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【追悼】92歳で胆のうがんを患った作家・瀬戸内寂聴さん「娘ではなく『血のつながらない家族』が身近にいてくれる」

文春オンライン / 2021年11月11日 18時30分

写真

 瀬戸内寂聴さん ©文藝春秋

作家・瀬戸内寂聴さんが死去 99歳 脊椎の圧迫骨折から胆のうがん発覚…「こんなに痛いなら死んだほうがマシ」 から続く

 11月9日、作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんが心不全のため亡くなりました。享年99。月刊「文藝春秋」には、瀬戸内さんによる数多くの寄稿や談話が掲載されています。その中から、92歳での圧迫骨折や胆のうがん闘病について明かした「92歳の大病で死生観が変わった」(「文藝春秋」2015年3月号)を再公開します。(全2回の2回目/ 前編 から続く)

(年齢、日付などは掲載当時のまま)

◆ ◆ ◆

胆のうがん手術で全身麻酔

 このときの手術は、開腹するのでなく、お腹に3カ所の穴を開けるだけの腹腔鏡下手術という方法です。お臍から腹腔鏡という小さなカメラを入れ、テレビモニターで内部を観ながら、細長い鉗子(かんし)で胆のうを引っ張り出します。

 手術そのものに不安はなかったものの、全身麻酔は初めてだったのでちょっと怖いと思いました。それに、全身麻酔から醒めるときにおかしな夢をみるとか、言っちゃいけないことを口走るとか聞いていたので、心配なこともありました。

 ところが、いざ手術を受けてみると、その全身麻酔が何とも言えず気持ちがよかったのです。麻酔が効きはじめると、だんだん全身が甘い感覚に包まれてきて、フーッと意識が薄れていく。本当に気持ちがいい。「死ぬ瞬間もこうなら、死とは素晴らしいことだ」と思えたほどの気持ちよさでした。

 意識が薄れるなかで、ふっと思い出したことがありました。里見弴先生の言葉です。

 里見先生は満94歳で亡くなりましたが、晩年にとても親しくしていただきました。亡くなる前年、私は先生と長い対談をして、そのとき「先生、死ぬってどういうことですか?」と尋ねました。すると里見先生は「死とは無だ。自分は死ぬことが怖くない」とおっしゃいました。無というのは、何もないということですから、「それじゃ、先生があんなに好きだったお良さんにあの世で会えると思わないんですか?」と重ねて尋ねました。お良さんは里見先生の愛人だった方で先に亡くなっています。すると先生は、「お良だってもう死んでいるから無だ。だから会えないよ」と言われました。

 里見先生が何度も言われた「無」という言葉がずっと頭に引っかかっていたので、全身麻酔で意識が遠のきながら「ああ、これが無か」と思ったのです。

「これが無なら、死とはなんて甘美なものだろう」

 このまま意識が戻らなくてもいいという気持ちのまま、スーッと意識がなくなりました。

 麻酔から醒めるときも、また何とも言えない甘い感じがして、カーテンが音もなく開かれるように意識が戻りました。小説になるような夢をみないかと期待していたのに、何もありません。そうやって意識を失って「無」になったのは一瞬のようでしたが、その間にお腹の穴から胆のうが摘出されていたわけです。

 あとで取り出した胆のうを見せてもらいましたが、「焼いて食べたら美味しそう」と思わず言ったぐらい、きれいな色をしていました。

8キロやせて全身の肉が落ちてしまい……

 今年1月、手術から4カ月後に癌の検査を受けました。胆のうの周辺に癌細胞が残っている恐れもありましたが、いまのところそれはないようです。もし他の臓器で癌細胞が見つかったら、こんどはあまり積極的には治療しないで、自然に任せて死んでいこうと思います。私も数えでいえば94歳ですから、もう十分に生きました。いま死んでも思い残すことは何もない。だから、癌の再発もちっとも怖くありません。あの甘美な無の世界に入るのだと思えば、なおさらです。

 手術から1週間後には退院して嵯峨野の寂庵に戻りました。自宅療養から数えて4カ月間ほど寝たきりでしたから、自分ひとりではまともに歩くこともできません。

 ショックだったのは、自宅のお風呂場で鏡の前に立ったときです。8キロやせていて全身の肉が落ちてしまって、本当におばあちゃんの身体になっているのが情けなくて情けなくて。圧迫骨折になる少し前、写真家の荒木経惟さんに会っていたので、「ああ、あのときアラーキーにヌードを撮ってもらえばよかった」と悔やみました。20代の秘書にそのことを話すと、彼女は「92歳のヌードなんて誰に見せるんですか?」と呆れているので、「誰にも見せない。92歳でも、こんなにふくよかで素敵な肉体だったと自分の慰めにするのよ」と言い返しました。あれは本当に残念なことをしたといまも悔やまれます。

 退院直後は、ベッドで1分間も座っていられないほど弱りきっていました。ご飯をいただくのも横になったまま。それが嫌でなんとか座ろうとしても無理なのです。

リハビリは裏切らない

 すぐにリハビリを開始し、初めは4人の療法士さんが交代で毎日1時間ずつ来てくれました。足の指を動かすなど簡単な訓練からはじめて、風船を脚に挟むなど少しずつ筋力をつけていきます。

 リハビリを嫌がる人もいますが、私は学生時代に陸上競技の選手でしたから、身体を動かすことが好きで楽しみながらできました。療法士さんの1人にとても熱心な方がいて、私の回復に合わせて難度をだんだん上げていくなど、いろいろ工夫してくれたのも助かりました。私は指導されたことはすべて実行したので、みるみる効果が表れました。

 退院して最初の検査はストレッチャーに寝たまま専用の車で病院へ運んでもらいましたが、4カ月後の検査はタクシーに乗って行けるほど回復していました。私が自分の足で立って歩くのを見て、先生や看護師さんもびっくりしていました。

「リハビリは決して裏切らない」

 これは今回の発見です。現在も週2回のペースでリハビリは続けています。それほどリハビリを頑張ったのは、「このまま寝たきりになるのか」という恐怖心があったせいかもしれません。

 退院後にみなさんから「今回はさすがの寂聴さんも危ないだろうと心配していました」と言われましたが、私自身は死ぬとは思っていませんし、死を恐れてもいませんでした。「出家とは生きながら死ぬこと」という思いが常にあったからです。むしろ、そのまま寝たきりになってしまうほうが、よほど恐ろしかったのです。

「もうこのまま生きていたってしょうがない」

 私は30代半ばで小説家になってから、1日として文章を書かない日はなかったと思えるほど仕事に励んできました。講演にしても法話にしても、世の中の役に立つことをずっと続けてきたつもりです。

 ところが、病気になってからは、ただベッドに寝ているだけで文字も書けない。いつ完治して社会復帰できるかもわからない不安な状況がつづきます。それが本当に嫌でした。

 何も生産しないでただ生きているという状態が自分に許せません。

「もうこのまま生きていたってしょうがない」

 1日中横になっていると、よくない考えが浮かんできました。自分が死ぬとは思わない一方で、生きつづけることが苦しく感じられてきました。ふと気づくと、私は鬱状態になりかけていたのです。

「いけない、鬱になってはダメ!」

 そう胸のうちで言って、どんどん落ち込んでいく気持ちを必死に奮い立たせてました。あの頃に私が本当に悪戦苦闘していた相手は、腰の痛みよりも、鬱になりかけている自分でした。世の中には寝たきりで鬱になる人が多くいますが、長く寝ていたら鬱になるのは当たり前なのです。

「神も仏もあるもんか」

 そう思ったこともありました。私は若い頃に相当悪いこともしたけれど、出家したあとは優等生のつもりでした。真面目に生きて、人様のためにできることは精一杯してきた。仏教の布教にも力及ばずながら努力してきたつもりである。それなのに、どうしていまさら、こんなひどい目に遭わされるのか。もしまた法話ができるようになったら、「みなさん、神も仏もありませんよ!」と言ってやろうと考えていたくらいです。

 私はそれまで、小説を書きながらぽっくり死ねたらどんなに幸せだろうと考えていました。ある朝、うちのスタッフが書斎の襖を開けたら、私がペンを握ったまま机の原稿用紙の上にうつぶせになっている。声をかけても返事はない。それが自分で思い描いていた憧れの死に方です。

 ところが、92歳になって激痛に苦しみ、癌の手術を受け、寝たきりになる。仏様がそんな目に遭わせるのか、と思ったのです。

 しかし冷静に考えれば、腰の痛みで長く入院したからこそ、癌は発見されました。自宅に戻っていたら手遅れになっていたかもしれません。そう考えると、腰の痛みが手術の2日前にピタッとやんだのも不思議で、やはり観音様はついてくれていたのかなと有難く思います。

 私が退院してから、自宅に3人のスタッフが交代で泊まりにきてくれるようになりました。『死に支度』に登場する20代の女性2人と、寂庵のお堂係の女性です。

 お給料を払って雇っているスタッフですが、私が「血のつながらない家族」と呼ぶようにとてもよくしてくれています。私がそう言うと、彼女たちは「何を言ってるんだか」という顔をしていますが。

25歳で4歳の娘を捨てて家を出た

 私は25歳のときに4歳の娘を捨てて家を出ました。その娘とは縁あっていまは普通に付き合っていますが、彼女には彼女の生活があって、私が病気になったからといってすぐ飛んでくるわけにはいきません。申し訳ないとは言ってくれますが、私だって育てていない立場ですから、娘の世話になろうとは夢にも思っていません。故郷の徳島には甥や姪もいますが、みんな高齢ですし、血のつながりだけで頼るのはおかしな話です。

 いまは介護つきの老人施設に入るなど、血がつながらない人たちのお世話になるのが当たり前の時代です。むしろ血がつながっているために、面倒が多い場合もたくさんあります。人間と人間のつながりは不思議なもので、たとえ他人であってもご縁があれば、本当に気の合う人に巡りあうことができます。血のつながりはあまり考えなくていいのではないでしょうか。

 3年前に寂庵に若いスタッフが来てから、私は笑うことが増えました。65以上も年の離れた彼女たちの発想は、思いもかけないことばかり。ボーイフレンドとの付き合い方を聞いても、あまりにあっけらかんとして、恋愛の自由もここまできたかと私が驚くほどです。彼女たちのフェロモンのおかげか、自分がどんどん若返っている気さえするのです。病気で弱った肉体がこれだけ早く回復してきたのも孫より若い彼女たちが身近にいてくれるからでしょう。

もっと小説を書きたい

 昨年の夏にあれだけ痛かった神経痛も、いまはお薬などでずいぶん収まってきました。ただ雨の日や疲れが出た日には痛みますが、それも我慢できる範囲です。

 足腰のほうは自分で立って歩けるほど回復したので、今年の6月頃にはまた法話や講演が再開できればいいなと考えています。

 いま一番困っているのは手のほうで、長く寝ていたせいで手に力が入らなくてペンがまともに握れないのです。60年も小説を書きつづけてきたのに、いまはまったく書くことができない。短いエッセイなどは口述筆記もできますが、小説になるとそうはいきません。

『死に支度』のあと、私にはもう何も書くものはないと思っていましたが、いまはやっぱり書きたいと思っています。今回の病気を経験して、病気や死、苦しみなどに対する考え方が私のなかで大きく変化しました。それに、全身麻酔で味わった「無」の感覚があんまりいい気持ちだったので、もう少し確かめたい気持ちがあります。

 どう書けばいいかはまだ頭のなかでまとまっていませんが、『死に支度』を瀬戸内寂聴最後の小説にはしたくないという強い思いがあります。何かそういう湧き出てくるものがある。これが小説家としての才能だとすれば、まだまだ自分の才能は枯れてないと思うのです。

(「文藝春秋」2015年3月号より)

(「文藝春秋」編集部/文藝春秋 2015年3月号)

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