9人が当選したが、これは、社会党・社会党系無所属計の139議席に対して6.5%であった。

進まなかった党内変革

 先進国では、イギリス・フランスで女性議員が少なかったが、その後伸びた。イギリス労働党は、1987年の選挙で、当選者229人に対して女性は1割弱であった。フランス社会党は、1988年選挙で、275人当選のうち女性は17人で、6.2%であったが、その後、女性議員の数は、イギリスでは労働党、フランスでは社会党を中心に、30%を超えて伸びていく。土井時代の社会党内部で、女性の抜擢の必要性がもっと共有されていたなら、その後の日本における女性の政治代表の様相も変わっていただろう。

 また、社会主義を目指す党から西欧の高度成長期の社会民主主義型の党へと変身することが、石橋執行部の「ニュー社会党」路線でようやく認められたものの、なかなか進まなかった。社会民主主義は、拡大するパイを労働者に分配し福祉を拡大することを核としていたが、低成長期に入って従来のような再分配路線は行き詰まった。社会民主主義政党に替わり、イギリスのサッチャーや西ドイツのコールのような、新自由主義・新保守主義が台頭した。これを克服するには、政治学者の真柄秀子のいうように、労組への過剰な依存を止め、女性・市民と結び、労働組合がボランタリィグループなどと提携し、失業を時短などにより回避し、労働の細分化を防ぐラディカル・リベラルな路線を取ることが求められていた。

党内基盤のない土井路線はポスト土井に引き継がれず

 しかし、市民運動や社会運動を惹きつけ、議員が増えて路線転換に有利な状況であったにもかかわらず、土井委員長時代にこうした転換は起こらなかった。土井が無派閥で党内に基盤がなく、どちらかといえば左派に支えられていたからである。また、彼女は路線問題について、かたくなであった。

 野党共闘については、土井が、憲法との関係で安保・自衛隊を認めなかったり、朝鮮半島に韓国の存在を認めなかったり、原発の稼働を認めなかったりと「現実主義化」に抵抗したため、1989年9月の公明党・民社党・社民連との政権協議に向けた「土井ビジョン」は、各論ではこうしたものを認めたにもかかわらず、他の野党を惹きつけることができなかった。

 参議院選挙で多くの党外候補が当選したが、それに対して党内は複雑であり、衆議院選挙に向かって、女性を含む新しい種類の候補の擁立に、必ずしも積極的ではなかった。また、次の委員長になる田辺誠などは、1989年の勝利を、女性や市民と結んだことではなく、右傾化しながら連合に統一された労働戦線の動きに求めた。つまり、労組と強く結び、社公民の枠組みでの連合型候補を出そうとした。

 このように、保守化する労組に固執するという誤った路線により、女性を候補者にリクルートし、市民と結んでいく土井路線は、ポスト土井において引き継がれなかったのである。

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《徹底検討》五輪中止への期待が膨らませた虚像…“決められない知事”小池百合子が国政に進出する“可能性”はあるのか へ続く

(岩本 美砂子)

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