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真っ暗な部屋で手錠をされ…ウイグル族男性がグアンタナモ収容所で受けた“あまりに理不尽な拷問”

文春オンライン / 2021年9月11日 6時0分

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グアンタナモ収容所に連行される男(米国防総省提供/©ロイター共同通信)

「おまえはアルカイダのメンバーだろう。早く認めろ」

「ぬれぎぬだ」

 悪夢のようなやり取りだった。中国新疆ウイグル自治区出身の51歳のアデル・ノーリーは、米中央情報局(CIA)や米軍の尋問官に執ように迫られた日々を忘れない。イスラム教徒で、国際テロ組織アルカイダの構成員と疑われ、「出口」の見えない拘束生活を7年半余り強いられた。場所は、カリブ海に臨むキューバ東部のグアンタナモ米海軍基地にある秘密の収容施設だった。

イスラム主義組織タリバンを政権の座から引きずり下ろす

 2001年9月11日の米中枢同時テロを契機に、米ブッシュ政権は「正義の鉄つい」を加えるとして「対テロ戦争」を主導した。米軍は01年10月、アフガニスタンに攻め入り、イスラム原理主義組織タリバンを政権の座から引きずり下ろした。同時テロの首謀者でアルカイダの指導者ウサマ・ビン・ラディン容疑者をかくまい、引き渡しを拒んだためだ。

 中国当局から「ウイグル独立を図る『危険分子』として追われる身」だったノーリーは当時、同胞と共に暮らしていたアフガンの首都カブールから脱出。隣国パキスタンで治安当局に不審者として捕まり、米軍に引き渡された。カブールでテロ訓練に参加していた疑いを持たれた。ノーリーは、世界各地で拘束された「テロ」容疑者の1人として密かにグアンタナモに運ばれた。

「584」。グアンタナモでのノーリーの「名前」は、収容者一人一人に付けられたコード番号だった。本名を呼ばれることはなかった。オレンジ色の囚人服を着せられ、手錠だけでなく、足かせもされて独房に入れられた。当初、放り込まれた独房は、奥行き2.5メートル、幅2メートルで窓がなかった。

関係を否定すればするほど取り調べは厳しくなり…

「真っ暗な部屋に移され、急激に冷やされたり、逆に異常に暑かったりする仕打ちを受けた」

 大音響のパンクロック音楽を何時間も聞かされた時もあったが、手錠をされているので耳をふさぐこともできなかった。心身共にふらふらになり、尋問席に押さえつけられた。

 そもそも米国を狙ったり、米国人を襲ったりするつもりは頭に浮かんだことさえなかった。それでも身に覚えのないアルカイダとのつながりを何度も詰問された。関係を否定すればするほど取り調べは厳しくなり、殴られたり、水を浴びせられたりもした。

「壮年期を、世間から隔絶された場所で拷問を受けて過ごした。心の傷は今も癒やされることはない」

同胞を苦しめる中国共産党政府

 心の支えはアラー(神)だった。思し召しを信じて、1日5回の祈りは欠かさなかった。遠く離れた故郷の地や家族の姿を何度も思い浮かべた。

 かつてシルクロードとして栄えたこともある地を踏みにじり、自分たちの文化や言葉を奪おうとして、同胞を苦しめる中国共産党政府のやり方は許されなかった。自分たちの尊厳を守ろうと、独立を目指す運動に加わった。仲間は中国当局に捕まったり、殺されたりした。迫害を逃れてウイグル自治区を離れたのは20歳の頃だった。その後は中央アジアやパキスタン、アフガニスタンを転々として、故郷に戻る日をうかがっていた。

 米国は最終的に「敵の戦闘員ではない」と判断したが、すぐに解放されることはなかった。やがて同じようにグアンタナモに収容されたウイグル族21人も解放されることが決まった。そんなある日、中国当局者がグアンタナモを訪ねてきた。用件を告げられずに面会を強要された。最初は穏やかな口調で中国への帰国の意思を問われたが、何も答えなかった。するとすぐに「本性」を表した。

夢は絶たれ、収まらない怒り

「故郷にいる親族がどうなってもいいのか」

 ガラス窓越しにさんざん脅された。つらい言葉だった。だが中国に戻れば自分が迫害され、親族にも会えないことになるのは明らかだったため沈黙を守った。他の同胞も同じように中国当局者と面会をさせられたが、いずれも帰国を拒否した。

 なぜ秘密の収容所に中国当局者の訪問が許されたのか。しかも自分たちがグアンタナモにいることは「外」の人間は誰も知らないはずだ。不可解だったが当時、理由を知るすべはなかった。対テロ戦争の一環で米国が中国と協力を深めていたのが背景にあると知ったのは、解放後のことだった。米中対立が深まる今、そんな「裏取引」が成り立つことはまったく想像できない。

 ブッシュ政権の後を継いだオバマ政権になって、グアンタナモの閉鎖が政府内で取りざたされるようになった。解放されることが決まり、米国務省から移住先を聞かれたので「米国本土で暮らしたい」と伝えた。希望はいったん認められたが、米司法省が米国本土への移住を取り消す訴訟を起こして、米国行きは破談になった。夢は絶たれ、怒りは収まらなかった。

イスタンブールで待ち受ける妻や子供と合流

「これが民主主義を標榜する国の実態なのか」

 グアンタナモ収容所は、対テロ戦争の「負の遺産」といわれる。正規の司法手続きを経ず、国際法が定める捕虜としての扱いを受けないまま、収容者への拷問が横行していたからだ。自殺者も出た。収容者は約780人とされるが、大半は「白判定」を下されて解放された。ノーリーも着せられたオレンジ色の囚人服は、過激派組織「イスラム国」(IS)が人質に着せるなどして、米国への「聖戦」を呼び掛け、メンバーを募るプロパガンダにも悪用された。

 ようやく拘束を解かれたのは09年だった。「将来の滞在先が決まるまでの一時滞在先」(米国務省)として、台湾と国交のある西太平洋の島国パラオに住むことになり、同胞5人と米軍の輸送機で運ばれた。アルバニアや中米に向かった同胞もいた。パラオでは日本への亡命も希望したが、受け入れられなかった。

 イスラム教徒が多いトルコ政府の配慮で、世界最大のウイグル族のコミュニティがあるイスタンブールに移住できることが決まった。現地で待ち受ける妻や子供と合流したのは、12年になってからだった。民間航空機を使い日本経由で向かったが、中国上空を通過した際は、強制着陸させられないか不安に駆られたが杞憂に終わった。

「超大国が掲げる『力の正義』に翻弄された悔しさ」

「9・11」の同時テロから20年がたった。対テロ戦争に突き進んだ末、アフガンでタリバン復権を許した米国と、欧米からの批判に耳を貸さずウイグル族弾圧を強化し続ける中国。両国から「テロリスト」扱いされてきたノーリーの脳裏によぎるのは、「超大国が掲げる『力の正義』に翻弄された悔しさ」だ。

 生まれ育った新疆ウイグル自治区クチャを離れて30年以上たつが、その地にもう父はいない。グアンタナモ収容中に亡くなった。イスタンブールから電話で連絡を取った母は、治安当局に一時拘束された、と聞いた。

 ポプラ並木が美しく、夏から秋にかけて新鮮な野菜や果物がバザール(市場)に並んでにぎわうクチャ。ノーリーは妻や、故郷を知らない娘と息子を連れていつか思い出の地を踏みたいと願っている。

(三井 潔)

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