1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 芸能
  4. 芸能総合

「まだ19歳だし、相手がミュージシャンだなんてあり得ない」吉田拓郎からのプロポーズに両親は大反対…浅田美代子の背中を押した樹木希林の言葉

文春オンライン / 2021年10月2日 11時0分

写真

浅田美代子さん ©文藝春秋

「あなた美人ね。それは整形?」「その細い眉毛はなんなの? みっともない」浅田美代子が語る、樹木希林が整形やメイクに反対した理由 から続く

 浅田美代子さんは、樹木希林さんの人生の、一番弟子だった。希林さんが、2018年に75歳で亡くまるまで、ずっと「ひとりじめ」にしてきた浅田さん。

 そんな浅田さんが希林さんとの思い出と、青春の日々を綴ったエッセイ『 ひとりじめ 』(文藝春秋)より一部抜粋して、2人の思い出を紹介する。(全2回の2回目/ 前編 を読む)

◆◆◆

 50代はずっと老いるのが怖くて嫌だったけれど、希林さんのそばにいるうちに、次第に老いるのもそう悪くないと思えるようになっていった。

 今だって嬉しいとまでは思えないけれど、希林さんがいうように「老いていくことを楽しまなきゃ」と感じ始めている。

 年齢に沿って変化していくことを受け入れて面白がり、その時々の生き方を自分で見つけていくしかない。それが、人間として美しいあり方なのだろうと、希林さんの生き方を見て気付かされた。

「どう見られたって構わない」

 そんな希林さんは外見だけではなく、人としてちゃんと生きている人を認めていた。一方、人として許せない生き方をしている人との共演は全て断っていた。

 今の私は役者としてはもちろん、1人の女性としても、老いを恐れて過剰なケアはしない。シンプルで日常的なケアとたまのエステで十分だと感じている。それでは、日々刻まれていくシワは減ったりしないけど、歳相応の清潔感があればいいのではないだろうか。

 これは自分や周囲の同世代を観察し続けた上での実感なのだけれど、おそらく、若い頃から過剰なケアを続けていた人は、自分の肌本来が持つ力が弱まっていく。どんどん過敏で過保護な肌になっているようだ。

 小さな変化でも過敏に反応して荒れてしまうから、より強いケアをして、また過敏になっていくという悪循環。私としては、肌も生き方同様に、自立を促したほうがいいと思っている。希林さんはいつだって石鹸で洗顔するだけなのに、ツルツルだった。

 こんな風に老いていく自分を面白がって観察したり、向き合ったりを続けていたら、いつの間にか、その恐怖を乗り越えられていたように思う。

 60代の今は、「どう見られたって構わない」という境地にたどり着いたような気がする。映画のスクリーンに、このシワが刻まれた顔がドーンと映ろうと、ノーメイクの顔や、すごい形相の自分が映ろうと、全く気にならなくなった。

 むしろ、それが監督や作品にとって好ましいものならば幸せだ。心の底からそう思えるようになったのは、やはり、希林さんのおかげに他ならない。これからも演者としてはもちろん、1人の女性としても、しなやかに付き合っていきたいと思う。

 とはいっても、グレーヘアーに出来るのはいつだろうと悩んでしまうのだが。

結婚のこと

 中学校から厳格な女子校に通っていて、16歳で芸能界に入った私は、それまで恋と呼べるほどの感情を味わったことがなかったように思う。

 女子高生の頃は、周辺の有名男子校の男の子と友だちの紹介で会ったり、通学途中や文化祭で交流を持ったりするのが楽しかったくらい。

 友だちは、慶應ボーイが好きな子が多かったけど、私はお坊ちゃまなイメージの慶應ボーイよりも、断然、駒場東大派に名乗りを挙げていた。当時から無頼でちょっと不良っぽい人が好きだったのだ。テレビや映画で観ていたスターも、当時は、ジュリーこと沢田研二派とショーケンこと萩原健一派に人気が二分されていたけれど、私は断然、ヤンチャで男っぽいショーケン派。

 ショーケンはすごく男っぽくて、ちょっと面倒臭いくらい人間味があって、チャーミングでかっこよかった。

 高校を辞めて芸能界に入ってからも、恋なんて遠い存在だった。当時の芸能界は今よりもずっと閉鎖的で厳しかったし、さらにはメールやSNSなどのツールもないから、現場で気になる人ができても想いを伝え合う術すべもなかったから。

吉田拓郎との出会い

 吉田拓郎さんに出会ったのは、19歳の時。仕事は相変わらず忙しく、刺激的な毎日を楽しんでもいたけれど、一方では言い知れぬ寂しさもあった。同じ年頃の友だちが楽しんでいることや味わっているものが、私には1つも得られないと感じていた。

 放課後の帰り道にカフェや洋服店に寄ることだったり、憧れの男子校の生徒とデートすることだったり。そんな淡くかけがえのない青春を送れないことへの不満があった。

 そんな風にプライベートでは息苦しさを感じていて、もうすぐ、自分の中で何かしらの限界が訪れるかもしれないという頃に、吉田拓郎さんのラジオ番組にゲストで呼ばれたのだ。それ以前に、彼には私の楽曲を書いてもらったこともあった。それを聴きながら、「良い曲だな」と素直に思った。ラジオ番組は吉田さんの進行で和やかに楽しく進んだ。

「吉田さんのおかげで楽しかったな」

 第一印象は、その程度だった。しかし、後日、彼は友人の南沙織ちゃんを通じて、私の電話番号を入手。突然、電話をかけてきた。

芸能界の壁を正面から突破してきた

 受けたのは、うちの母だ。吉田さんは、「吉田です」と堂々と名乗るものだから、母は他の吉田さんだと思ったらしい。もっと年配の、娘が仕事でお世話になっている“吉田先生”なのだと勘違いしていた。その時、三軒先にある友だちの家で遊んでいた私は、母に呼びもどされて、家に帰り、彼の電話に出た。

「浅田さん、もうすぐ誕生日では。みんなで祝おう」

 それは、誕生日の前夜のこと。

 みんな? 指定された場所に行くと、みんなはいなくて、彼ひとりだった。

 それが全ての始まりだった。閉塞感のある芸能界、厳しいマネージャーと両親の目をかい潜るのではなく、吉田さんは正面からその壁を突破してきてくれたのだ。

 恋に未熟で単純だった私は、それだけで胸がときめいていた。「何て男らしい人なんだろう!」と恋心に火がついてしまった。

 私よりも10歳年上の吉田さんは、いつも堂々としていて余裕があって、愛を表現することのみならず、全ての行動がストレートでエネルギッシュな人だった。そんな吉田さんは、私にとって頼もしく、一際、かっこよく感じられた。

 学生時代の淡い恋をのぞけば、大人の階段を登り始めてからの初めての恋だ。恋にも青春にも飢えていた私にとって、吉田さんから得られたときめきや刺激は新鮮であり、貴重なものでもあった。

付き合って1年でプロポーズ…両親は大反対

 2人の関係がスクープされてからは、周囲はてんやわんやしていたものの、吉田さんは、付き合って1年目くらいでプロポーズしてくれた。行きつけのBARで2人で話していた時のこと。

 一瞬、おしゃべりが止まると、吉田さんはコースターを手に取り、その裏側に何かをさらさら書いて、私に渡してくれた。そのコースターを裏返すと、「結婚しよう」と一言だけ。

 その演出のスマートさもさることながら、ここから、自分の人生がまた変わっていくのかと思うと胸が高鳴った。とはいえ、全く迷いがなかったといえば、嘘になる。

 当時の私は、まだ子供だった。芸能界に入って怒濤の3年半を過ごしてきたけれど、年齢的にもキャリア的にも技術的にも、芸能人としての浅田美代子は、まだまだこれからであろうということは、誰に言われずとも私自身がわかっていた。

 両親は大反対だった。もともと厳しくて保守的な父と母は、「まだ19歳だし、相手がミュージシャンだなんてあり得ない」と思ったようだ。特に、父親は怒り狂っていてとりつくしまもなかった。

 結婚の話を切り出すと激昂して、家の2階にある私の部屋へと向かうと、「出ていけ!」と洋服ダンスから私の服を一度に何枚もつかみ取り、窓からブワッと一気に放りなげた。

 驚いて、慌てて2階の窓から身を乗り出すと、盛大にまき散らされた色鮮やかな洋服たちが、道路一面に広がっているのが見えた。まるで花が咲いているようだなと、妙に冷静に眺めていたのを覚えている。短気な父親に辟易しながら、どこか客観的にその光景を眺めてもいた。

結婚を決めた2つの理由

 事務所も仕事仲間も反対だった。それでも、最終的に私が吉田さんとの結婚を決めたのは、ただ恋に溺れていたからだけではない。結婚を決めた理由は、主に2つある。

 1つは、あまりにも多くの人に強く反対されたから。生来、私には「何事も反対されると燃え上がる」という気の強さやひねくれた部分があるのだ。そういえば、母も反対されながら結婚したという。芸能界に入ってからは、あらゆることを我慢し続けて、自我を押し込めてきたことへの不満も一気に爆発したのだろう。そして、何より父親への反抗心が大きかった。

 母や私や弟には、厳し過ぎるほど厳しいくせに、自分は「飲む、打つ、買う」をフルでこなして、やりたい放題。そんな父にずっと嫌悪感と反抗心を抱いていた私は、早く家を出たくてたまらなかったのだ。

 この結婚は父が最も反対していたからこそ、絶対に叶えてやろうという気持ちになったことは否定できない。

 それから、結婚を決心できた理由のもう1つは、希林さんだ。「結婚したら芸能界を引退して欲しい」という吉田さんの要望にも悩んでいた私に、希林さんは、「結婚することも、専業主婦になることも良いことよ」と背中を押してくれた。

あまりにもストレートな物言いに驚き

「専業主婦をちゃんとやれたら、人間として何でもできるようになるわよ。家を切り盛りするんだよ。しかも、報酬もないのに、家族のために尽くせるなんてすごい仕事だよ。美代ちゃん、やってごらんよ」

 その言葉が私を前向きな気持ちにしてくれた。しかも、希林さんは、この結婚に反対する両親を説得しに、我が家に来てくれた。いつものように、希林さんは突然家にやってくると、母と向き合ってこう言った。

「お母さん、心配なのはわかります。でも、結婚は本人の自由ですよね。それに、美代ちゃんはもうやられちゃったんですから」

 あまりにもストレートな物言いに、一緒にいた私も心臓が止まりそうになったし、母親も驚きのあまり、ぽかんとした後にさめざめと泣いていた。

 あの瞬間は、思い返しても修羅場としか言いようがない。しかし、希林さんのおかげかはわからないけれど、結局、両親にも許されることとなった。かくして、私は21歳で結婚した。そして、7年間の結婚生活を経て、離婚した。

結婚は分別がつかないうちにしたほうがいい

 結婚している間は希林さんとは疎遠になった。

 たぶん、芸能界の風のようなものを私に匂わせたくなかったのだろう。結婚する時も私の背中を押して、たくさんの力をくれたけれど、希林さんは直感がずば抜けて鋭いところがあるから、いつか私の結婚が綻んでしまう可能性があることも、当時から予感していたのかもしれない。それでも、私が選んだ道を応援してくれる人なのだ。

 娘の也哉子ちゃんが19歳の時に、本木雅弘さんと結婚した時も、希林さんは全く反対しなかったと聞いた。

「結婚は分別がつかないうちにしたほうがいいよ。今は一度も結婚しない人が増えているでしょう。あれは、年齢と経験を重ねて分別がつき過ぎちゃったからだろうね」

 ある時、そんな風に言っていたことがある。たとえ綻んでしまったとしても、「一度は結婚してみたらいい。人として当たり前の経験ができるし、普通の感覚が身につくから。それは役者としての財産になるよね」とも。

 希林さんの言葉は、私自身も年齢と経験を重ねるほどに実感している。結婚生活は悲しかったことも苦しかったことも嬉しかったことも全て含めて、私の人生にとって無くてはならないものだったから。

(浅田 美代子/文藝出版局)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング