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「もちろん、うれしいです」突然のプロポーズに即答…カナダに移住したから手にできた“同性パートナーとの結婚”

文春オンライン / 2024年6月19日 6時0分

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©AFLO

〈 「中田敦彦のシンガポール移住に刺激を受けた」子どもを単身留学させる家庭も…教育のために“海外移住”を決めた親たちのホンネ 〉から続く

 海外に拠点を移し、永住権をとった日本人は過去最高水準に達している。海外で働きたい若者や、子どもに良い教育を受けさせたい親たちが主な層だが、まったく違う理由で移住を選ぶ人もいる。

 ここでは、海外移住を選んだ人々へのインタビューをまとめた『 ルポ 若者流出 』(朝日新聞出版)より一部を抜粋。幼少期から自身がゲイであることを隠し続けていた山村健司さん(46歳)が、カナダへ移住して感じた「日本との大きな違い」とは――。(全4回の4回目/ 最初 から読む)

◆◆◆

 広大なオンタリオ湖のほとりにある、カナダの最大都市トロントの市街地は年1回の熱気に満ちていた。高層ビルや煉瓦造りの建物が立ち並ぶメインストリートは、レインボーフラッグを掲げる人々であふれかえっていた。大音量の音楽と歓声が入り交じるなか、色とりどりの衣装に身を包んだドラァグクイーンたちが踊っていた。

 2013年6月。山村健司さんは、トロントで毎年開かれる、性的少数者らの祭典「プライド・パレード」をはじめて訪れた。北米で最大級とされるパレードの盛り上がりは圧巻だった。なにより驚いたのは、ドラァグクイーンたちとともに、小学生くらいの子どもたちが歩いていたことだ。

「日本ではあり得ないですよね。自分の受けてきた教育はなんだったんだろうと思いました。カナダでは子どもの頃からこうした教育を受けてきた人たちが、大人となり、社会の担い手となっているんです」

 ゲイやレズビアン、トランスジェンダーといった性的少数者の子どもを持つ親たちの姿もあった。「自分の子どもを誇りに思う」と書かれたボードを高々と掲げていた。

「日本で暮らす自分の親が、同じようにボードを持っている姿を想像すると、それだけで膝が砕けるような衝撃を感じました」

 もう自分を偽らなくていいんだ。自分が自分として生きていいんだ。そうした思いがあふれ、いつのまにかほおを涙が伝った。

「ばれてはいけない」、幼少期から偽り続けた自分

 1977年、茨城県水戸市で生まれた。物心ついたときには、本当の自分を押さえ込んで生きていた。

 幼稚園のとき、好きになったのは同じクラスの男の子だった。「お気に入りの女の子はいるの?」と大人たちに聞かれると、適当な女の子の名前を出してごまかした。

「なんとなく、(男の子が好きなことが)ばれてはいけないということを感じ取っていました。テレビ番組でも『おかまキャラ』が出ると、みんな『ひゃー』というようなリアクションをしますよね。そんな構図みたいなのがあるのを子どもながらに感じていました」

 この「ばれてはいけない」という気持ちは、年齢を重ねるうちに確信へと変わっていった。家庭の事情で転校した熊本県内の小学校では、「ホモは気持ち悪い」と口にする同級生の男の子がいた。学校の先生でさえ、同性愛者をバカにしたようなことを言うこともあった。

 小学校高学年になると、自分が他人と違うことをはっきりと自覚した。そして、その原因は「男の子が好きだから」。そう考えるようになった。

「こんな人間は九州に自分しかいないと思い込んでいました。病気じゃないかと自分を疑ったこともあります」

 同年代の男の子とは話が合わず、女の子のグループのほうが一緒にいやすかった。「女の子のほうが少し大人ですよね。わりと受け入れてくれました」。だが、いつも女の子と過ごしていることが、周囲の男の子には、女の子と仲良くしようとしているように映ったようだった。「女たらし」と呼ばれ、いじめの原因となった。

 一番つらかったのは、家族の前でも「ゲイ」ではない普通の男の子を演じ続けなければならなかったこと。「家族は一番近い存在。油断したら話してしまいそうでした」。学校から帰っても、気の休まる時間はなかった。「魔法の天使クリィミーマミ」や「魔法のプリンセス ミンキーモモ」といった女の子が好むアニメを本当は見たかったが、自分からは言い出せない。妹が見るのを口実に一緒に見るようにしていた。

親しくなるほど罪悪感が募り仕事を点々と

 熊本県の工業高校を卒業後、古着の輸入販売の仕事に就いたが、2年ほどで辞めた。その後は、工事現場や飲食関係のアルバイトなどを数年ごとに渡り歩く生活が続いた。自衛隊に入ったこともあった。

 仕事を転々としたのは、職場の同僚と親しくなるほど、周囲に自分を偽らざるを得ないことへの罪悪感が強まるというジレンマに陥ったからだ。

「距離が近づけば近づくほど『彼女いるの?』とか聞かれて、偽らないといけなくなる。職場の居心地が良くなる頃には、出て行くという繰り返しでした。ゲイだとばれそうになって辞めたこともありました」

 親しくなると、厚意からスナックやキャバクラへと連れて行かれ、女性を紹介してくる人もいた。だが、山村さんにとっては苦痛の時間だった。

 交際するのも難しかった。30歳の頃、ある男性と数年つきあったことがある。だが、それでも、常に意識していたのは、人前では男友だちの距離を保つこと。駅では電車を待つときもあえて1人分のスペースをあけて、関係がないように装った。映画館ではカップルのように寄り添いたかったが、まわりを意識して、そうはしなかった。「絶対に周囲にばれたくない」という相手からの強い希望もあった。

「男女のカップルと一緒で、僕たちも手をつなぎたいわけですよ。だけど、絶対にできなかった」

カナダだから手にできたパートナーとの「結婚」

 カナダへの渡航を決めたのは2013年、36歳の頃だ。カナダに渡った友人から「飲食店の仕事を手伝ってほしい」と言われたことがきっかけだった。カナダについてはほとんどなにも知らず、「ゲイフレンドリー」の国だということをゲイ仲間の「噂」として聞いたことがあるだけだった。

 それでも一念発起して、カナダに渡ると、すぐに日本との違いに気づかされた。街中には、男性同士が子どもを連れて歩く姿が当たり前のようにあった。日本では、いつも「男友だち」を演じていたことを考えると、信じられない光景だった。ゲイであることを打ち明けても平然と受け入れられた。

「自分の苦しみはなんだったんだろうか。日本であんなに悩む必要がなかったと思いました」

 1年ほどレストランで働いた後、ビザの関係で帰国。だが、自分をオープンにできるカナダでの暮らしを知っただけに、自分を偽らざるを得ない日本での生活はこれまで以上に「地獄」のように感じた。カナダでつくった人脈をたどり、2015年に再びトロントに戻ることにした。

 今度は、新規出店したラーメン店の店長を任された。地元のテレビ番組で取り上げられるほどの繁盛店となり、大忙しの毎日が続いた。

 そうしたなかで、2016年、ある男性とつきあいはじめた。客として訪れたカナダ人の男性だった。お茶などを重ねるうちに、意気投合した。「言葉にしない思いも読みとろうとしてくれ、心配りのできる人だった」。店で寝泊まりすることもあるほど仕事は忙しかったが、週末の夜にともに過ごすなどして、2人の時間をなるべくつくるようにした。

 一方で、山村さんは大きな問題も抱えていた。2人で暮らし続けるため、カナダに残りたかったが、就労ビザでは滞在できる期間が限られていて、永住権を取得する必要があった。そのためにはカナダの審査を通らなければならないが、英語がなかなか必要なレベルに達しなかった。

 もともと日本では英語を使う仕事に就いたことがなく、カナダに来てすぐの頃は「ABCがわかる程度」だった。IELTSのスコアは、最高スコア9.0に対して最低の1.0。知らない言葉はすぐに調べることを習慣づけるなどの猛勉強で、5.0ぐらいまで伸ばしたが、それ以降は伸び悩んだ。

 自力で突破するのは絶望的な状況のなかで、残されていた選択肢は限られていた。結婚だ。カナダでは2005年から全土で同性婚が認められた。もしくは法的にパートナー関係が認められる制度「コモンロー」を結べば、永住権を取得できる。それでも自分から言い出すことはしなかった。永住権が目的で結婚を望んでいるとパートナーに思われたくもなかったからだ。

 パートナーに相談せずに、自力での突破を目指すことにこだわった。相手も、山村さんが勉強をしていても、「自分の力でがんばれ」という姿勢だった。

 しかし、ある日、自宅で英語の勉強をしていると、パートナーがその様子をのぞきこんできた。だが、その日は山村さんのテキストをじっくり眺めると、こう言った。

「こんなに難しい問題だったのか。君はこのままでは日本に帰らないといけなくなるかもしれない。考えていたんだけど、結婚しよう」

 突然のプロポーズに、山村さんの心のなかは喜びであふれた。

「もちろん、うれしいです」

 その場で即答した。

 内心はパニックになるくらいうれしかったが、昔から感情を押し殺してきただけに、その喜びを素直に表現できなかった。

「僕のいけないところですね。大人になっても自分を隠してしまう。もう少し喜びを表現できたら良かったのですが……」

 2018年12月、2人は法的な関係を認められる「コモンロー」を結んだ。「コモンロー」を選んだのは、日本にいる母親にゲイであることを明かしておらず、そのまま結婚することにためらいを感じたからだ。母親が2人の関係を受け入れてくれるかどうか自信も持てず、「コモンロー」を結んだことも報告はしなかった。

 だが、数カ月後、日本にいる母親からこんなメールがきた。

「お母さんは結婚したのは知りませんでした。いつ彼に会えるの?」

 SNSで新婚生活の様子を投稿してきたことで、母親にも間接的に生活が伝わったようだった。そしてなによりうれしかったのは、母親が「彼」と呼び、その関係を認めてくれたことだった。これまで偽り続けてきた自分を、少しさらけ出せたようにも感じた。

 日本に帰りたい気持ちがないわけではないが、パートナーと生活を続けるならカナダを選ぶ。日本に帰れば母親にも会えるし、食事も美味しい。だが、2人の関係は法律上では他人同士になってしまう。

「日本は恋しいですが、今のままでは無理です」

 日本社会もいずれ性的少数者を受け入れられる社会に変わると信じている。

「日本には相手の立場に立って考え、敬う文化もあるからです。今はまだまわりの目を意識して、なかなか行動に移せない人が多いですが、あっという間に人権先進国に近づける素質があると思います。理解が進めば、ものすごいスピードで広がるはずです」

法的に保証されている安心感

 2023年10日15日、山村さんのパートナーが心筋梗塞で亡くなった。

 突然の出来事に、「ようやくできた家族を失ってしまった」と、悲しみのどん底に突き落とされた。そうしたなかで、「コモンロー」で結ばれていた意味もあらためて受け取れた。法的にパートナーとして認められているため、彼が契約していた賃貸マンションの部屋にも住み続けることができ、パートナーがもらうはずだった年金も遺族として受け取ることができた。

 ゲイであり、パートナーがいることを周囲に明らかにしていたことで、職場でもパートナーを失ったと伝えると、上司からは「落ち着くまでは休んでいい」と配慮され、1カ月ほど休めた。

「愛する人を失うのは、自分が消えてなくなりたいほどのショック。でも、日本ではそれを表現すらできない人も少なくない。家も追い出され、葬式に参加できないこともありますよね。残酷すぎませんか。カナダでは、ひどく悲しい感情とともにやらなければならないことが多くありますが、色々なサポートを受けられることで、前に進むきっかけにもなります」

 山村さんはこれからもカナダで暮らす予定だ。

「彼は、日本を脱出してきた僕の気持ちをくみ取って、カナダで暮らすためのレールを敷いてくれた。そのレールに沿って生きられるなら僕はそういたい」

 日本の社会制度は、性的マイノリティーがいることを前提につくられているとは言い難く、今のままでは山村さんのように悲しみのなかにいる人を見捨てることになりかねない。多様な社会にはなにが必要なのか、日本人も考えなければならない時期にきている。

(朝日新聞「わたしが日本を出た理由」取材班/Webオリジナル(外部転載))

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