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連続少女誘拐犯の手帳に書きつけられた「悲願千人斬」…“少女の敵”が生まれた理由

文春オンライン / 2021年9月12日 17時0分

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「樋口芳男の犯行と判明」を伝える朝日

「住友さんの娘さんはどなたですか」軍靴を履いた「少女誘拐マニア」はなぜ財閥令嬢を誘拐したのか? から続く

「神奈川県警察史 下巻」によれば、住友令嬢誘拐で足どり捜査に当たった刑事たちは料理屋、飲食店、宿屋を調べて回り、2日目の9月19日夕方、一組が片瀬の旅館に入って宿帳をめくった。その中には「京都府久世郡御板村字高島田(現・久御山町)、引揚者、本田金次郎、二十二歳、九月十六日午後五時止宿、翌十七日午前九時出発、丈五尺二寸位、瘦型、カーキ色軍服上下、戦闘帽、軍靴」と書かれていた。まさにこれまでの犯人像そのものだった。

 刑事はおかみから「非常におとなしい方で妹がいる」と聞いて確信した。その時点で、手口捜査からも有力な情報が上がってきていた。「昭和18(1943)年8月1日、戦時強制猥褻(わいせつ)罪で東京・調布署に検挙され、同19(1944)年4月、懲役刑に処された東京都京橋区月島新佃島2丁目15番地、樋口芳男22歳が照会のあった手口に類似している」。

 さらに、鎌倉署捜査本部を訪れた警視庁警部から、清水家次女誘拐の容疑者が「本田金次郎」を名乗っていたことを聞き、手口捜査から出てきた樋口の写真を目撃者に見せた。「ここに捜査本部はこの誘拐事件の犯人を樋口芳男と断定した。時に9月19日午後6時であった」。(同書)

 9月22日付で各紙は一斉に容疑者の実名を報じた。2面トップで「二少女事件の犯人判明 誘拐では常習犯 直ちに全国に指名手配」の見出しに、「脱走囚だが優形 海外引揚者を装ふ(う)」の小見出しを付けた朝日を見よう。

〈【鎌倉発】住友家長女の誘拐事件は手掛かりの不足から犯人に対する見込みも極めて困難とみられていたが、さきに行方不明となっていた東京都淀橋区下落合2ノ761、帝国工業専務・清水厚氏の次女(13)の有力な申し立てによって捜査は20日から急展開し、住友家長女を奪った犯人は清水家次女事件と同一の東京都京橋区新佃島西町2ノ15(居所不定)前科1犯、樋口芳男(22)であることが確定的となり、捜査当局は直ちに全国に同人の指名手配をした。

 

 住友家の令嬢が誘拐されて既に5日。当の本人の所在はもとより、安否も分からぬとき、捜査陣で例を見ぬ誘拐犯人の公表を行い、犯人逮捕について一般の積極的協力を求めているが、住友家長女誘拐犯人は、目白の清水家次女誘拐の場合と犯行の手口、人相など全く一致するので、警視庁当局でも同一犯とみて……。〉

「犯罪を重ねた恐るべき少女誘拐常習犯、性的異常者で…」

 記事は彼の前歴に入っていく。

〈 彼は昭和19年8月1日、鉄道機関手助手をしていたとき、世田谷区田園調布2ノ716、当時女子学習院初等科5年生(当時12)を「お父さんに渡す大切なお金を渡すから一緒に来てください」とて誘い出し、電車で品川駅に行き、同駅構内の客車に連れ込んで姿をくらました。東京、湘南方面でも7件の同様犯罪を重ねた恐るべき少女誘拐常習犯、性的異常者で、2日後の3日、張り込み中の玉川署員に検挙、3年の刑を言い渡され、20(1945)年7月31日、八王子少年刑務所から作業中脱走したものである。幼時、父に死別し、小学校卒業後、2年間、東大崎の義兄のところで給仕奉公ののち、鉄道機関助手の経歴を持っている。

 

 全く復員軍人ふうで、本名のほかに岩間芳男、本田金次郎、阿部文平、本多敦麿、佐藤某など、5つの変名を使い分けている。本籍・樺太豊原市、本田金次郎名義の偽の引揚者証明書を持っており、いつも海外引き揚げ者を装って同情を買っては他人の家を泊まり歩いているらしい。〉

「昭和19年」は「昭和18年」の誤り。「女子学習院初等科5年生」は松平子爵の令嬢だった。朝日の記事にはほかに、「おとなしい内気な性格なので人づきあいもよかった」という樋口の姉の証言もある。

「私の家より住友さんの家の方がお金をたくさん持っています」

 9月23日付では「樋口、捜査圏内に 中央線で名古屋方面へ」(朝日)、「依然手掛なし」(毎日)、「厳戒の網くゞ(ぐ)る誘拐魔樋口」(読売)と各紙には動きを追った記事が。読売では「舞い込む脅迫状」の見出しで22日正午ごろ、住友家に5通の脅迫状が届いたことも報じられた。

 そして9月24日付。「二少女の誘拐犯人 樋口遂に捕は(わ)る 岐阜の雑貨店で」(朝日)、「誘拐魔『樋口』捕はる あれから一週間、岐阜付知町で」(毎日)、「誘拐魔樋口捕る」(読売)と各紙同じような見出しに。事件記事としては変則だが、流れが分かりやすい朝日の記事は――。

〈【岐阜発】21日午後3時30分、長野県・松本駅発名古屋行きの下り列車に、住友令嬢誘拐犯人・樋口芳男(22)が乗り込んだと、警視庁並びに長野県警察部の手配を受けた岐阜県刑事課では、中央線並びに支線一帯を同日夜から一斉に検索したところ、22日、岐阜県恵那郡付知町、上見旅館に宿泊を頼んだが断られた男がおり、各戸を検索したところ、雑貨商・小倉信一方に泊まり込んだことが分かり、23日朝11時に付知署員が犯人を逮捕。身柄は中津署に送り、取り調べることになった。令嬢は無事で、別に健康を害している様子もなく、同署に保護されている。〉

「中津署」は「中津川署」の誤り。読売には自供内容が載っている。

〈 犯人樋口は直ちに中津川署に連行。取り調べ中だ。樋口は(日本)女子大付属豊明国民学校6年生、清水家次女(14)を誘拐したのも自分であるとすらすらと自供。次女を連れ歩くうち、同女の口から「私の家より住友さんの家の方がお金をたくさん持っています」と言われ、狙ったのだと称している。住友家長女を誘拐後、捜査の手が身近に迫るので、大胆にも20日、松本から警視庁宛てに、捜査本部を解散せよ、そしてそれを新聞に掲載せよ、でなければ長女を殺すと威嚇の手紙を出し、さらに22日、新聞紙上で捜査の手急なるを知り、名古屋から住友家にも、長女と一緒に心中すると手紙を出し、捜査を打ち切らせようと図ったことを自供。しかし、張り巡らされた捜査網はしょせん逃れられぬと観念。長女と木曽山中に隠れようと中津川駅に下車、付知までやってきたと言っている。〉

「いま読んだ新聞の記事とそっくりな姿」の男女が列車に…

 朝日では、樋口はこう述べている。「3年前の松平令嬢の時、無実の罪で起訴された。その警察のやり方に反感を覚え、刑務所を脱走。警察を嘲弄(ちょうろう=ばかにしてからかう)しようと思った。それには、富豪や大物の娘を誘拐して社会へ挑戦しようと思ったのだ」。逮捕のきっかけについての記事も同紙にある。

〈 樋口逮捕の殊勲は、長野県西筑摩郡吾嬬村、藤原アキさんという老婆の第六感と機知によるものであった。

 

 アキさんは21日午後3時30分松本発列車に乗り込み、新聞の誘拐事件を読み、樋口や住友家長女の人相、服装などを詳しく読み終わったところ、列車が塩尻駅に滑り込み、前の座席に11~12歳の娘が飛び込んできた。「ねずみ色の帽子に下駄履き」など、いま読んだ記事とそっくりな姿にぎょっとすると、間もなく続いて乗り込んできた22~23歳の男が、これまた右目の下にほくろ、口端のおでき、国民服と、全く新聞の記事通りの服装に「間違いなし」と見極めをつけ、三留野駅に入った汽車から転げ落ちるように飛び降り、駅前駐在所に届け出た。〉

手帳の冒頭に書きつけられた「悲願千人斬」

 さらに毎日には「不逞の文字 『悲願千人斬』 樋口の“秘密手帳”發(発=あば)く」の記事が。松平子爵令嬢誘拐で樋口を取り調べた警視庁警部補の“樋口解剖”として次のように書いている。

〈 樋口が持っていた手帳には、昭和18(1943)年以来、毎月1人ずつ誘拐した、14歳から12歳までの14名の良家の美貌の少女の住所氏名と犯行記録が書きつけてあり、取り調べの際は頑強に否定したが、その手帳の冒頭には『悲願千人斬』という文字が書きつけられていた。

 

 なお当時誘拐された少女たちはいずれも、家に送り帰された後も犯人を「いいお兄さん」と言っていた事実があり、少女を手なずける異常な手腕があったらしく、某子爵令嬢を誘拐した際も、江ノ島に連れ出していろいろの玩具を買ってやり、疲れたと言えば背負ってやり、山林中に泊まった夜は、一晩中ひざに抱き上げて蚊を追ってやっていたといわれ、犯人は少女を誘拐しては連れ回すことに異常な興味を持つ男であった。〉

「“少女の敵”樋口御用」

 当時は夕刊紙だった東京は9月24日付(23日発行)2面トップで「“少女の敵”樋口御用」の見出しを付けているが、感じは少し違うようだ。そんな樋口の足どりは各紙報じているが、最も詳しい読売を見る。

 

〈▽9月17日 住友家長女を連れ出すや、同日上京。上野駅付近で一泊

▽18日 千葉県に入り、津田沼に宿泊

▽19日 稲毛に宿泊

▽20日 再び東京に舞い戻り、中央線篠ノ井経由で松本に出て、同市に一泊

▽21日 午後3時30分、松本発で海外引き揚げ者の群れに紛れ込んで同夜9時5分、名古屋に下車し、駅頭で引き揚げ者の世話に当たっていた海外同胞救出学生同盟の学生たちに案内され、駅裏の海外引揚者宿泊所名古屋寮で北海道庁発行の引揚証明書を示して宿泊。宿泊名簿には本籍地・樺太豊原市西一条南九丁目21。海外住所・朝鮮慶尚南道釜山市宝永町900。現住所・京都府久世郡御牧村字島田、本田金次郎(22)、妹清子(14)と匿名して記載し、「私は朝鮮から5月6日に博多に引き揚げてきた。北海道へ行ってみたが、親兄弟の消息は不明なので帰ってきた。これから金沢の叔父のところへ訪ねるつもりです」と語っていた

▽22日 朝10時ごろ、同宿の女性にリュックサックを預け、「名古屋駅裏の闇市に買い物に行ってくる」と住友家長女を連れて外出。お昼ごろ、いったん戻ってきて夕刻まで部屋に閉じこもっていた。7時ごろ、寮を出ると直ちに中央線列車に乗り込み、中津川駅に9時30分着。さらに北恵那鉄道(1978年廃線)に乗り換え、終点駅の付知町に下車。夜10時ごろ、同町、雑貨商・小倉信一さん方に現れて同家に宿を求めたものである〉

 新聞各紙は住友令嬢と樋口の写真を掲載しているが、読売に載った「捕った樋口 中津川署にて」では、樋口は歯を見せて笑っている。とても「誘拐犯」とは思えないような表情だ。

 毎日には、樋口と清水家次女が一緒に写った「金沢発」の写真がある。説明は「兼六公園で“記念撮影” 清水家次女を妹に仕立てて転々と歩いた樋口が 青森駅で知り合った金沢市・西村常市氏に遊びに来いと言われるまま、9月7日ごろ、同家を訪れ2泊した時、兼六公園で記念撮影したもので、今回全国に指名手配された樋口の手配写真も実はこれが用いられている」。右側の樋口は軍服に戦闘帽、左側の清水家次女は白っぽい質素なワンピース姿。復員兵と戦災孤児が街にあふれていた敗戦直後、こうした「兄妹」はどこにでもいたというような服装だ。

苦労して故国に帰った末に、まるで世間からのけ者のように扱われた軍人たち

「戦後史大事典増補新版」などによれば、1945年8月の敗戦で大日本帝国の陸海軍は解体され、まず日本の内地にいた約197万人が同年10月中旬までに復員を終えた。海外には軍人・軍属約353万4000人と、満州(現中国東北部)や南方などに入植した民間人約306万6000人の計約660万人がいた。復員は同年9月にアメリカ軍管理地域から始まり、1946年末までには民間人と合わせて約500万人以上が引き揚げたとされる。

 しかし、ソ連によってシベリアに抑留された軍人・軍属らと、満州からの民間人の引き揚げなどは困難を極め、現地や帰国途中で亡くなる人も多かった。日本占領に当たった連合国軍総司令部(GHQ)は海外からの引き揚げ者が持ち帰れる財産を制限。

 引き揚げ者の多くは引揚援護局の宿泊施設に数日滞在し、食事や郷里までの旅費(1人100円(現在の約4100円)限度)、衣類などの支給を受けた。引揚証明書をもらって輸送も優先的に行われたという。男性の多くは復員服と呼ばれた軍服。それが街にあふれていた。

 しかし、多くの引き揚げ者にとって祖国の風は冷たかった。ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて 上」は書いている。

〈 非常に多数の陸海軍人にとって最もショックだったのは、苦労して故国に帰った末に、まるで世間からのけ者のように扱われたことであった。1946年には、引き揚げ者が洪水のように帰国していたが、そのころまでには、連合国の捕虜たちに対してだけでなく、中国で、東南アジアで、そしてフィリピンで、皇軍が衝撃的なほどの残虐行為をはたらいたという情報が、本土の人々の耳にも次々と流れ込んでいた。その結果、元軍人たちは武運つたなく軍人の使命が果たせなかった人たちであるだけでなく、きっと口には出せないような行為をした人間なのだとみなされる場合が多数あった。知り合いも見知らぬ人も、自分たちを責めるような目で見るという復員軍人の投書は、当時おなじみのものであった。〉

日本の「内なる他者」になった引き揚げ者たち

 たぶん、それだけではない。五十嵐惠邦「敗戦と戦後のあいだで」は述べる。

「大多数の日本人は、戦後日本の再建のプロセスに敗戦直後から参加することによって、自らの日本人のイメージを修復する機会を持ったが、遅れて帰ってきた者たちには、そのような機会が与えられなかった。帰ってきたときには既に、戦争全般だけでなく、復員、引き揚げの体験についての国民的な物語が出来上がっていた」

 同書は歴史家の言葉を引用して「引き揚げ者は日本の『内なる他者』として『普通の日本人の引き立て役』となった」と指摘している。

 これもたぶんそれだけではない。1945年8月17日に成立した東久邇稔彦内閣は、国民にも敗戦の責任があるとして「一億総懺悔(ざんげ)」を叫んだ。一般国民には不評だったが、多くはひそかにそのことを自覚していたのではなかったか。目の前の暮らしに追われて必死に生きる中で、時間とともに、それを忘れるかうやむやにしようとした。そんな人々にとって、引き揚げ者は戦争の犠牲者であると同時に、戦争の悪夢を呼び起こす“厄介者”だったはずだ。

 同情はするし、できる範囲で援助もしたい。でも、長く見つめていたくない。さらには深く考えたくない。そんな存在だったのでは?

浮浪児のうち女の子は約2割。なぜなら…

 戦争で両親を失った戦災孤児の状況も悲惨だった。1945年9月21日付朝日には「地方長官が親代り 戦災孤児の保護育成」が見出しの2段の記事が載っている。「いわゆる戦災孤児は東京都の983名を筆頭に、新潟の465名、広島の583名、その他全国各戦災都市のそれを加えると大体3500~3600名に達するものと推定され……」。

 それは氷山の一角にすぎず、「戦後史大事典増補新版」によれば、1950年時点で戦災孤児と、食糧不足や家庭不和などで家を飛び出した「街頭児」を合わせた「浮浪児」は全国で約4万人。戦災孤児はそのうち2割の約8000人と推定された。

 石井光太「浮浪児1945―」によると、浮浪児のうち女の子は約2割。それは、「女の子の方が保護される率が高かった」からだった。男の子がもらい、たかり、「シケモク拾い」、新聞売りなどをしていたのに対し、女の子はグループの中で靴磨きをするケースが多かったが、年齢が上がって売春に追い込まれる子もいたという。

 海外から引き揚げた復員兵と、戦災孤児のその妹。樋口と少女は一見そう見える二人として、一夜の宿を提供してもらうなど、世間の同情と戸惑いの中で各地を渡り歩いた。

 戦後の「カストリ雑誌」の代表格だった「りべらる」1955年7月号に掲載された樋口の手記「私の半生」によれば、終戦直前の1945年7月、八王子少年刑務所を脱走した後、朝鮮半島に渡って飛行場建設の作業員となり、脱獄囚と気づかれないまま敗戦までを過ごした。彼自身、引き揚げ者だったことになる。その点ではリアリティーがあった。敗戦直後の混乱の時代が樋口を犯罪者として生かし続けたともいえる。

「ただもう怖くて、一刻も早く家に帰り、お母さんの顔を見たいばかりでした」

 9月24日付読売には中津川署で語った被害者、住友家長女の談話が載っている。

〈 ただもう怖くて、一刻も早く家に帰り、お母さんの顔を見たいばかりでした。連れ出された時は「あなたは狙われているから、安全な所へ連れて行ってあげます」と言われ、鎌倉から東京、千葉、松本、名古屋と、転々と。生まれて初めてすし詰めの列車に連れ込まれたり、汚い宿屋に泊まらされたりしました。途中2回も逃げ出そうと思いましたが、監視が厳重で逃げ出されず、松本、名古屋で各一泊、藤沢のお母さんのもとへ手紙を出したくらいでした。ゆうべ(22日)、名古屋駅裏の名古屋寮で、いままで着ていた服の上に、緑色の軍隊用シャツと紺の海軍ズボンをはかされて付知に行きました。どこへ行っても朝鮮からの引き揚げ者とうそを言って回り、怖い悪いおじさんがこんなふうで一体どうなるのかと心配しました。けさお巡りさんに連れて行かれたときはホッとしました。もうすぐお母さんが迎えに来てくださると聞き、うれしくてたまりません。〉

「あなたは悪い人に狙われているから守ってあげるよ」

 ところが、翌9月25日付で同じ読売が掲載した「住友家長女が語る誘拐魔との一週間」というインタビュー記事は主見出しからして「やさしいお兄さん」と印象が全く異なる。ほかの見出しも「面白かった世間勉強 生れてはじめて映畫(画)も見物」。

 記事は「住友令嬢が見知らぬ樋口のため、なぜあんなに簡単に誘拐されたのか。樋口がかわいがったことは事実だが、誘拐魔と過ごした1週間、旅行の疲れは別として、令嬢がそれほど苦痛を感じなかった、というより、むしろ7日間にわたる樋口との逃避行を楽しんだと思われる節さえあるのはなぜか――」という書き出し。中津川の旅館で記者の質問に次のように答えた。

〈 あの人が「あなたは悪い人に狙われているから守ってあげるよ」と優しく言うのを信じました。あのときも悪い人と思わず、いまでもなんだかそんな気がします。あの人が本多良夫で私が妹のひろ子、なんだかおかしかったが、しまいには本当のお兄さんみたいな気になりました。あの日(9月17日)は鎌倉でご飯を食べると電車で上野まで行き、千葉で二晩宿屋に泊まりました。

 

 千葉で生まれて初めてほんとの映画を見ました。大変面白かったのに、お兄さんは無理に私を連れ出してしまいました。私はうちで幻燈写真を見るほかは映画は見たことはなく、お友達の話を聞いて一度見たいと思っていました。〉

「初めて知った世間は面白かった」

 記者は「深窓のお嬢さんにとって初めて知った世間は案外面白かったらしい」と書いた。

〈 汽車の中であの人が新聞を読んでいるとき、のぞいたら、私の写真が載っているのでびっくりしました。兄さんが新聞を読んではいけないと言い、私も新聞をのぞいたことを恥ずかしく思いました。18日、千葉でお化粧セットを買ってくれ、20日には松本でリンゴを買ってくれたり、名古屋ではスカートを買ってくれたし、私が退屈すると、人形を作っていろいろと慰めてくれたので寂しくありませんでした。それでも初めての長い旅行で、体が弱いため苦しいこともありましたが、そんな時は非常に親切に介抱してくれました。あの人がそんなに悪い人とは……。

 

 22日の夜でしたか、兄さんが、私たちは警察に追われているから二人で山に入るのだと言いました。不思議でたまりませんでしたが、信ずるお兄さんとならどこまでもついて行くつもりでコックリをしました。〉

 この間、樋口は令嬢を家に帰し、一人で逃げようと考えたり、「自首」しようとしたりしたらしい。記事は「最後まで優しいお兄さん、樋口を疑わぬ令嬢の姿は考えさせられるものが少なくない」と締めくくっている。まるで7年後に製作されるオードリー・ヘプバーン主演のアメリカ映画「ローマの休日」を思わせる展開。前日の記事とどちらが真実に近いかは明らかだろう。24日の記事は『少女誘拐魔による財閥令嬢連れ去り』という警察の筋書きに合わせて作り上げた記事に思える。

日本最大の財産家だった誘拐被害者の父

 この事件が注目された理由の1つは、ちょうど財閥解体が進行していた時期だったからだ。アメリカは、日本が無謀な戦争を引き起こした原因は非民主主義と軍事力にあったとし、ポツダム宣言の段階から占領期の対日政策の基本的目標を日本の非軍事化と民主化に定めた。GHQは「軍事力の経済的基盤の破壊」という観点から財閥解体の方針を確定。

 1945年9月に米国国務省が発表した「降伏後における米国の初期対日方針」でも「日本の商業及び生産上の大部分を支配してきた産業上及び金融上の大コンビネーション解体の促進」を明記。三井、三菱、住友、安田などの財閥に実行を迫った。

 同年11月4日、日本政府は4大財閥持株会社の自主的解体計画をGHQに提出。11月8日付朝日には「住友本社解散へ」という、前日の発表を受けた2段の記事が載っている。「株式会社住友本社を解散し、住友系各事業の統括機関を廃止する」などの内容。

 当時、住友本社の社長だった誘拐被害者の父、第16代住友吉左衛門友成は2億6500万円(現在の約108億円)の株券を持っていて日本最大の財産家とされていた。

 しかし、栂井義雄「歴史と経営 住友財閥の象徴的君主 吉左衛門友純と友成」(「月刊金融ジャーナル」1978年3月号所収)によれば、吉左衛門本人は事業への意欲は薄く、多くは「総理事」らの「番頭」に任せて、自分は文学的な才能を発揮。「泉幸吉」の名でアララギ派の歌人として知られていた。時には「年々に失業者増す世の中に金はいよいよ片寄りゆくらし」といった歌を詠んで「番頭」たちの顔をしかめさせるような人物だったという。

財閥の“落日”

 そうしたこともあって、財閥解体によるショックは三井、三菱に比べて軽かったといわれる。ただ、そうした動きのさなかに当主の長女が誘拐されたことは財閥に“落日”のイメージを与えたことは間違いない。

 誘拐事件の第一報が載った1946年9月19日付朝日には「脅迫状も来ない 角間で父親の話」という長野発の短い記事が載っている。

「長野県の角間温泉別荘に疎開中の住友吉左衛門氏は語る。『何しろ事件は全然五里霧中で手掛かりがなく、相手から脅迫状も来ていないので、鎌倉へ行ってみても仕方がないから、このままここで事件の推移をみたうえで処置をとるつもりだ』」

 長女は母と妹らと女だけで暮らしていた。家庭的に恵まれていたとはいえなかったのかもしれない。

「変態的ロマンチシズム」か「自己犠牲」か

 被害者の住友家長女はその後、ドイツの音楽学校への留学などを経て東大教授と結婚。2児の母となったが、事件について語ることはなかった。樋口は1946年10月24日の横浜地裁での初公判で、清水家次女の誘拐は結婚が目的であり、住友令嬢は勉強するための金と清水家次女との再会、結婚の資金を作るための身代金目的だったと供述した。実際にも要求したようだが、はっきりしない。

 10月31日の判決は懲役10年だったが、憲法公布による大赦で減刑され、1954年1月に仮釈放。ところが1959年と1961年の2回、窃盗事件で逮捕された。当時の読売は夕刊の社会面コラムで「『刑の重い誘拐は割に合わない』とドロボウに転向」と書いた。服役を終えた後、結婚。3児をもうけたが、妻子が家を出たため、職を転々としたことが週刊誌で報道された。被害者と加害者は全く異なる道を歩いた。

 手記「私の半生」によれば、樋口は東京の下町の生まれ。生後すぐ役場の書記をしていた父親が死亡。母親が家政婦などをしながら樋口と姉2人を育てた。小学校の高等科を卒業して鉄道会社に就職。東京―沼津間の電気機関車の機関助手に。起こした事件の現場が湘南地域だったのはそのためだった。

 大人の女性に淡い恋心を抱くこともあったが、「手の届かぬ、はるか彼方のもののように見えるのです」。そのうち、成年女性なら口もきけないような上流家庭の子女と、子どものうちなら親しくなれることを発見したという。

 日本の精神分析の草分けのひとり、大槻憲二は「性教育無用論 寝ている子は寝かせておけ」(1957年)の中で、樋口の犯行の主要動機は「誘拐によって彼自身の魅力を実証し、そのうぬぼれを満足させること」であり、各地を流浪したことは「一所に定住して現実的正常生活中で、成人である妻子を引きまわしていく自信がないので、その代償として、象徴として、自由になりやすい少女たちを旅行中に引き回したにすぎないのである」と分析。樋口の行為は「変態的ロマンチシズム」と評した。

「堕落論」で知られる作家・坂口安吾は1947年出版の「欲望について」の中の「エゴイズム小論」で、樋口のことをこう書いている。

「この事件の犯人は彼の誘拐したあらゆる少女に愛されてゐ(い)るのである。一様に『やさしいお兄さん』であると云ふ(いう)。そしてなぜ愛されてゐるかといふと、この犯人は元来金が欲しかつ(っ)たわけではないので、純一に少女を愛しいたは(わ)つてを(お)り、そのために己(おの)れを犠牲にしてゐる」

「少女に対する犯人の立場は自己犠牲をもつて一貫され、少女の喜びと満足が彼自身の喜びと満足であつたと思はれる」

 この見方は美化しすぎているだろう。樋口が住友令嬢誘拐は金銭目的だったと認めているうえ、一連の少女誘拐の中ではわいせつ行為もしており、性的関心が全くなかったとは考えられない。

 しかし、彼の少女との逃避行にどこか“幸せな旅”に思えてしまう一面があるのはなぜだろうか。鶴見俊輔編著「日本の百年10新しい開国」は事件を取り上げた中で「財閥の家でのかたくるしい暮らしにひきかえて、優しい男性の友だちと自由に日本各地を旅してまわれることは、少女にとってひとつの解放だった」と書いている。

「引き揚げ者」として世間から決して温かい目では見られず、厄介者としてつまはじきにあった人間。“落日”していく財閥の中で、誘拐されても父が動かない女の子。逃避行が彼らにとって一種「解放」される時間になっていたとすれば、社会のゆがみが生んだ皮肉なひとときといえるのではないだろうか。

【参考文献】
▽「神奈川県警察史 下巻」 神奈川県警察本部 1974年
▽今井忠彦「旅路の涯 誘拐魔樋口の真相」 實話讀切社 1947年
▽「戦後史大事典増補新版」 三省堂 2005年
▽ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて 上」 岩波書店 2001年
▽五十嵐惠邦「敗戦と戦後のあいだで」 筑摩選書 2012年
▽石井光太「浮浪児1945―」 新潮社 2014年
▽鶴見俊輔編著「日本の百年10新しい開国」 ちくま学芸文庫 2008年
▽大槻憲二「性教育無用論 寝ている子は寝かせておけ」 黎明書房 1957年
▽坂口安吾「欲望について」 白桃書房 1947年

(小池 新)

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