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「1日3000万円稼ぐ」歌謡界トップで孤独感を深めた中森明菜 近藤真彦と“初デートの夜”に起きたこと

文春オンライン / 2021年9月29日 17時0分

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中森明菜 ©共同通信社

「ラッキーだよね。私を撮って有名になるんだから」中森明菜に“鎧”が必要だった本当の理由《リハ失踪事件、演出に猛抗議》 から続く

 ディレクターとして中森明菜を担当した元ワーナーの島田雄三は、彼女の1年目の楽曲のコンセプトを「思春期の女の子が持っている表と裏をリアルに描く」と決めていた。繊細さとその裏にある不良性。島田は、「少女A」を作詞した売野雅勇に、「これからは2つの路線を交互に行きますから」と話していたという。

 売野が当時を振り返る。

「その頃、私は明菜さんに一度だけ会っています。アルバムのレコーディングの時に、島田さんの計らいでスタジオで紹介されたのですが、『こんにちは。初めまして』と言っても、口も利いてくれないし、目も合わせてくれませんでした(笑)」

(「文藝春秋」2021年10月号より、全2回の2回目/ #3 から続く)

◆ ◆ ◆

思春期の表と裏

 島田は「少女A」の次のシングルに、来生えつこ作詞、来生たかお作曲によるバラード、「セカンド・ラブ」を選んだ。

 当初から明菜本人が志向していた清純派路線だったが、「会社の営業や宣伝からは『こんな愚作を作りやがって』と散々な言われ方でした」と島田は苦笑する。

「『少女A』と同じ路線を求められていることは分かっていましたが、それをやれば明菜とはまた大喧嘩になり、コミュニケーションが続かなくなる。『セカンド・ラブ』のレコーディングは事前にレッスンもやりましたが、明菜はずっとご機嫌で、私も手応えを感じました」(同前)

「セカンド・ラブ」は約77万枚を売り上げ、明菜の全シングルのなかで最大のヒットを記録した。狙いはピタリとハマり、売野が書く“ツッパリ路線”も83年以降、「1/2の神話」、「禁区」、「十戒(1984)」と快進撃を続けた。

 コピーライター出身の売野には時代の風を敏感に感じ取るセンスと軽やかさがあった。島田は「誰かいい作曲家はいませんか?」と売野に尋ね、貪欲に新しいものを取り入れようとした。

「僕は『売れてないけど、今一緒にやっている大沢誉志幸は凄くいいですよ』と紹介しました。大沢君がハードロック調の曲を書いてきて、そこに僕が詞をつけ、『不良1/2』というタイトルをつけた。気に入っていたのですが、このタイトルが猛反発を受け、『1/2の神話』に変更を余儀なくされました」(売野)

「明菜は1日3000万円稼ぐ」と公言する者も

 続く「禁区」も、周囲はタイトルに難色を示した。売野は、中国語で「立ち入り禁止区域」を指す“禁区”という言葉の強さに惹かれ、そこに〈私からサヨナラしなければ この恋は終わらないのね〉という冒頭の2行のアイデアを組み合わせて、あっという間に詞を完成させた。

「参考のために購読していたティーン雑誌に、人生相談のコーナーがあり、そこに店長と不倫する高校2年生のアルバイトの女の子の投書が載っていました。カラダ目当ての店長との恋愛に悩む彼女は、『この恋は、私から終わりにしなければ終わらないのでしょうか』と最後に綴っていました。これはそのまま詞になると思い、私は投書の彼女のために詞を書くことにしました。そこに細野晴臣さんがいい曲を書いてくれたのですが、歌入れの段階で、島田さんが『ちょっと過激すぎます』と私の詞に若干手を入れました」(売野)

 出来上がった曲は明菜の“拒否反応”を想定し、仮タイトルを「芽ばえ」としてレコーディングを行ない、発売前にタイトルを戻したという。

 当時の明菜は、シングル曲を出せば50万枚を超えるセールスを期待される存在になっており、デビュー2年目の83年はレコードの売上げだけで67億円を記録。ワーナーの幹部のなかには、「明菜は1日3000万円稼ぐ」と公言する者もいた。

アイドルから本格シンガーへ

 明菜は18歳にして巨大な音楽ビジネスの渦に巻き込まれ、周囲は彼女を腫れ物に触るように扱った。ディレクターの島田は、明菜と会社との板挟みに苦悩しながらも、初期の成功体験に囚われることなく、新しい明菜像を模索した。その一つの完成形が、84年11月に発売された井上陽水の作詞作曲による「飾りじゃないのよ涙は」である。島田が語る。

「当初はアルバムに収録する曲として考えていたのですが、オケ録りの日に陽水さんが現れ、女性シンガーの仮歌を聴いて、『イメージが違う。僕が唄っていい?』と言う。『構いませんが、キーが違いますよ』と答えたら『大丈夫、これくらいなら地声で行けるから』とスタジオに入って行きました。陽水さんが生演奏に合わせて唄うと、鳥肌が立ちました。ミュージシャンも大ノリで、素晴らしい楽曲になった。これはシングルで行くしかないとすぐに決断しました」

 明菜は見事に陽水の世界観を表現し、彼女はアイドルから本格的なシンガーへと転身を遂げた。

「明菜はいつもこちらが望む以上の結果を出してくれましたが、その集中力はある種の狂気を孕み、私自身も引き摺られた部分がありました。明菜との仕事で夜も眠れず、胃の痛みで、3回救急車に乗っています。中途半端な覚悟で出来るものではありませんが、そのうちに彼女のレコーディングでの集中力が落ち始め、納得行くまで何度も挑んで来た彼女が、夜が更けてくると段々とソワソワし、『もういいでしょ』みたいな雰囲気が出て来るようになった」

 その原因はのちに明らかになる。85年1月に公開された映画「愛・旅立ち」で共演した近藤真彦との秘めた恋が始まっていたのだ。

マッチとの初デート秘話

 明菜の2年前にデビューした近藤は当時、すでに日本を代表するトップアイドルだった。近藤のファンであることを公言していた明菜と近藤との共演を実現させたのは映画プロデューサーの山本又一朗。現在は小栗旬などの俳優を抱える芸能プロ「トライストーン・エンタテイメント」の代表である。

 山本が映画製作の経緯を語る。

「私は明菜がデビューする前の『スター誕生!』の頃から注目していました。もともと親交があった研音に彼女の所属が決まってからは、映画の話を折に触れて打診していました。研音側からの了解を貰って、マッチの所属するジャニーズ事務所のメリー喜多川さん(今年8月14日に逝去)に交渉に行き、最初は『太陽を盗んだ男』を監督したゴジこと長谷川和彦が書いた脚本で企画を進めました。私もゴジも同様に、明菜の演技力を評価していましたし、熱量のある脚本も上がっていたのですが、結局、この企画は頓挫し、監督も脚本も替え、再スタートすることになった。それが『愛・旅立ち』という映画です」

 映画の撮影が始まるに際し、メリーは「山本さん、2人を一緒に連れて行って、食事でもして」と配慮をみせた。ちょうど翌日が2人とも休みだったことから山本は2人を誘って会食に出かけた。

 山本が買ったばかりのベンツで迎えに行くと、運転好きの近藤は興味津々で、「山本さん、ドライブ行きましょうよ」と声を掛けてきた。

「結局、マッチがハンドルを握り、助手席には明菜、そしてバックシートには私が座りました。2人に自由に話させたいと考えて『俺は後ろでひっくり返って、少し寝るよ』とひと声かけました」

 ベンツは夜中の高速を箱根方面に向かった。

「2人の会話を聞くともなく聞いていると、ベストテンで2人が共演した時、次の出番が誰で、あの日はこうだったよねと他愛もないことを楽しそうに話していました。2人は恋愛にはまだ程遠い、本当に初々しい感じで、微笑ましかった」(同前)

 箱根ターンパイクを通り、都心に戻りかけた時、マッチは思い出したように「お腹が空いた」と声を上げた。ただ、時間は午前1時を回っており、トップアイドル2人を連れて行ける店があるはずもなく、山本は帰る途中にある自宅に2人を誘った。そして就寝している家人に分からないようこっそりパスタを作って2人に食べさせ、ベンツでそれぞれ送り届けたという。

歌謡界トップで孤立感を深めた明菜

 撮影期間中は、2人に交際を感じさせるような動きは微塵もなかった。ただ、あの夜からすべてが始まり、2人は急速に近付いていったのだ。歌手としての明菜は85年に「ミ・アモーレ」、86年に「DESIRE」で2年連続レコード大賞を受賞する偉業を成し遂げ、名実ともに歌謡界のトップに立った。しかし、この頃にはデビュー当時から明菜を支えて来たスタッフから顔ぶれも一変し、孤立感を深めた彼女は、限られたスタッフとセルフプロデュースの道を選んでいく。

 後発の音楽番組としてテレビ朝日が86年からスタートさせた「ミュージックステーション」の元プロデューサー、三倉文宏は当時の明菜の印象についてこう語る。

「彼女は自分の身の回りの衣装やヘアメイクのスタッフには物凄く気を遣っていて、可愛がっていました。『うちのメンバーとお鍋を食べたいんだけど、連れて行って貰えないですか』と言うので、一緒に行くと、『これ食べなきゃダメよ』と具材を彼女たちに取り分けてあげていました。それなのに自分は、ポン酢のタレに一味唐辛子を一本丸ごと掛けている。驚いて理由を聞いたら『太らないように』と言っていました。それも儚げな自分を演出するための手段だったのでしょう」

 だが、日本経済がバブルに突入し、空前の好景気に沸くなか、音楽シーンは大きな曲がり角を迎えていた。

近藤の自宅マンションの浴室で

 フジテレビのバラエティ番組から誕生した「おニャン子クラブ」が秋元康のプロデュースで人気を呼び、ブームがピークとなった86年にはソロ名義やユニットで次々とヒット曲を量産。ヒット曲の短命化が進んだ。何週間もチャートにランクインし、広く浸透していくヒット曲が次第に姿を消していくと、ランキング番組にも異変が生じ、明菜を育てたベストテンですら視聴率で苦戦を強いられた。あとはどこの局が最初に撤退を決めるか。“チキンレース”の様相を呈し、音楽番組にとって幸福な時代は終わりを告げようとしていた。

 そして89年1月、時代は激動の“昭和”から“平成”に変わった。ベストテンは同年7月6日の放送で、9月末をもって番組が終了することを発表した。その5日後――。

 明菜は、近藤の自宅マンションの浴室で左手を切り、自殺を図った。彼女にとって唯一の救いだった近藤の存在が表沙汰になって、マスコミの関心は2人の痴情の縺(もつ)れに集中した。

 事態の収拾に乗り出したのはジャニーズ事務所のメリー喜多川だった。明菜にとっての本当の苦悩が始まるのは、まさにこの時からだった。

(文中敬称略、「文藝春秋」次号に続く)

(西﨑 伸彦/文藝春秋 2021年10月号)

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