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「ギターといちばん距離をおいたあのころ」Charが初めて語ったPink Cloud”命名の真実”

文春オンライン / 2021年12月4日 18時0分

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Johnny, Louis & Charは、1978年にジョニー吉長(ds)、ルイズルイス加部(b)、Char(g)が結成したトリオ。翌年日比谷野外音楽堂に1万4000人を集めたフリーコンサートでベールを脱ぎ、その音源が「Free Spirit」としてデビューアルバムになる。1982年にバンド名がPink Cloud へと改称、1994年頃自然消滅 Photo : Tadayuki Naito

Char 2時間独白「『Thrill』の頃、自分のキャリアに不安を感じていた」Johnny, Louis & Char誕生秘話 から続く

 日本のロック史上に燦然と輝く3ピースが生まれて消えるまでの17年間に何が起きていたのか? ジョニー吉長、ルイズルイス加部が天に召されたいま、残されたひとりが語る黄金の日々。これが最初で最後! 2時間にわたる独白をノーカットでお届けする。(文春ムック「 竹中尚人責任編集 ロックとギターをめぐる冒険 」より。前編は こちら )

割り切れない変拍子をどうナチュラルに聴かせるか?

 JL&C(Johnny, Louis & Char)は特殊なバンドだったと思う。ボーカルをジョニーに任せて俺はギターに専念することもできたし、マーちゃんがベースではなくエレキ・ギターを弾く曲を作ってみたり、ベースとギターのダブルネック・モデルを使ってライブ中にマーちゃんと役割をスイッチしたり……自由な発想から表情豊かな音楽がたくさん生まれたんだ。ステージには3人しかいないのに、それ以上の音が聴こえてくるアンサンブルを目指したこともあって、演奏する時には音楽的な運動神経が大いに求められたりしたけど、ものすごくスリリングで楽しかった。

 楽曲のアレンジは俺が担当していたんだけど、マーちゃんやジョニーは俺から出てくるアイディアを新鮮に感じてくれていたのかもしれない。素直にやりたいと感じる音楽表現に向かっていくから、厄介な変拍子なんかも生まれてきたりもするんだよ。例えば「宇治茶屋序幕」は、日本的な音階を取り入れた変拍子なんだけど、ものすごく細かい部分まで計算して作り込んでいて……「4とか8で割り切れない変拍子をどうナチュラルに聴かせるか?」ってことはガキの頃からずっと考えていたことなんだ。それをトリオという最小のバンド編成で表現してしまうところが、JL&Cならではの強みだよね。

 ハードなロック・ナンバーからボサノバ的なアプローチの爽やかなポップス、プログレッシブ・ロックまで、すごく幅広い音楽性の曲を作って、それをどんどんふたりにぶつけていった。ジョニーとマーちゃんが演奏することを頭の中でイメージすると、いろんなアイディアがどんどん湧いてくるんだよ。思い返してみると「そんなことできるかよ」って反対されたことは一度もなかった。ふたりとも「音楽的な挑戦」という部分をおもしろがってくれていたように思う。特に最初の数年間は、3人の画家がでかいキャンパスに向かってひたすらいろんなモチーフを描きまくり、そこにみんなでいろんな色や描線を足していくというアトリエ的な表現だった気がするね。メンバーで喧嘩をしたこと? そんなことは一度もないね。バンドが新しい音楽を作っていこうとする限り、喧嘩をしたり辞めたりする理由なんてどこにもないんだよ。

「ピンクって名前がつくバンド名なんてありえない」

 この時期の俺の大きな転機としては、子供が産まれたこと。当時は音楽活動よりも子供と一緒にいる時間を優先させてもらったんだ。早く家に帰って子供をお風呂に入れたかったから、JL&Cのリハーサルも14~18時でやっていたんだよ。あとJL&Cは、練習をやりすぎないバンドだった。ジョニーは「やろうよ」ってタイプだったけど、マーちゃんは「練習するとうまくなってしまって、おもしろくない」なんてことをよく言っていたね。

 しばらく経つと、ジョニーにもマーちゃんにも子供が産まれて、ひとつの大きなファミリーのような付き合いになっていった。ラブ&ピースなヒッピーのコミューンみたいだったね。例えば、俺が仕事に集中している時はジョニーがジェシーの面倒を見てくれたり、俺があっくん(金子ノブアキ)に算数の宿題を教えたこともあった。そういうところまでは……良かったのかな。その後、レコード会社を移籍することになり、メンバー以外の関係者もコミュニティに入ってくるようになった。バンドの名前もJL&Cからピンククラウドへと変わることになり、活動は次のタームへと移行していった。

 実は、ピンククラウドという名前はマーちゃんが名付け親なんだ。たしか東北へ向かう特急列車の中で「レコード会社を移るにあたり、新たにバンドの名前を決めなきゃいけないんだけど、どうする?」って3人で膝を突き合わせて話した時に、マーちゃんが突然「ピンククラウドかシルバースターにしよう」と言い出したんだよね。一番何も考えてなさそうな人がいきなりそんなことを言うもんだから、俺とジョニーは「え?」って顔を見合わせて驚いたよ。その理由を聞いたら、サンフランシスコにいる知り合いの名前で、本名は知らないんだけど男性がピンククラウド、女性がシルバースターと呼ばれていて、そのふたりは夫婦らしいんだ。俺はそのストーリーを聞いて「実在する人の名前をつけるのはおもしろいかも」なんて思ったんだけど、ジョニーは男気のある人だから「ピンクって名前がつくバンド名なんてありえない」って考えていたかもしれないね。マーちゃんの「どちらかと言えばピンククラウドのほうがぶっ飛んでておもしろくない?」ってひと言で、新たなバンド名が決まったんだ。

延々とソロを弾く気にならなかった

 JL&Cで初めて作ったスタジオ・アルバムが『Tricycle』。三輪車って名前が示すように、いろんなことに興味がある三歳児みたいな感じで、バンドとしていろんな実験に挑戦することができた作品だね。ジミヘンばりのハード・ブルース「Finger」から、爽やかな「Scooter」や「Balcony」、バンド結成の経緯を歌詞にした「Stories」までいろんな楽曲が入っていて……今思えば、子供がその辺にあるオモチャで手当たりしだい遊び散らかした感じだよね。

 思い返してみると……JL&Cは俺のキャリアの中でも一番「ギターとの距離が遠かった」時期かもしれない。ギター・ソロを弾くことに命をかけるというより、どうやって新しいアンサンブルを作り上げていくかってことに心血を注いでいた。ジョニーとマーちゃんと一緒に演奏していると、延々とソロを弾く気にならなかったのも大きな理由だね。そんなことよりも3人が生み出すとんでもないグルーヴを聴かせたかった。

とんでもないトランス・ゾーンの演奏「MY DELICATE ONE」

 バンドを長くやっていると……4~5年に一度、とんでもないトランス・ゾーンに入ることがある。そういう時は、3人ともお互いの目を見つめあって「俺たちすごいところまで行ったな」って感覚を全員で共有できるんだよ。プログレッシブに展開していく「MY DELICATE ONE」は、そんな俺たちの演奏がパッケージされた貴重な曲のひとつだよ。そうやって、ひとりでは到達できないような表現を体験してしまうと、本当に音楽がやめられなくなる。数年に一度しか体感できないってところが、また歯痒くもあるんだけどさ。

 ある時から俺たちはスタジオやステージ以外では会わなくなっていった。子供が産まれたばかりの頃はお互いに交流もあったけど、学校に通い始めたりして生活スタイルが変化していくと、家族ぐるみで一緒に行動することにも限界が出てきて……ふたりで会うことはあったけど3人で何か一緒のことやるのは楽器を持った時だけになっていったんだ。

 JL&Cからピンククラウドになると、オリジナル・アルバムだけでなくソロ作品のリリースも契約の中に含まれていたこともあり、制作のスケジュールに追われるようになっていった。本来なら最低でも10曲ほどデモを作ってアルバム制作に臨まないといけないのに、2~3曲しかない状態でスタジオ・ワークに突入することも多くなった。タイトな発売スケジュールという時間的な制限も重なって、音楽的な表現をしっかりと突き詰められない場面も増えていったんだ。結局、バンドだけでなく各メンバーのソロ作品も俺がプロデュースすることになり、すべてに対して本気で取り組んでいった結果、ものすごく俺自身が消耗してしまった。

 すべてのアイディアを出し切ってしまい、音楽的な引き出しも空になった。それまで楽しいと思ってやっていた音楽を作ることが、だんだんと「作業」に変わってしまったんだよ。ちょうどその頃、銀座にSmoky Studioという制作拠点を作り、毎日、地下鉄に乗ってスタジオに通った。こんなにも残業の多いサラリーマンいないでしょってくらい、余裕のない日々だった。そして世の中はギターではなくシンセサイザーの時代に移り変わり、心身ともに疲弊した俺は、85年に日本を離れてロンドンに渡り、新たな生活をスタートさせることになる。

久しぶりに「Char」から「竹中尚人」に戻った

 今思い返してみると、イギリスに行った時の自分は、精神的にも肉体的にも、もしくは能力的にも……窮地に立たされていたんだと思う。渡英してからの1~2カ月は、毎日のように酒を飲んだくれて街をブラブラしていた。コヴェント・ガーデンでストリート・ミュージシャンの演奏を見たり、ライブハウスに行ったり、サッカーを観戦したり、ノッティングヒルのレゲエ・フェスティバルに足を運んだりしながら日々を過ごすうちに、ある日突然「作曲しよう」という気持ちが芽生えたんだ。

 イギリスにはギターも持たずに行っていたから、急遽日本からアコースティック・ギターを送ってもらい、オモチャみたいなカシオのシンセサイザーなんかを使ってデモを作り始めた。今思えばアイディアが枯渇したのではなく、全部出し切ったことで必然的に何かを蓄積しなきゃいけないと、無意識のうちに音楽的な刺激を求めていたんだと思う。イギリスで過ごした3~4カ月は、当時の俺にとっては何年にも感じるくらい濃密な時間だった。デビュー以来、久しぶりにCharから竹中尚人に戻った瞬間だったかもしれない。

 その後日本に戻ってからも、忙しい日々の隙間を縫って新曲を作り始めた。あれほど遠ざけていた最新のシンセサイザーを導入し、「Charならどう使いこなすか?」って考え方で積極的に取り入れるようになった。それまではメンバーのことを想像しながら作曲していたところもあったけど、それが一切なくなったんだ。頭の中で鳴っているストリングスやホーン・セクションなんかを、シンセを使ってアレンジできるようになり、そういうアプローチをおもしろがれる若いエンジニアと一緒になって、イメージを具現化していくのはめちゃくちゃ楽しかった。新たに生まれた機材にしても自分の置かれている環境にしても、いろんな変化を楽しんでいかないといけないということを確信した時だったね。その方向性は、やがてPSYCHEDELIXという表現スタイルへとつながっていくことになる。

長い音楽人生で唯一「純粋な自分」になれる場所

 JL&C、ピンククラウドでの経験は、今の自分の考え方にも大きな影響を与えている。テンポにしてもビートにしてもコード進行にしても、平気で一般的なセオリーを無視した手法で音楽と向き合えるのは、JL&Cで追求してきた手法や考え方なんかが、今の自分の血肉になっているからなんだ。その一例が、ロックやポピュラー・ミュージックの大きな要素である2拍4拍のバックビートで踊らせるところを、JL&Cでぶっ壊しまくったところなんじゃないかな。普通だったらやらないような無茶なアイディアでも「ピンククラウドだったらどうやるんだろう?」というひとつの物差しが今も自分の中に存在しているからね。

 ひょっとしたらジョニーもマーちゃんも俺も……3人で集まって音を出している瞬間が長い音楽人生の中で唯一「純粋な自分」になれる場所だったんじゃないかな。たぶん、きっとね。

Text : Masaya Bito

 2021年12月11日(土)には、デビュー45周年記念ライブ「 Char 45th anniversary concert special 」が東京・日本武道館で開催される。

Char直伝「もっとギターが弾きたくなる4つの教え」耳コピ、スマホ、ギターの選び方… へ続く

(Char/文藝春秋)

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