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甲子園球場まで自転車で10分。西宮在住の巨人ファンが“迫害”に負けない理由

文春オンライン / 2021年9月19日 11時0分

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王貞治 ©文藝春秋

日常会話に「タイガース」がある町

 阪神タイガースの本拠地・甲子園球場から自転車で10分もかからないマンションに住んでいる。

 小、中学時代にも家族で5年ほど住んだことがあり、元々は亡き父の名義。相続後、再び住むことになり、もうすぐ20年が経つ。

 阪神戦がおこなわれる日は球場の歓声がベランダまで届く。浜風が強めに吹く日は応援歌も判別可能なため、犬の散歩をしている人たちの間で「どうやら大山が打ったみたいですね」「六甲おろしが聞こえてくるということは打点つきですね」「あの歓声の大きさだとホームランかもしれませんよ」といった会話が挨拶がわりに交わされていたりする。

 最寄りのローソンの店頭看板は黒と黄色のタイガースカラー。町内には親子三代レベルの熱狂的なトラキチ一家が数多く存在し、「虎太郎」「虎次郎」と名付けられた男の子に遭遇することは珍しくない。

 実際は巨人ファンもそれなりに生息しているとは思うのだが、ファンであることを胸張って大声で公言する猛者に出会える確率は著しく低い。ベランダにオレンジ色のジャイアンツタオルを干してるだけで、道行く人々の「あらま」といわんばかりの不穏な視線が刺さる以上、隠れ巨人ファンの道を選択した方がたしかに生き心地はいい。

「甲子園のそばに住んでいるのに、どういう経緯でそんな熱烈な巨人ファンになったの?」

 そう聞かれることは非常に多い。私が4歳の時、商社に勤務する父にアメリカ駐在の辞令が下り、家族でオレゴン州ポートランドという町に移り住んだ。今思えば、この転勤が巨人ファンへの序章だった。

 時は1971(昭和46)年秋。川上哲治監督率いる巨人が7連覇を達成したシーズンだったが、当時の私は野球には全く興味がなく、夢中になっていたのは、ウルトラマンや仮面ライダーなどのヒーローもの。アメリカに引っ越したことでウルトラマンや仮面ライダーをテレビで見られなくなった不満を、毎日のように漏らしては親を困らせていた。

 1972年になると小学館が発刊する『小学一年生』という月刊誌が日本に住む母方の祖母から毎月届くようになった。「日本に早く帰りたがっている息子になにかしらの日本の情報を頼む」と書かれた母の嘆きの手紙を読んだ祖母が、本屋さんと相談した末に選択した孫への月に一度の贈り物だった。

 私は母国・日本を感じることができる唯一の手段であるこの本をこれでもかと読み返した。雑誌の大部分はマンガだったが、巻頭カラーページなどにはプロ野球に関する情報も載っていた。

〈長嶋選手が現役引退! 巨人の新監督に!〉

〈巨人の本拠地・後楽園球場が日本初の人工芝球場に生まれ変わる!〉

〈目指せV1長嶋ジャイアンツ! 張本勲の加入で王とのOH砲の誕生だ! レフトの高田繁はサードコンバートに挑戦するため人工芝が張られた多摩川グラウンドで猛特訓!〉

〈王選手が通算700号達成! この勢いでベーブ・ルースの714本超えだ!〉

 そういう時代だったのだろう。プロ野球情報は実質、巨人情報だった。気づけば私は巨人が気になりすぎる子どもと化し、野球に関する興味もどんどん増していった。

 海の向こうに存在するジャイアンツというチームに思いを馳せるあまり、テストの答案用紙の裏に一本足で投球を待つ王貞治選手や後楽園球場のスコアボードの絵などを描いては担任の先生に「ケン、いったい何を描いたの?」と訝しがられた。

 1970年代中盤、プロ野球チームのユニフォーム素材は従来の布帛生地よりも伸縮性に富み、体にフィットしたシルエットが出せるダブルニット全盛時代を迎えていた。ある月、『小学二年生』に次のような心躍る情報が載っていた。

〈今季よりジャイアンツもダブルニットを採用! ダブルニット素材の少年用レプリカユニフォームも全国デパートで販売開始!〉

(欲しい……。どうしても欲しい!)

 私はこの情報が載ったページを切り抜き、祖母宛に手紙をしたためた。

「おばあちゃん、この巨人のユニフォームを買って送ってください。一生のお願いです」

 約2か月後、夢にまで見たアイボリー地の巨人ホーム用ユニフォームが『小学二年生』の最新号とともに届いた。背番号は王選手の1を希望していたが、品切れだったらしく、第2候補として挙げていた長嶋茂雄の現役時代の背番号「3」が縫い付けられていた。

 足が悪い祖母が杖をつきながら町に出向き、阪神百貨店で悪戦苦闘しながら購入した一品だと母に聞き、私はユニフォームを抱きしめながら涙した。

空想の世界にしか「巨人」がなかった

 私は学校から帰宅すると、すぐさま宝物であるジャイアンツのユニフォームに着替え、友達との遊びの野球に日々、興じた。寝る時はきれいにたたんで枕元に置き、時にはパジャマにもなった。地域の野球チームにも所属していたので、一度コーチに「このジャイアンツのユニフォームで試合に出てはだめか?」と訴えてみたが却下された。

 アメリカで野球は春から夏にかけてのシーズンスポーツのため、それ以外の季節で放課後に野球に付き合ってくれる友達を探すことは容易ではなかった。それでも、たとえ一人の日でもジャイアンツのユニフォームを身にまとい、壁当てと素振りに明け暮れた。

 家庭用ビデオデッキが普及していれば、巨人戦が録画されたビデオを祖母に送ってもらうこともできたのだろうが、まだそんな時代ではなかった。ジャイアンツの選手が実際に動いている姿を見たことがないので、各選手がどのようなフォームで打ち、守り、投げているのかは本に載っている写真から想像するしかなかった。だが、その空想作業すらも趣味の領域と化していた。

(王選手の1本足打法ってどのタイミングで右足上げてるんだろうなぁ。「フラミンゴ打法」って言うくらいだから、ピッチャーが振りかぶる前からずっと片足で待っているのかもしれないな。あぁ、早く日本に帰って、動く王選手が見たい! 動くジャイアンツ戦士が見たい!)

 小学3年生も終わりに近づいた1977年1月。会社から帰宅した父の口から悲願の言葉が飛び出した。

「アメリカ駐在、終わりだ。3月に日本に帰ることになったぞ」

 約6年ぶりの帰国。空港からタクシーで真っ先に向かった母の実家で祖父母との歓喜の再会を果たし、リビングのテレビに目をやると、巨人のホーム用ユニフォームが目に飛び込んできた。大洋ホエールズとの春季オープン戦が放映されていた。

(あぁ、これは柴田選手……。次は高田選手、張本選手、王選手……。みんな動いてる……。みんなこんな打ち方だったのか……。小林繫投手のサイドスローってこんなカクカクした投げ方だったのか……。全然想像と違ったな……)

 私はあふれ出る涙をセーターの袖で何度も拭いながら、数年間繰り広げた空想劇の答え合わせをしていた。

 王選手が足を上げている時間は、想像していたよりもはるかに短かった。

 ようやく巨人ファンとしての本格的なスタートを切れた気がした。

「なんでジャイアンツのユニフォームなんか着とんねん」

 1977年度のペナントレースが開幕した頃、完成間もない分譲マンションに入居した。

 新たな生活圏は甲子園球場のすぐそばだった。

 マンションの横に『ドラえもん』に出てきそうな土管が置かれた空き地があり、同世代と思しき小学生たちが草野球に興じていた。私は急いでジャイアンツのユニフォームに着替え、バットとグラブ片手に「ねぇ、僕も仲間に入れてよ!」と、空き地に足を踏み入れた。返ってきた反応は期待していたものではなかった。

「見たことない顔やな。おまえなんでジャイアンツのユニフォームなんか着とんねん」

「そのユニフォーム着ないんなら入れてやってもええけど」

 よくよく見ると大半の少年たちはタイガース帽をかぶっていた。私は、自分がどういう町に引っ越してきたのかをその時に初めて理解した。

(タイガースファンになることができれば間違いなくこの地では生活しやすくなる……。でもいまさらなれるのか……?)

 そんな思いが湧き上がったが、すぐに「無理だ」と悟った。すでに血液はオレンジ色になっていた。

 あれから44年の月日が流れた。

 今もなお大切に保管しているジャイアンツのユニフォーム。ダブルニットの生地に触れるたび、この地で巨人ファンとして生きていく覚悟を決めた小4の春と、亡き祖母がくれた大きな優しさを思い出す。

◆ ◆ ◆

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(服部 健太郎)

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