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「僕の詞じゃないと生かせない」“声と勘が良くて気が強いだけ”だった松田聖子が80年代を代表するアイドルになれたワケ

文春オンライン / 2021年11月28日 17時0分

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松田聖子氏 ©文藝春秋

「風をあつめて」「木綿のハンカチーフ」「君は天然色」「赤いスイートピー」「ルビーの指環」「硝子の少年」などポップス史に残る名曲を生んだ松本隆氏。時代を代表するアーティストたちと仕事を共にするうえで、彼はどのような考えを持って作詞に臨んでいたのだろうか。

 ここでは、音楽評論家の田家秀樹氏の著書『 風街とデラシネ 作詞家・松本隆の50年 』(KADOKAWA)の一部を抜粋。松田聖子との知られざるエピソードを紹介する。(全2回の1回目/ 後編 を読む)

◆◆◆

松田聖子オリジナルアルバム12枚中、全作詞松本隆が8枚。全作チャート1位

 ようやく、と思われた方も多いのではないだろうか。

 松田聖子である。

 歌謡曲にせよポップスにせよ“歌モノ”と呼ばれる音楽には、名コンビとして知られている作詞家と歌い手の関係がある。

 たとえば60年代の永六輔と坂本九、岩谷時子と加山雄三、70年代の阿木燿子と山口百恵、阿久悠とピンク・レディー。歌い手の異質さに目をつぶれば、21世紀に入ってからの秋元康とAKB48もそうした流れに入るのかもしれない。

 でも、作られた曲数の多さや実績、そしてその歌い手のキャリアの中での印象の強さ、何よりもアルバムという分野では、松本隆と松田聖子を凌ぐ関係は存在しない。

 シングルヒットが全てだった60年代や70年代には“アルバム”という概念自体が一般的ではなかった。阿木燿子が全曲を書いた山口百恵のアルバムは2枚しかない。

 松本隆と松田聖子はどうか。81年「風立ちぬ」から88年までに発売されたオリジナルアルバム12枚のうち、松本隆が全曲の詞を書いたのは8枚。1曲だけ聖子自身が書いている83年の「ユートピア」を加えれば9枚。全作がチャートの1位を記録している。

 さらにシングルにしても、最初に書いた81年7月発売の6枚目「白いパラソル」以降、88年の25枚目「Marrakech~マラケッシュ~」まで20枚のシングルのうち17枚を担当、やはり全てが1位を記録している。

 80年代の松田聖子のほぼ全てを作り上げたと言っても過言ではない。

 加えて、松本隆が松田聖子との関係の中で語られなければいけないのは、彼が作曲家の人選も含めた影響力を持っていたことがある。職業作家と歌い手という一般的な次元に留まっていない。

 松田聖子と松本隆のかかわり方はどういうものだったのか。彼女を発掘したCBS・ソニーのディレクター、若松宗雄はこう言った。

「シングルには私のイメージがあったりしましたけど、後はほとんど松本さんに勝手に書いていただいたと言っていいでしょうね。私からこういう内容でとか詞のストーリーをこうしてくださいとかは一言も言ったことがないです。彼が素晴らしい詞を書いてきて、彼女が歌うとこうなるんだと毎回思ってました」

ディレクターのねらいは、「アイドルだけど音楽性も文学性も」

 松田聖子がデビューするきっかけになったのは78年、CBS・ソニーと集英社の雑誌『セブンティーン』が主催した「ミスセブンティーン」のオーディションだった。

 ただ、彼女は九州地区大会で優勝したものの、親の承諾を得ることができずに全国大会への出場を辞退している。その応募テープを聴いた若松宗雄の強い勧めと親への説得によって79年に上京、歌手への道を歩き始めた。

「決戦大会の前に全部のテープを聴いてみたんです。写真も履歴書もないままにずっと聴いていった中ですごいなと思ったのが彼女だった。声の強さとテイスト。抜けの良さですね。でも、 会社の人にも聴いてもらったけど、誰もいいとは言わなかった。だから好きなようにできたと言っていいかもしれません」

 彼女のデビュー曲は80年4月発売のシングル「裸足の季節」。アルバムは8月に出た「SQUALL」。作詞はともに三浦徳子。松本隆が書くようになるのは81年5月発売の3枚目のアルバム「Silhouette~シルエット~」収録の「白い貝のブローチ」からだ。作曲は財津和夫。彼は81年1月発売の4枚目のシングル「チェリーブラッサム」から起用されていた。

「聖子自身は、音楽的に突出していたわけでも文学的な何かがあったわけでも、本をたくさん読んでいたとか、文章を書くというタイプでもなかったですからね。ただ歌が好きで声と勘がよくて、気が強かっただけなんです。だから、音楽的な曲とか文学的な詞がないともたないな、というのが入り口。財津さんは私が好きだった人で、品があるし娯楽性もある。松本さんがすごい作詞家というのは太田裕美で分かってましたからね。そういう人に書いてもらえば歌の価値があがる。彼女の表現力は優れてるから土台がしっかりしたものさえあればと。アイドルだけど音楽性もあるし文学性も出したい、これだけですよ」

「僕が書くべきだ、僕の詞じゃないと生かせない」

 松田聖子に対しては、松本隆もそれまでの歌謡曲の歌い手にはない要素を感じ取っていた。彼はデビュー曲「裸足の季節」を聴いた時のことを、僕が担当しているラジオ番組でこう言った。

「何か、コニー・フランシスみたいな感じがしたの。ポップで声がベタッとしてない。すごく立体的に聞こえたのね。しかもグルーヴがちょっと跳ねる。それはアイドルにしてはちょっと珍しかった。アイドルってもっとベタッと歌うんですよ。裸足で全部踏んでしまう、みたいな歌い方ですね。彼女が歌うと音符がつま先でぴょんぴょん跳ねているような感じだった。僕が書くべきだ、僕の詞じゃないと生かせないと思った。でも他の人が書いてるからと諦めてたら、ふっと何かの拍子でディレクターが頼んできて。それ以降は何かピタッとはまっちゃったんで、快進撃が始まるのね(笑)」

 コニー・フランシスは60年代のアメリカン・ポップスを象徴する歌い手である。「カラーに口紅」「大人になりたい」「ボーイ・ハント」「ヴァケイション」など日本語で歌われたヒット曲も多い。鼻にかかったような甘くのびやかな声の魅力は、竹内まりやなどにも共通している。

「白いパラソル」に始まる松本隆の色彩感と情景感

 松本隆が書いた最初のシングル「白いパラソル」はこういう詞だ。

〈お願いよ 正直な 気持ちだけきかせて

髪にジャスミンの花 夏のシャワー浴びて

青空はエメラルド あなたから誘って

素知らぬ顔はないわ あやふやな人ね

渚に白いパラソル 心は砂時計よ

あなたを知りたい 愛の予感

 

風を切るディンギーで    さらってもいいのよ
少し影ある瞳 とても素敵だわ
涙を糸でつなげば真珠の首飾り
つめたいあなたに 贈りたいの
渚に白いパラソル 答えは風の中ね

あなたを知りたい 愛の予感〉

 仮に「白い貝のブローチ」が前書きだとすると、第1章が「白いパラソル」ということになるだろう。“白”と“海”という連続性、前作では“ハイビスカス”だった花が“ジャスミン”になった。空や花、そして海。それぞれの色彩感と情景感は、その後に彼の書く世界の特徴にもなってゆく。

その後の聖子ソングを予兆した、女の子の気持ちの二面性

 それだけではない。この曲で松本隆に出会った人の多くが「何だろうと思った」と口にする小型ヨット“ディンギー”は、3月に出た大瀧詠一の「A LONG VACATION」の「君は天然色」にも登場している。「真珠の首飾り」は、第二次世界大戦で亡くなったスイング・ジャズのスター、グレン・ミラーが率いる楽団の代表曲だ。“答えは風の中”という一節はボブ・ディランの「風に吹かれて」と重なりあう。グレン・ミラーとボブ・ディランと大瀧詠一。さりげなく挿入されているかに見える彼の思い入れ。でも、この後どうなっていくかの答えはまだ見えない。“あなたを知りたい”は、彼自身の松田聖子に対しての気持ちだったのかもしれない。

 何よりもこの後の松田聖子の歌の予兆といえるのが、“あやふやな人ね”と“さらってもいいのよ”ではないだろうか。アイドルの歌の中で、恋の相手の男性を“あやふやな人ね”と距離感を持ちつつ冷静に見ている例は多くない。それでいて“さらってもいいのよ”と挑発的な面も見せる。“あなたが好き”という純情一辺倒ではない“女の子の気持ち”の二面性。それは曲を重ね、アルバムの数が増すごとに色合いを強めてゆくことになる。

 ディレクターの若松宗雄が意図した“音楽性と文学性”。それは「白いパラソル」の曲調にも見て取れる。

喉に負担がかからぬように、ミディアム・アップなバラードへ

 財津和夫が初めて曲を書いた4枚目のシングル「チェリーブラッサム」からは、「青い珊瑚礁」のような、どこまでも突き抜けていきそうな伸びやかな明るさとは違う曲調になっている。「白いパラソル」もそうだ。タン・タ・タンと軽く跳ねたリズムと言葉。派手な盛り上がりを抑えたようなメロディー。はち切れそうに躍動的で若々しい明るさ、というアイドル的な曲とは違う艶っぽい憂いもある。

 若松宗雄は「事務所の人が、こんな地味な曲は売れないって本人に言ったんです。地味かもしれないけど素敵な歌じゃないかって彼女には言いましたけど。あれ、大ヒットですからね」と言った。

 そうした曲調の変化について松本隆は、前述の番組でこんな話をした。

「一番大きかったのは、僕が担当した時、喉の調子が悪かったの。『青い珊瑚礁』のような高音が辛くなってた。喉に負担がかかりすぎるんですね。どうしても中音で勝負するしかなくなっていた。だったら少しテンポを緩くしてミディアム・アップみたいなバラードが歌えたらいいな、と思ってその後の曲を作っていくんです。『白いパラソル』『風立ちぬ』『赤いスイートピー』。これもホップ・ステップ・ジャンプだった。ジャンプでユーミンだったということですね」

【続きを読む】 《『硝子の少年』誕生秘話》事務所からは「ミリオンヒット」という要望が…苦心する作詞家・松本隆を救ったKinKi Kidsの“姿”

ジャニーズ事務所からの「ミリオンヒットを」という要望…苦心する作詞家・松本隆を救ったKinKi Kidsの“姿”とは へ続く

(田家 秀樹)

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