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「おかえりモネ」が描き続けた“生きづらさ”の正体…《手をつなぐラストシーン》に込められた深い意味

文春オンライン / 2021年11月3日 6時0分

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ヒロインの永浦百音を演じた清原果耶 ©AFLO

 “朝ドラ”こと連続テレビ小説「おかえりモネ」(NHK)が終わった(全120回)。朝ドラシリーズとしてはすでに新作「カムカムエヴリバディ」がはじまっているとはいえ、未だ「モネロス」「#俺たちの菅波ロス」など余韻に浸る視聴者も少なくない。

「あさイチ」の朝ドラ受けも「カムカム」の初回を受けず「モネ」の最終回受けをやっていたほどである。この「モネロス」という余韻、長く引きずりそうな気配を感じる。その理由は「おかえりモネ」が極めて“今”を切り取った作品になっていたからである。

「東日本大震災」と「コロナ」に向き合った作品

 東日本大震災の被害にあった気仙沼出身の主人公・モネこと永浦百音(清原果耶)が気象予報士になる物語としてはじまった「おかえりモネ」は、視聴者に想像を委ねる余白が多くとられ、明確な答えを出さない内容だった。そのため「モネ」がいつまでも心にぴたりと張り付いて離れない。つまりアニメや漫画によくある「俺たち人類の戦いはこれからも続く」みたいな、あるいは「あのゴジラが最後の一匹だとは思えない」みたいな印象を覚える終わり方だったのである。

 最終回、「おかえりモネ」と重要なセリフを言った人物が百音の幼馴染・亮(永瀬廉)であった理由にも妄想が膨らんで止まらない。最終週ではコロナ禍を思わせる描写もあった。2022年の夏になったら人類はコロナから解放されていたらいい、そんな願いも感じさせるラストシーン。東日本大震災の後をどう生きるかを描くはずのドラマにコロナ禍まで加わった。

 中3の時に経験した震災で何もできなかった後ろめたさを抱えながら百音は人の役に立ちたい、役に立ちたいと呪文を繰り返すように切実に探り続ける。その末、ようやく何かできそうな小さな光が見えてくる。それは2019年暮れ。だが現実では、年が明けたら「コロナ」というワードが世界を震わせることになる。

「モネ」の世界でコロナは描かれるのだろうか。だとしたらどんなふうに? 視聴者ははらはらしながら見た。まるで自分の体験と重ねるように。

現実がドラマを変えていった

 ドラマによっては実際の出来事を描いたり描かなかったりまちまちだ。同じ朝ドラでいえば「あまちゃん」(2013年度前期)、「半分、青い。」(2018年度前期)のように震災を描くこともあれば、「まれ」(2015年度前期)のように能登を舞台にしながらそこで起こった地震には触れないこともある。

 あくまでフィクションなのでそこは作り手の自由だ。百音のお父さん・耕治を演じた内野聖陽の出世作である「ふたりっ子」(1996年度後期)は、企画当初は阪神淡路大震災のことを盛り込むつもりだったが、一切触れない物語に変更されたという。

「おかえりモネ」は東日本大震災から10年後に放送されるドラマとして、宮城県を舞台に企画されたものだった。それを粛々と作って放送していたら、上質なドラマだったという評価で完結したであろう。

 だが制作時、「コロナ禍」が起こったことが「おかえりモネ」を忘れがたい特異なドラマに変えた。現実がドラマを変えていく。現実とドラマの切り離せない関係をまざまざと見せつけられるようだった。もちろんこんな災害はあってほしくないのだが。

2年半ぶりの再会で交わした“言葉”

「モネ」では震災当日のことを描きながらも、登場人物たちが会話するときはややぼかしている。また「コロナ」もその単語は出さず「感染症」とだけ言われる。

 最終週、2020年1月中旬、菅波がせっかく百音の実家に挨拶に来たにもかかわらず、すぐに東京に戻るように職場から言われた理由が「感染症」に関することだった。百音と別れ際、菅波の歩く姿が意味ありげなスローモーションになって視聴者をざわつかせた。

 時は過ぎ、2022年。2年半ぶりに菅波が百音の前に現れる。「太陽久しぶりだ」とこの2年半がとても大変だったことを感じさせるセリフもあって、百音が菅波の身体に触れていいか躊躇する描写もあれば、視聴者は自ずと「コロナ」を思い浮かべる。百音が菅波に語りかける「本当にご苦労さま」は医療従事者へのねぎらいの言葉にも聞こえた。

「私たちには距離も時間も関係ない」と菅波との堅固な関係性に対する自信を見せる百音。ふたりは手をつなぎ歩き出す。百音と菅波がまるで名作「君の名は」(「。」のつくアニメではなく、昭和のメロドラマのほう)のように、主人公と想い人がすれ違い続けてなかなか結ばれない恋物語のオマージュかのよう。登米と東京、東京と気仙沼と遠距離交際を続けてきたふたりの姿が、コロナ禍があったことで一層、リアリティをもって視聴者にも強烈に響いてしまうという偶然の妙。

 繰り返すが、災害なんてあってほしくない。けれど、コロナ以前は物語のある種のクリシェになりつつあった“手をつなぐラストシーン”が、ここで改めて普遍性を帯びたとも言えそうだ。いったいいつから作り手はこのラストを考えていたのだろうか。

クランクインは20年9月だった

「おかえりモネ」のクランクインは20年の9月。緊急事態宣言は解除されながらも国民は感染予防につとめていた時期である。朝ドラではたいてい、クランクインに合わせマスコミを撮影地に呼び込んで取材会を行うが、「モネ」では地元のメディアを優先して行っていた。

 この頃、台本は最終回までは完成していないはずだが、すでに構想はあったかもしれない。最終回放送直前に筆者が制作統括の吉永証チーフプロデューサーに書面による取材を行ったところ、「東日本大震災についてのドラマに取り組んでいたところにコロナ禍が起こったとき、吉永さんは何を感じましたか。そしてこんな時、どんなドラマを作るべきだと考えましたか」という質問にこのように回答してくれた。

「震災は人の力が及ばないものですし、コロナもまた震災と同じように、たやすく解決できるものではありません。モネが、どうなるかわからない明日を知りたいと懸命に考えていたように、私たちもコロナ禍でどう前に進めばよいかを、何かしらドラマの中に込めて描けないかと思いました」(ヤフーニュース個人より)。

 ラストシーンはまさにその思いが込められていたと感じる。あまりにも現在との地続き感がドラマにあるものだから、永浦百音や菅波光太朗がこの世にほんとうに生きているような気さえしてしまう。一木正恵チーフディレクターは番組の公式サイトのコラムでこのようなことを書いていた。

〈 もし朝ドラをやるならば、現代に横たわる大きな課題から目を背けたくないという思いは強くありました。 それは気象災害と、今の圧倒的な「生きづらさ」です。気象災害は温暖化という地球規模の問題とともに、放置された山や限界集落など、日本の社会問題もはらんでいます。 都市と地方の分断や富裕と貧困の分断から、人が人を監視し足を引っ張り合うかのような現代に、行き詰まりを感じます。

 

 朝ドラで描かれることの多い女性の社会進出や、さまざまな意味でのサクセスストーリーよりも、いま女性として社会人として行き詰まっていることを考えられる題材にしたい。今をとらえたい、という感覚がありました。〉

 東北の応援のみならず、今、日本に生きる人たちの問題に目を向けて登場人物たちに託す。だからこそ現在との地続き感があるドラマになったのだろう。

なぜ登場人物は“陰キャ化”していったのか?

 現実との近さとしてとりわけ印象的だったのは、登場人物たちの表情や口調であった。百音や妹の未知(蒔田彩珠)の表情はいつもどこか虚ろで、話す時はささやき声。朝ドラヒロインは“陽キャ”(明るい・元気・さわやか)というイメージを覆すようだった。

 過去回を振り返ると、それなりに百音も未知も明るい。それは10代の幼さの表現だったかもしれないし、百音たちなりの社会と折り合いをつける努力の表現だったのかもしれない。しかしある時、百音はふっと考え込む。その後、百音の過去に何があったか遡り、震災を経て無力感を抱くようになったことがわかる。

 物語が進むにつれてじょじょに陰キャ化していく百音。未知に至っては姉への嫉妬心ゆえの陰キャ的振る舞いかと思わせて、最終週で誰よりも重たい経験を誰にも言えず抱えていたことがわかる。ふだん楽しいことがあれば笑ったりすることもあるけれど、ある瞬間、フラッシュバックして身が竦む。どうしても拭い去れない、何かが身体にまとわりついて先に進めない感覚が、百音や未知の虚無のような瞳や、時々とても苦しそうに絞り出すような小さな声に表れているように感じた。

 最初のうちは論理的な言葉づかいで他者とある種の壁を作っていた菅波も、途中からどんどんささやき声になり、明るく爽やかな笑顔を振りまいていた亮もだんだんささやき声になっていく。みんな、公的な場では微笑みながら礼儀正しく振る舞うが、社交的にふるまう努力を懸命にしているだけであり、内心は不安やおそれを抱えているようだ。

「これで救われる?」という問いかけ

「おかえりモネ」が秀逸だったのは、極めて優秀に見える若い世代の人たちが社会的鎧を剥いだその内側に迫ろうとしていたことである。それも寓話「北風と太陽」の太陽のように、旅人に自然にコートを脱がせるような手つきで。無理に本音を聞き出すのではなくやわらかに触れ合うことで登場人物たちは互いによそゆきの顔を剥がし、ようやく前に進むことができるようになる。

 百音に本心を明かすことで少しだけ楽になった菅波、亮、未知。だからといって、それで完全に救われたわけではない。救われたと思うことも、救えたと思うことも、「おかえりモネ」は良しとしない。

「あなたのおかげで助かった」という言葉は「麻薬です」と感謝されていい気分になることを警戒する菅波。「これで救われる?」と刹那的な関わりを拒絶する百音、「俺が救わえれでしまうんじゃねがっで」と自戒する耕治。もっともらしい発言を「きれいごと」と指摘する亮や、震災当時幼かった高校生。

 BUMP OF CHICKENの主題歌「なないろ」で印象的な歌詞「ヤジロベエみたいな正しさ」にも似た、かすかにゆらぎバランスをとりながら相手や社会との間合いを慎重にはかることは極めて知性的な行為だと感じると同時に、これもまた生きづらい世の中を表しているのではないだろうかとも感じる。

 最終回もいい感じにまとめて視聴者が満たされるハッピーエンドではなかった。それこそが“今”だとしたらなかなかしんどい。でもこれ以上、笑顔できれいな話にくるんでいったらもっと苦しくなるだけだろう。だからゆっくりでいいから少しずつ感情を解き放とう。あなたの心で暴れだすケモノはひとりで抱え込まなくてもきっと誰かが一緒に抱きしめてくれる。「おかえり」という言葉は、何があっても立ち上がって歩き続ける人へのクスリのような言葉である。

 最後に。役を通して今の時代の少し途方に暮れた気持ちをその表情に映し出した若手俳優たち――清原果耶、坂口健太郎、蒔田彩珠、永瀬廉たちの才能には目を瞠るものがあった。

(木俣 冬)

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