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ジャニーズ事務所からの「ミリオンヒットを」という要望…苦心する作詞家・松本隆を救ったKinKi Kidsの“姿”とは

文春オンライン / 2021年11月28日 17時0分

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松本隆氏 ©文藝春秋

「僕の詞じゃないと生かせない」“声と勘が良くて気が強いだけ”だった松田聖子が80年代を代表するアイドルになれたワケ から続く

 はっぴぃえんどでの活動を終え、1973年に職業作詞家としての活動を始めて以来、数々の名曲を世に送り込んできた松本隆氏。作詞家として、常に時代の最先端を走り続けてきた同氏だが、「89年のWinkから94年の明菜までが僕の休憩期間だった」と語るように、意外にも作詞から離れていた時期がある。そんな松本氏が、実質的な活動休止状態から再びシーンの中心に舞い戻るきっかけとなった一作が、KinKi Kidsのデビューシングル『硝子の少年』だった。

 松本氏が作詞活動を再開した経緯、そして、久々の作詞に込めた思いとは。音楽評論家の田家秀樹氏が、日本を代表する作詞家の軌跡を追った評伝『 風街とデラシネ 作詞家・松本隆の50年 』(KADOKAWA)の一部を抜粋し、紹介する。(全2回の2回目/ 前編 を読む)

◆◆◆

KinKi Kidsのデビュー曲「硝子の少年」で復活!

 97年、シーンに復帰した松本隆が再びヒットチャートを席捲したのは、80年に筒美京平とのコンビで近藤真彦をデビューさせたジャニーズ事務所の新人、KinKi Kidsだった。

「麻布十番に“平田”っていう常連になっていたイタ飯屋があって、ジャニーズ事務所のメリー喜多川さんもよく来てたの。そこで会った時に、松本君、今度新人やるからお願いねって言われて始まった」

 作曲家として起用されたのが山下達郎である。1953年生まれ。いうまでもなく元シュガー・ベイブのリーダーという“バンド出身者”。筒美京平で始まった近藤真彦の82年発売の7枚目のシングル「ハイティーン☆ブギ」は山下達郎が手掛けていた。

 近藤真彦のディレクターは山下達郎がソロになってからの制作面でのパートナーだった小杉理宇造だった。79年に松本隆が初めてシングルチャート1位を手にした、筒美京平作曲の桑名正博「セクシャルバイオレットNo.1」も彼だ。

 山下達郎がシュガー・ベイブを結成したのは72年。ステージでのお披露目となったのが73年9月21日の文京公会堂、はっぴいえんどの解散コンサートである。

 バンド解散後にメンバーそれぞれがプロデュースする新しいバンドやアーティストのお披露目の中で大瀧詠一が次に手掛けるバンドとして紹介された。75年4月に出たシュガー・ベイブのデビューアルバム「SONGS」は大瀧詠一が発足させたナイアガラ・レーベルの第1号だ。つまり、大瀧詠一直系ともいうべきバンドだった。

 松本隆はシュガー・ベイブについてはどう見ていたのだろうか。

「はっぴいえんどの功績のひとつが、解散の時に各自バンドをプロデュースするというノルマがあったことだよね。大瀧さんは伊藤銀次のごまのはえと達郎のシュガー・

ベイブ。細野さんはのちにティン・パン・アレーになるキャラメル・ママや吉田美奈子、僕は南佳孝とオリジナル・ムーンライダーズ。どれもいま流行りのシティポップスの源流ですよ。YMOの解散とかは、“木”にはなってない。はっぴいえんどの解散はそこからジャンルが始まった。種を蒔いたよね。でも、大瀧さんは自分のことに関しては秘密主義だったんで手の内をさらさないわけ。スタジオのチャンネルの操作なんかでも子供がお弁当を食べる時のように隠しながらやるみたいな子供っぽいところがあったんで、シュガー・ベイブももちろん知ってはいたけど、ごまのはえとの関係とか、いまいちわかってないよ。『ハイティーン☆ブギ』は『RIDE ON TIME』の後で、もう達郎は売れてたから、シュガー・ベイブという意識では見てなかったと思う」

「硝子の少年」は山下達郎が考えるジャニーズ原風景

 山下達郎は、もともとは97年に出た「筒美京平 Hitstory Ultimate Collection 1967~1997 2013 Edition」の解説書の10頁に及ぶロングインタビューの中で、「中学に入る頃ジャニーズのファンでね」、「ジャニーズはすばらしく好きだったの。あの妙にバタ臭い感覚」と言いつつ、「硝子の少年」についてこう話している。

〈 今回、十何年ぶりにジャニーズで KinKi Kidsやって、あれもすごい悩んだわけ。でもジャニーズってもう35年ぐらい経ってるから、もう伝統芸能だと思ったわけ。伝統芸能としてのジャニーズメロって絶対あるんですよ。それでここでまた考えたの。今、筒美さんだったらどういう曲書くのかって。これが「硝子の少年」という曲のコンセプトのすべてで、その意味では確信犯的にジャニーズはこれなんだって。

 あれは僕の考えるジャニーズ原風景で、あの色っていうかさ、あれを出そうって、これはデビュー曲だから、これだったら10年たっても、KinKi Kidsが30になったってうたえるって。〉

都会的ポップスは「ロックじゃない」と批判された時代

 山下達郎はそのインタビューの中で、「筒美京平さんというのは日本の歌謡曲というもののトップだったから、我々日本のフォーク/ロックと言われる人間にとっては、ずいぶん長いこと一種の仮想敵という存在としてあったと思うんです」と、70年代当時の状況について語っている。彼が初めて筒美京平に会ったのは、75年に太田裕美のレコーディングでコーラスに呼ばれた時で「なんか敵陣に乗り込むっていう感じで(笑)」とも明かしている。

〈 1970年代のはじめっていうのは、日本のフォークやロックは、さっきも言ったように政治性とかなり密着してるから、かなりのエクスキューズを伴いながら音楽をやらなきゃならない時代だったわけですよ。そうすると「これはロックだ」とか「これはロックじゃない」とか、たとえば桑名くんが筒美さんの曲を歌ったら「裏切った」だとか、そういうことを毎日のように言われて言い合ってね。

 まあ今でもありますけど、それがすごくイヤだったんですよ。だけど音楽をやる行為そのものはクラシックからアイドル歌謡までなにも変わらないんじゃないかっていうのは、それは大瀧さんに教えてもらった部分もあるんだけど、でも、そういうところは昔からあるんですよね。音楽に罪はないって。〉

 シュガー・ベイブが当時のロックコンサートで「軟弱」と攻撃されていたことを知る人たちはもう多くないだろう。彼らがやろうとしていた都会的なポップスは「ロックじゃない」という教条的なロックファンの批判にさらされていた。筒美京平への彼の意識は、シュガー・ベイブを批判する“こっち側”の人たちに対してより近しいものがあったのではないだろうか。元来は同じような音楽に影響され、同じような音楽を志しているにもかかわらず相いれなかった不幸な時代の二つの岸辺に「言葉」の橋を架けていったのが松本隆だった。

「あ、硝子だと思った。壊れそうで美しくて無垢なもの」

 KinKi Kidsの「硝子の少年」の発売当時のさまざまな記事には、当初からの「ミリオンヒット」という要望や事務所からのOKがなかなか出なかったことなどが書かれている。

 松本は当時のことをこう語ってくれた。

「でも、『硝子の少年』ができてからはどこもいじってないと思うよ。それまでに書いた『Kissからはじまるミステリー』と『ジェットコースター・ロマンス』が何度もバツを食らっていたから間口が狭くなって、どういう詞ならOKか分からなくなってたのね。2、3時間書けなくて煮詰まって居間に降りて行ったらたまたま二人が歌ってて、それを見た時に、あ、硝子だと思った。壊れそうで美しくて無垢なもの。ただ、ジャニーズには『ガラスの十代』とか『ガラス』という曲があることはあるんで、どうなんだろうとは思ったけどピンときたものはきたものなんでとりあえず提出してみたら、すんなりとOKになった」

お洒落な最先端に向かう時代に、思いきり古臭い方に行こうと思った

「硝子の少年」は、こういう詞だ。  

〈雨が躍るバス・ストップ 君は誰かに抱かれ

立ちすくむぼくのこと見ない振りした

 

指に光る指環 そんな小さな宝石で

未来ごと売り渡す君が哀しい

 

ぼくの心はひび割れたビー玉さ

のぞき込めば君が 逆さまに映る

 

Stay with me 硝子の少年時代の 破片が胸へと突き刺さる 舗道の空き缶蹴とばし バスの窓の君に 背を向ける〉

  透明で壊れそうな少年性。小さな指環の宝石とひび割れたビー玉の対比が象徴するもの。ポケットに手を突っ込んで舗道の空き缶を蹴るという青春映画の古典的な仕草。唇がはれるほどにささやきあった、キスだけに終わらない一途な映画館のラブシーン。絹のような髪とコロンが想起させる女性の変化。痛みが輝く蒼い日々。少年時代という硝子が割れて突き刺さる。割れることから新しい日々が始まってゆく。

 バス停のワンシーンを入り口にそれだけの情景とストーリーが綴られている。

「新宿の西口が気になってて。あそこに深夜バスが着くよね。スキーバスが多いんだけど、長距離バスが着く。こういう場所って別れはあるよなと。そういう歌を書きたいと思ったことが大きいよね。もう一つは、みんなかっこよくお洒落な最先端に向かっているから、思いきり古臭い方に行こうと思った。僕には今の世の中にこんなもの残ってないよという死語みたいなものの趣味があるんだよね。金色夜叉みたいな恋愛。別れる時に女の子を蹴っとばすくらいの恋愛。僕はそこまでオマージュしてるのね。女の子の代わりに空き缶蹴とばしてるけど(笑)。近田春夫が週刊誌のコラムで『今時、金色夜叉じゃあるまいし』ってケチつけてたけど、『やった』と思った(笑)。『勝った』と思ったよね」

「3秒くらいよそ見していたら足を引っ掛けられる世界」へ、奇跡の復活劇

 97年7月に発売されたKinKi Kidsの「硝子の少年」は初登場1位、その年の年間チャート2位の大ヒット。彼らにとって最大のヒットとなった。

 松本隆と山下達郎のコンビでは、さらに98年4月発売の3枚目「ジェットコースター・ロマンス」、98年12月の「Happy Happy Greeting」と発売、いずれも1位を記録、“松本隆復活”を印象づけた。

 その時のことを彼はこう言う。

「だって、毎週通信簿をもらってるような状態だったのにいきなり辞めてどっかにフケちゃったわけじゃない。出演拒否してね。5、6年経って戻ってきて席があるかと言ったら普通の社会でももうないよ。99.9%何しにきたの、になる。京平さんと僕がいたのは3秒くらいよそ見していたら足を引っ掛けられる世界ですよ。そういうところに生きてたわけだから、奇跡が起きたと思った。それは嬉しかったですよ」 

【前編を読む】 「僕の詞じゃないと生かせない」“声と勘が良くて気が強いだけ”だった松田聖子が80年代を代表するアイドルになれたワケ

(田家 秀樹)

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