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「5球しか投げていないのに、翌朝は腕も肩も背中も強張って起き上がれなかった 」 “平成の怪物”松坂大輔が語った、引退試合を行うことが“嫌だった”理由

文春オンライン / 2021年11月2日 6時0分

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撮影:松本輝一

 “平成の怪物”、松坂大輔氏(41)が23年間の現役生活にピリオドを打った。1998年に横浜高校で春夏甲子園連覇を達成し、ドラフト1位で翌99年に西武に入団。2006年オフにボストン・レッドソックスに移籍し、07年にはワールドシリーズで日本選手として初勝利を挙げチームを優勝に導くなど、日米通算170勝という華々しい成績を残した。

 一方で、度重なるケガにも悩まされた。2011年にトミー・ジョン手術を受けた右ひじや右肩、さらに2020年7月にも首の痛みと右手のしびれの治療のため頸椎を手術するなど、満身創痍だった。背番号「18」を背負った10月19日の引退試合の最高球速は118km。150km超を記録した“剛腕”の影はなかったが、スタンドの観客、そして日本中のファンから大きな拍手が送られた。引退を迎えた心境を松坂氏が語った。(全3回の1回目/ #2 、 #3 を読む)

初めての「まるで音のないマウンド」

――23年間の現役生活お疲れ様でした。引退試合で投げた最速118kmの5球には、1999年に155kmの直球で鮮烈デビューを果たして以降の松坂さんの歴史が凝縮されているようで、感慨深いものがありました。

松坂 本当は投げたくなかったんですよね。投げられるかどうかも分からないし、冗談で引退試合はバッターボックスに立とうかななんて言っていました。でも今は、現在の姿をさらけ出せてよかったな、と思いますね。どんなに頑張ってもマックス118kmだったし、そもそもストライクが入らない。しかもたった5球しか投げていないのに、翌朝は腕も肩も背中も強張って、起き上がれない状態でしたから(笑)。こんな状態だから引退したんだよな、とスッキリしましたね。

――それにしても感動的な引退試合でした。観客は呼吸をするのも忘れたかのように松坂さんの一球一球を凝視していました。

松坂 これまで日米合わせ377試合に登板しましたけど、まるで音のないマウンドは初めてでした。去年のオープン戦で登板したときも無観客でしたけど、ベンチなどからの話し声や何らかの音があった。でも、引退試合は真空管の中に入っているような感じだった。だから文化放送のライオンズナイターの中継アナウンサーの声が大音響のように届いたんですよ(笑)。

――観客約1万人の思いが一つになっている感じがしました。

松坂 それは僕も感じて感動しましたね。一番やばかったのは、ウォームアップでグラウンドに出たとき。球場の皆さんが大きな拍手を送ってくれたんです。途端に鼻の奥がツーンとなった。そもそも前日からちょっと湿っぽくなっていたので、拍手で迎えられた時は、壊れそうな涙腺を堪えるのが結構大変だった。歳のせいですかねえ、最近涙もろくなってしまって……(笑)。

 だからマウンドに立つ時が一番心配だったんです。涙で捕手のミットが見えなくなったらどうしようって。でも、全然大丈夫でした。マウンドに立った途端、ストライクを取ることしか頭になかったですから。

マウンドにどうしても「ありがとう」を言いたかった

――5球とも直球でした。初めから真っ向勝負をしようと考えていたんですか。

松坂 ブルペンで練習していた時は、変化球の方がストライクが入っていた。マウンドに行く前に捕手の(森)友哉から「どうしますか」と聞かれたので、全部ストレートで行くと。ただ、対戦相手(日本ハム)の一番バッター近藤健介外野手には「1球目と2球目のボールは野球殿堂に飾られることが決まっているので見逃してほしい」とチームマネージャーからお願いしてあったみたいです。

 僕から横浜高校の後輩の近藤にリクエストしたのは「ストライクが来たら打ってもいいよ。ただ、ホームランだけは勘弁してくれ」と(笑)。やっぱり最後の試合で失点はしたくなかったですし、後続を抑えてくれた十亀(剣)投手には本当に感謝。

 でもストライクになった2球目の118kmはバッターにとったら美味しい球。打たないようにとお願いしていなかったらホームランにされていたかも(笑)。

――試合終了後に球場を一周し、最後にマウンドに手をかざしていたのが印象的でした。

松坂 マウンドにどうしても「ありがとう」を言いたかった。初めは誰もいなくなってからと考えていたのですが、試合終了後は観客にグラウンドを開放すると球団から聞いたので、その前に行かなくてはと。

 でも、あとで考えたら恥ずかしかったですね。観客や選手全員に注目される中、一人でマウンドに行きましたから。でもあの時はそこまで考えが及ばず、とにかくマウンドにサヨナラと感謝をいうタイミングを見計らっていたので、自然な流れで行ったつもりだったんですけどね。

西武鉄道の西武球場前のホームが「18番」ホームに

――西武鉄道の西武球場前駅のホームも18番ホームになっているし、電光掲示板には松坂さんへの感謝のメッセージが流れていました。

松坂 僕も後で映像を見て何とも言えない嬉しさがこみ上げてきて、一人で感動していました。ユニフォームも最後は「18番」をつけさせていただいたし、心に残る引退試合を準備してくれた球団には本当に感謝です。

 当初は、今の姿をさらけ出したくないから引退試合を行うことが嫌だったんです。でも今は、情けない姿かもしれないけど、ボロボロになるまで遣り切った姿を多くの人に見てもらったし、きちんと自分にもけじめをつけられたので、やって良かったと思います。

「最後はユニフォームでマウンドに立つ松坂が見たい」という声に押されて

――そもそもなぜ引退試合を10月19日に決めたんですか。引退を発表された7月7日から3か月以上経っています。

松坂 夏ぐらいから引退試合の話は球団から打診されていましたが、とても投げられる状態ではなかったし、その頃まだチームがポストシーズンに行ける可能性もあったので、そんな際どい試合をやっている最中に僕の引退試合なんてとんでもないと、固辞していました。

 でも球団の人たちが「最後はやっぱりユニフォーム姿で投げているところを見たい」と言ってくれ、友人知人からもそんな声がたくさん届いていたので。具体的に引退試合のセレモニーについて話し合い始めたのは僕の誕生日(9月13日)あたりから。ホームでの最終戦にはシーズン終わりのセレモニーがあるので、前日の10月19日にしようと。

 僕はそれまでの半年ほど、身体の状態を確認するためキャッチボールをほんの数回しただけで、ほとんどボールに触っていなかった。そのため、ボールを投げることの難しさを認識していたし、試合で投げることには恐怖心しかありませんでした。

 そして本来、プロ選手である以上、満足にボールを投げられない姿でマウンドに上がってはいけないと思っていたんです。でも「最後はユニフォーム姿でマウンドに立つ松坂が見たい」という声に後押しされましたね。

――現役のころ、自分の引退についてどのようなイメージを持っていたんですか。

松坂 最初に思い描いていた終わり方ではないですね。ヤンキースのピッチャーだったマイク・ムッシーナが、08年に20勝を挙げ「もうこれ以上はない」と言って引退したんです。ソフトバンクホークスの王貞治会長も、その年に30本のホームランを打っているにもかかわらず「もう王貞治としての仕事ができなくなりました」とバットを置いた。

 ムッシーナや王さんの引退の仕方がめちゃくちゃカッコいいと思っていました。僕もそのような引き際にしたいと思い描いていたんですけど、途中から変わりましたね、ボロボロになっても投げ続けたいって(笑)。

 でも今は、本当にいい終わり方をしたなって思いますね。後で映像を見ても感動しますし、10.19という数字は僕の人生に一生刻まれると思います。

終わった後、上地雄輔さんを相手にピッチング

――引退セレモニーがすべて終わった後、室内練習場で横浜高校先輩の上地雄輔さんを相手にピッチングをしました。

松坂 上地さんとは高校時代にバッテリーを組んでいましたから、現役であるうちにもう一度僕の球を受けてもらいたいと考えていたんです。上地さんには高校時代だけでなく、僕がケガで苦しんでいる間も本当にお世話になって…。話し相手になってくれたり、アドバイスをいただいたり、心身共に助けてもらいました。

 上地さんはピッチャーを乗せるのが上手いので、気持ちよく投げられたし、高校時代に戻ったようで本当に楽しいひと時でした。傍から見たら、いいおっさんたちが無邪気だね~、なんて言われそうですけど。

( #2 に続く)

《現役引退》「期待に応えられなかった日本での7年間の慙愧の念は、一生背負っていく 」 松坂大輔が“給料泥棒”とバッシングされるより“辛かったこと”とは へ続く

(吉井 妙子)

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