1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 政治

安倍前首相は「国がめちゃくちゃになる」と…総裁候補・河野太郎は「異端児キャラ」をいつ封印したのか

文春オンライン / 2021年9月27日 20時0分

写真

©️AFLO

 自民党総裁選(29日開票)が面白い。河野太郎、岸田文雄、高市早苗、野田聖子(届け出順)が立候補し、混戦を極めているためだが、とはいえ、この総裁選から「菅の後」を決める以上の意味は見えにくい。

「森友学園」「桜を見る会」の問題の再調査の必要がないことを有力候補の河野・岸田が表明していくなど、「安倍さんたちを安心させるアピールをする会」になってしまっていることや、河野の萎縮によって、世代交代や路線対立といったものが、ぼやけてしまったからだ。

かつて異端児だった河野は

 河野は、かつては異端者としてふるまい、それが世間に受けて面白がられてきた。脱原発を唱えたり、ブログで女系天皇の検討を主張したりするなど、ステロタイプな“保守”とは一線を画していたのだ。ところがそれが仇となり、安倍晋三らから「国がめちゃくちゃになる」(日刊ゲンダイ9月9日)との懸念の声があがるようになどするため、河野は党内でのハレーションを起こす主張を引っ込めていった。

 それはつまるところ「長老」たちへの気遣いだ。異端者であることはTwitterのフォロワー数を増やす分にはいいが、総裁選で勝つには足かせとなる。

 長老というのは世話焼きが仕事で(森喜朗がまさにそれだ)、恩義などによる人間関係のネットワークを広げているため(森喜朗がまさにそれだ)、なにかと面倒くさい存在である(森喜朗がまさにそれだ)。おまけに安倍のようにまだ枯れていない者がそうした立場になると、それこそ面倒くさいだろう。しかしこの長老たちに気に入られないことには今日の総裁選は勝てないようだ。

 それでいえば高市は、森・安倍と同じ派閥(当時・町村派、現・細田派)に所属していたが、2011年に離脱したことで森を激怒させ、現在も同派内での評判が悪いという。そのためか、高市は自らの出馬表明が掲載された月刊文藝春秋の発売日(8月10日)にあわせて、森のもとへ挨拶にいって喜ばせている(週刊文春9月16日号にて、本人・談)。

 その甲斐あってか、安倍は高市支持を表明し、そのうえ「私の言葉は森さんの言葉だと思って聞いてほしい」と言ってまわっているという(週刊新潮9月22日発売号)。見事に長老たちを使いこなす高市である。

 もっとも河野も安倍を含めた長老まわりをしている。派閥の首領・麻生太郎に「安倍氏の了解を取れなきゃダメだ」と言われたこともあってか、安倍のもとを訪ねては「ご懸念には及びません」と安心させようとしたという(サンデー毎日9月26日号の鈴木哲夫による記事)。

 そうした場で河野は原発の再稼働の必要を認め、また「女系天皇を容認すると言ったことはありません」とかつてブログで主張したことを否定するのだが、それでも安倍は「あぁ、河野は認められないね」と言うのであった(週刊文春9月23日号)。

河野の言うところの「本来の保守」とは?

 このように安倍に嫌われる河野だが、その根本は「保守」観の違いにある。その意味で面白いのが、9月17日に行われた各候補者による所見発表演説だ。

 ここで河野は、「本来、保守とは度量の広い中庸な、そして温かいものであります」と述べている(注1)。左右の極端を排した穏当さが保守主義の要諦ということだろう。ポイントは「本来」と前置きしていることだ。これは河野が言うものとは違う、保守まがいのものが世に蔓延っていることを示すためだと取れる。

 実は河野が9年前に著した『「超日本」宣言』(講談社・2012年)にもほぼ同じフレーズが出てくる。「本来、保守主義とは、度量の広い、中庸な、そして温かいものであったと私は思います」という具合だ。ここではこう続いている。「一部の保守を名乗る人間が、排他主義的な外国批判を繰りかえしていますが、これが保守主義とはまったく相容れない活動であることは言うまでもありません」。これは当時、猖獗を極めたネット右翼を指していよう。

 では、今回の演説でも「本来」と前置きしているが、それは一体、何を/誰を本来の保守とは異なるものと言おうとしてのことなのか。

高市が繰り返す「守り抜く」

 この演説会で高市は「私は国の究極の使命は、国民の皆さまの生命と財産を守り抜くこと。領土・領海・領空、資源を守り抜くこと。そして、国家の主権と名誉を守り抜くことだと考えております」と述べている(注2)。安倍のキャッチフレーズは「日本を、取り戻す。」であったが、高市がここで繰り返す「守り抜く」は、安倍の「取り戻す」の言い換えともいえる。

「守り抜く」は、「誰から」が省略されているが、それは「敵とみなす者から」だろう。安倍は「あんな人たちに負けるわけにはいかない」といったが、現在、高市の支持者たちが河野を敵視して「あんな人に負けるわけにはいかない」とばかりに河野批判の熱を高め、高市までもが迷惑がる事態になっている。

 こうした敵と味方を峻別して敵を攻撃する態度に対置するのが、「度量の広い中庸な、そして温かいもの」、すなわち河野のいう保守であろう。今回の総裁選は、はからずも、このようにして「保守」とはなにかを浮き彫りにするのであった。

 では、果たして河野は温かさのある政治家なのだろうか。

「はい、ダメ」「はい、次」「日本語わかる奴出せよ」

 このように問えば、多くの者は週刊文春9月9日号が報じた、河野の官僚へのパワハラ的行為を思い浮かべよう。「はい、ダメ」「はい、次」を計13回繰り返し、「日本語わかる奴、出せよ」と言い放つ、あれだ。相手の立つ瀬を失わせるように言い負かして追い払うのである。

 あるいは担当相としておこなった新型コロナのワクチン供給については、GW前に計画変更がなされていながらそれを知らせることはなく、現場をふりまわしておいて、接種が進んだところで「やはり河野太郎でなかったらここまで来なかっただろうと正直、思っています」と自画自賛する。

 無理をするのは他人、成果は自分というわけだ。竹下登は「自分で汗をかきましょう、手柄は人にあげましょう」と言ったが、その真逆である。

 このように河野は、人の上に立つ者であると同時に、人を使う側の人間としてふるまう。

 それでいえば、河野は総裁選の最中の19日、Uber Eats配達員と意見交換をする。このとき、配達員が「副業禁止を禁止にしてほしい」と申し入れたのに対して、河野は「賃金をどう増やしていくかという選択肢の一つが、個人の副業」と応じている(産経新聞9月19日配信記事)。

 Uber Eats配達員を、働く者にとって自由で新しい働き方と見るか、企業側にとって都合のいい単発の業務委託と見るか。それでいえば河野は前者に見えるようなことを言っている。総裁選用のTwitterアカウントでも「働き方も多様化」とのコメントを配達用のバッグを背負う写真とともに投稿する次第だ。

「副業すればいいじゃないか。はい、次」?

 配達員はUberと雇用契約の関係にないために労働法が適用されないなど、こうした業務委託が問題視されるなかにあって、なんと無邪気なふるまいであろう。

 そもそもひとつの職業の収入で生活できないのは、社会の歪みである。それを正そうとせず、つまり賃金が上がるように、あるいは非正規雇用を減らすようにではなく、副業によって食えるようにしようというのであれば、菅義偉以上に自助を求める社会を生み出そうとしている。

 それにしても、これは一体、なんのセレモニーだったのか。苦境を訴える者に「生活が苦しいのなら、副業すればいいじゃないか。はい、次」とでも言うための前フリなのか。

 これを雇用の流動化を推し進めるためのパフォーマンスとしてみれば、竹中平蔵と気が合いそうに思える。そういえば河野が「長老」を嫌う理由に、彼らによって小泉構造改革が貫徹できなかったとの思いがある(二宮清純との共著『変われない組織は亡びる』祥伝社・2010年)。

 テレビでは総裁選候補者4人に「○」「×」の札を持たせて、夫婦別姓などの可否について聞いているが、そうしたコーナーをやるのであれば、竹中平蔵を政府の経済財政諮問会議の一員に入れるのか否か、これを問うてくれればよかったろうに。

 河野は果たして、○なのか×なのか。

(文中敬称略)

(注1)河野太郎の所見発表演説は下記を参照した。
自民総裁選 所見発表演説会(全文1)再エネ100%も絵空事ではない(yahooニュース)

(注2)高市早苗の所見発表演説は下記を参照した。
自民総裁選 所見発表演説会(全文3)日本経済強靭化計画で経済建て直す(yahooニュース)

(urbansea)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング