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「おとーさん、サトテルや」小学5年生のタイガースファンが初めて甲子園に行った日

文春オンライン / 2021年10月9日 11時0分

写真

©いしいしんじ

 いま10歳。小学5年生のタイガースファンいしいひとひ。

 持っている応援タオルは、鳥谷選手、梅野捕手、そして「0点で抑えることができてよかったです。」と書かれている、岩崎投手の3枚。野球カードは阪神の選手だけでファイル1冊におさまらない。

 それらをぜんぶ詰めこんだリュックを、持って帰ってきたランドセルのかわりに玄関で背負い、ひとひは一路、憧れの聖地めざして出発した。京阪、JR、阪神と乗りつぎ、西宮の駅を過ぎてしばらく、海側の窓におなじみの威容が見えてくる。

憧れの聖地、阪神甲子園球場に初めて行った日

 9月9日、木曜だった。台風が東へ過ぎ、暮れなずむ夕空の高みに、ふたつ、みっつの雲。おとなの僕も、改札を出て思わず深々と深呼吸した。まったく、泣けてくるくらいのナイター日和だ。まわりには、関西圏から結集したタテジマ、黄色、オールドスタイルと、とりどりのレプリカユニフォームに身をつつんだおっちゃん、おばちゃん、少年少女、おじいちゃんおばあちゃんらの群れ。

 対ヤクルト戦。阪神甲子園球場はいま試合開始15分前だ。

 グッズショップ内を駆けめぐり、佐藤輝明のタオルをゲット。ゲート前で荷物チェックを受け、僕にとってはなつかしい狭さの階段を駆けあがる。と、一気に、雲の上につきぬけたように視界が広がる。ひとひは僕の前で立ちつくし、秋空と一体化した真みどりの窪地をみわたしている。

 横顔をのぞくと、意外というか、納得というか、「海をはじめて見た子ども」のような表情ではない。テレビで見知っていることに加え、ここ2年の毎週土日、自分でもグローブをもってグラウンドで土にまみれている。甲子園球場の、その野球場としてのかたち、広さを、ひとひは一野球少年として、その瞳におさめようと、大きく目を見開いて立っていた。

 一塁側アルプス席のほぼまんなかあたり。席についてスコアボードを見あげ、ひとひは顔をぱっと輝かせ、

「おとーさん、きょう先発、はるとやで!」

 控えではあるけれど、しばしばマウンドにあがる左投手として、ひとひは以前から髙橋遥人に憧れに近い仲間意識をもっている。長い調整期間を経て、今年はこの日が初マウンドだ。

 アナウンスが流れ、グラウンドに現れた選手たちが定位置に散っていく。マルテが、近本が、糸原が、中野が、大山が。

「おとーさん、サトテルや、ほら、サトテルがキャッチボールしてるって!」

 と、ここではもう一選手でなく、一少年ファンとなったひとひが興奮して席で跳ねている。アルプスから見おろすとちょうど目の前がライトの定位置だ。

 髙橋遥人がマウンドにのぼる。

「キャッチャー、梅ちゃんやないんやね」

 たしかに。ボードには坂本の名が。審判の声が遠くひびき、遥人は第一球を投じた。

「ああ、夢みたい、てこれかあ」

 ここからがもう、夢の坂を転げ落ちていくようだった。長い1回表だった。ぽろぽろと自在に動くボールを、阪神の野手陣がつかまえきれず、気がつけば、掲示板には大きく「5」の数字が刻まれていた。

 夢はまだつづいた。2回に1点を追加されての4回裏、チャンスからヒットを重ね、これで3対6。5回表にマウンドにあがった藤浪晋太郎が圧巻の、今年最高といってよい投球を見せ、球場は黄色い海原のようにうねり盛りあがった。

「ふじなみ、めっちゃでかいなあ!」

 その同じ藤浪が、6回表、3人にドッジボールみたいな四球。黄色い海原はしーんと平らかに。交替した岩貞も球道が定まらない。僕たちから少し離れた応援席から、派手なユニフォーム姿のおっちゃんが、

「こっらぁ、ストライクはいれへんのんかあ!」

 ひとひは小声で、な、おとーさん、あれってヤジ? 僕も小声で、うん。ヤジのなかのヤジ。おっちゃんの声で、僕のなかで夢の幕が落ちた。そのまま9回裏まで長々とつづいた野球的現実を、僕たち阪神ファンはスタンドからえんえん直視するほかなかった。

 スコアは3対13。

「めっちゃ負けたなあ」

 帰りの新幹線で、しかし、ひとひは終始にこやかだった。

「めっちゃ負けたのに、めっちゃ楽しかったなあ、すぐそこに近本とか、サトテルとか、ほんまにいはんねんで。打ったり、捕ったりしたはんねんで。それだけでも楽しいやん。ああ、夢みたい、てこれかあ」

 小5の野球少年は試合中もずっといい夢をみつづけていたのだ。

「球場で見るホームランて、こんな風に見えんねんなあ」

 人生において、2回目は重要だ。一度きりの場所、経験なんて無数にある。が、2回目となると、そこにわずかでも「縁」が芽ばえる。その後、3、4と回を重ね、縁を育んでいくかどうかは本人次第だ。

 10月1日。晩ごはんは、駅前の地下食品売り場で買っていく。ポテサラ、鶏そぼろめし、イカタコフライ、鉄火巻き。

「カラアゲは、ぜったい、球場の甲子園カラアゲ」

 と、ひとひは主張。無人窓口のバーコード読み取り機で「シャリーン」とチケットを発券。入場ゲートはホームの真裏。今回はふんぱつしてグリーンシートを購入した。

「おとーさん、先発、いとうや!」

 わずかでも年が近いからか、アマの香りが残るからか、少年野球の選手たちにきいてみると、佐藤、中野、伊藤のみならず、牧、奥川、栗林と、おおむねルーキー好きの傾向がある。それもまあ、皆が皆、大活躍しているからだろうけれど。

 1回の表、伊藤の投じた初球がゴロアウト。これでテンポに乗り、ストレートがびしびし決まりだす。真正面からフォームを見ると、左腕をためこんだ後、一瞬で解放し、勢いつけて投げこんでくる様がよくわかる。三者凡退! 三者凡退! 

「パーフェクト、いくんちゃうかあ」

 腕がうずくのか、ひとひもからだをむずむずさせて見入っている。

 4回の裏。その予兆はなかった。ファンも選手たちも、不意をつかれた、という感じだった。大山が一閃したバットから、一瞬おくれて打球音が響き、高々とあがったボールはレフトスタンドの前列に「ひっかかる」感じで着地した。大山自身は確信していたようで、大歓声があがったときにはすでに、軽く拳をあげながらダイヤモンドをゆうゆうとまわっていた。

 物静かで、雄大な、大山らしい四番のツーラン。これで2対0。

 5回表、伊藤が先頭打者にホームランを浴びる。2対1。スタンドにちょっぴり緊張感が走る。

 が、5回裏、ツーアウトから近本、中野が出て1、2塁。

「おとーさん、行くんちゃうかあ」

 そう、そんな気配が充ち満ちていた。そんな空気のど真ん中に投げこまれた一球を、全身ムチのような「砲丸投げ打法」マルテのバットが、いつも通り、斜め下から思いっきり引っぱたいた。

 音が飛んでゆく。打球に視線が追いつかない。とらえた、と思ったら、もうそこはレフトのポール際、色とりどりに渦巻くひとの海原のどまんなかだった。スリーラン。これで5対1。

「おとーさん」

 とひとひが、夢の声でつぶやく。まわりでは黒と黄色の六甲おろしが吹き巻いている。

「なあ、球場で見るホームランて、ほんものって、こんな風に見えんねんなあ」

 そう、時がとまんねん。

 伊藤は7回を2失点の好投。代打に佐藤輝明の名がコールされたときの球場のどよめきは、実は、この日いちばんだったかもしれない。一スイングごとに、あんな雪崩のような声援が押しよせるのか。たとえ空振りでもセカンドゴロでも、今年の阪神を盛りあげた第一人者はもちろんこの新人だ。ベンチに戻る8番の背ににえんえんと喝采が送られる。ひとひも9月に買ったタオルを広げて見送っている。

「マジ、帰りたないなあ」

 8回、9回の展開は早かった。最後はなんとなく糸原のような気がしていた。9回表、セカンドライナーからのゲッツーでゲームセット。と思いきや、中日ベンチからのリクエストでビデオ判定がはじまった。

 いやに時間がかかる。なんとなくいやな予感。バックスクリーンに映像が大写しになるたび、酔っぱらったおっちゃんら(この日からビール解禁だった)が応援バットを叩きながら、

「セ~フッ!」「セ~フッ!」「やっぱり、セ~フッ!」

 主審が出てき、ホームベース近くで右手をあげてアウトのコール。スコアは5対2。タイガースはこの上なくキモチいい勝利をおさめた。

 ヒーローインタビューにはもちろん伊藤とマルテが呼ばれた。

 おっちゃんたちは大声で、

「おーい、マルちゃあん、ラパンパラやってくれえ!」

 と叫ぶ。

「おとーさん、あれもヤジ?」

 うーん。僕は少し考え、

「あれは、ええヤジ」

 ひとひが生で見たかったもの。生の左からのクロスファイア。生のホームラン。生の梅ちゃんの偽投と捕殺。生ラパンパラ。生のサトテルのスイング。生「0点で抑えられたのでよかったです」。生スアレス。生リクエスト。生ヒーローインタビュー。生の六甲おろし。

 生の、負けのあとの勝ち。

「あー、帰りたないなあ、マジ、帰りたないなあ」

 ひとひの叫ぶ声が、銀傘にわんわん反響する。

 たしか僕も10歳だった。はじめて見にいったほんもののスタジアム。南海大阪球場、がらんとしたスタンドに飛びこみ、ゆっくりとバウンドする門田選手のホームラン。

 野球好きなら、きっとひとりひとりが覚えている。その球場のかたち、広さ。そこには誰がいたか。そこでいったい、初めてなにを見たか。

 マサカリ投法。一本足打法。つながりまくるマシンガン打線。サイクルヒット。ノーヒットノーラン。高々とあがる野茂の足。マウンド上の江川。清原の、落合の、バースのホームラン。

 その瞬間が見えるか。時はまだ、とまっているだろうか。

◆ ◆ ◆

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(いしい しんじ)

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