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「女はメンスがきたら終わりだよ」と…田嶋陽子(83)が語る“私がヤングケアラーだった頃”「ずっと、一人の人間になりたかった」

文春オンライン / 2024年6月20日 17時0分

「女はメンスがきたら終わりだよ」と…田嶋陽子(83)が語る“私がヤングケアラーだった頃”「ずっと、一人の人間になりたかった」

左から田嶋陽子さん、和田靜香さん

 30年以上に渡ってTVのバラエティ番組やCM、映画等に出演し続けながら、女性の権利獲得や、性差別的な抑圧を受けない社会を実現しようと語り続けてきた田嶋陽子さんがここ数年、女性たちの間でブームとなっている。

 そんな田嶋さんに会えることになり、数年前からフェミニズムを学び始めたばかりの58歳のライターである私はドキドキしながら都内にあるシニアハウスを訪ねた。そこが今の事務所兼住まいだという。「ここは天井が高くて留学していたイギリスの雰囲気が感じられるのがいいのよね」――TVで見たままの変わらぬ田嶋さんが朗らかに話す。

 ああ、うれしい。テンション高めに向かい合うと、途中で編集長も田嶋さんのパワーに巻き込まれて思わず参加しちゃったり。女同士でワイワイと話した。2024年6月20日(木)発売の 『週刊文春WOMAN 2024夏号』 より一部を抜粋し、掲載する。

◆ ◆ ◆

和田 田嶋先生を知ったのは、1990年にフジテレビの『笑っていいとも!』(フジテレビ系)にご出演されたときでした。どんな方か分からないながらも、強烈な印象を受けました。

田嶋 出演の話がいきなり来て、打合せもないままスタジオアルタに行ったのが始まりでした。

和田 打合せもないままお昼の生放送、国民的人気番組に登場する田嶋先生の度胸もすごい(笑)。

田嶋 当時テレビを見ていなかったんで、『笑っていいとも!』も見たことないし、タモリさんも知らないし、オンエアー中は何か言えばすぐ揚げ足を取られた。いわゆるツッコミかな? こっちは大学で授業をするようなつもりで行ったんだけど、いつのまにか番組で3つ準備してあったコーナーを全部飛ばして、私のコーナーだけで終わっていた。

和田 タモリさんも知らないのに初回で大旋風を巻き起こしてしまった!

田嶋 でも、私はまともに喋らせてもらえなくて真剣に怒っていた。最後は水の入ったピッチャーに「どいつにぶっかけてやろうか」と手がかかってたぐらいね(笑)。だから「二度とこんな番組出るもんか」と思ったのに、終わった後に新宿駅でエスカレーターに乗っていた女の人たちが、下にいる私に何か言いながら「ワーッ」て手を振ってくれたの。「田嶋先生!」って。

 そうか! 通じたんだって、また出ちゃって。でも、2回目は1回目みたいにぶちかまさず、黒板に円など描いて「男社会とは」なんとやらって。「先生が静かにやったから、客が引いちゃいました」って番組の人に言われた。

 そんなこと言われたら、客が引かないようにやりたいって思うじゃない? じゃあ、もう1回頑張るって言って、そうやって騙され続けて10回も出ました(笑)。

テレビの世界では「四面楚歌」だった

和田 視聴者も田嶋先生を好きになっちゃったんですよね。

田嶋 そういう人もいたかもしれない。電車の中で子供を連れた女の人が涙を流しながら「先生よく言ってくださいました」って言ってくれたり。年輩の主婦や中高生の女の子たちや男の子たちは面白がってくれていた。「先生! こんど何を言うの?」って。

和田 女性たちは、感じてはいても言葉にできない不満みたいなものを田嶋先生が的確に言葉にしてくれたから、感動したんでは?

田嶋 でも、良妻賢母思想でガチガチになってる人からしたら、「この人、なんてことを言うんだろう」って、敵視したんじゃないのかな。

和田 実は正直に言うと私自身も、そっち側にいました。最初に田嶋先生を『笑っていいとも!』で見た時は……。

田嶋 「この女」と思ったんでしょう?

和田 はい、そんなでした。テレビの世界には私みたいな人が多かったのではないでしょうか?

田嶋 テレビの世界は男に気に入られなきゃ、仕事がないようなところだったでしょう。私が言う「男はパンツ(家事)を、女はパン(仕事)を」みたいなことは受け入れられない。私が意図することを「パン代を稼げ」と取った人もいれば、「パンを焼け」と取った人もいた。

 廊下で女性のタレントが私とすれ違うとき、下を向いて顔を背けて歩いて行った。私の味方だって思われたくなかったみたい。だから厳しかったですよ。四面楚歌でした。

和田 味方はいなかった?

田嶋 ただ、こういう話を聞いたの。陰の支援者かな? 『笑っていいとも!』のディレクターの1人が家でシャワーを浴びていたら、お母さんが走ってきて、「早くテレビ見て! おもしろい人が出ているよ」って。そのお母さんは今までそんなこと言ったことがないから、彼はびっくりしたって。

田嶋 『笑っていいとも!』は生放送でしたが、『ビートたけしのTVタックル』(テレビ朝日)は録画なので編集がありました。女の問題に関しては、私がいつもたけしさんを言い負かしていたのに、オンエアーを見ると、私が言い負かされた形になっている。要するに、私が言い負かしても、たけしさんの言葉で終わると、たけしさんが正しくなってしまうという構図です。

和田 私達はテレビが作った男性が勝つ世界を見せられ、「これが正しいんだ」と思わされてきたんだと今なら分かります。

田嶋 フェミニストだって、私がテレビに出た時に「フェミニズムを笑いものにした」って批判してきたんですよ。みんなもテレビの世界を知らなかった。

和田 一匹狼で戦ってきた?

田嶋 そう、いつも1人。つるむことが苦手。歩調が合わない。どうしようもない。しゃべるのも、歩くのも、食べるのも早い。原稿は遅い(笑)。

田嶋陽子を形作った、「ヤングケアラー」時代

 岡山県に生まれた田嶋さんは、父親が戦争から戻ると静岡県沼津市に家族3人で暮らした。沼津西高という県立の女子校(当時)を卒業しているが、なんと偶然にも私は沼津に育ち、同じ高校に通った。同郷の先輩の、後ろ姿が見えるようだ。

田嶋 私が小学校に入る前から高校時代まで、母が長いこと脊椎カリエスっていう、結核菌が脊椎へ感染する当時は治療が難しい病気を患っていてね。主に父が看病をしていたけど、私も今でいうヤングケアラーだったの。私は母の病気を治したくて外科医になる!と決めていた。

 なのに、私が男の子より試験の成績がいいと、学校の先生は男の子の味方をするわけ。「あいつはあの日体調が悪かった」「あいつはやればできるけど、試験をバカにしているから」と。挙げ句の果てに、「女はメンスがきたら終わりだよ」って。女の子はメンスが来たら、嫁に行って子どもを産む人生しかないってこと。

和田 ひどい。すごく傷つきます。

田嶋 全女性の人権を否定してるよね。それでも私は希望を捨てず、沼津にある共学の進学校を目指したけど、父親の反対に遭って、当時は女子校だった西高に入ったの。高校時代は図書室にこもって世界文学全集を、モーパッサンからゾラ、トーマス・マン、ドストエフスキー、トルストイと片っ端から読んだ。ところがどれを読んでも女の人生は全部惨めに終わっていた。

和田 あの図書室で、それに気がついたんですね。

一人の人間になりたくて、生きてきた

田嶋 本当はその前から気づいてはいた。母親の言葉からね。母は戦争体験から、夫が戦場に行った後、女は食っていけないことに気づいた。それで女も仕事を持たなければと思って、私に勉強させた。

 一方で、私がお転婆だったので「女らしく」しろと、しつけた。私の中では、経済的自立のための努力と女らしくすることとは矛盾した。つまり、青信号と赤信号を一緒に出されたようなものだった。今では、ダブルバインドと呼ぶかもしれない。それで私は病んだ。

和田 親だからって言いたい放題はひどい。

田嶋 母が病気だから、病気にさわるといけないと思って、私は口ごたえができなかった。大人になって46歳を過ぎてから初めて、母親に「これは自分の問題だから、自分に決めさせて」と言えた。

和田 あきらめずに自分の想いを深く考え続けてきたのが田嶋先生ですよね。

田嶋 ずっと親や学校の先生から「これは違う」「おまえが悪い」「間違えている」と頭ごなしに言われ、何かある度に自分なりに必死に考え抜いて、どっちが正しいんだろう、自分はどう生きたいんだろうと考えてきたから、ちょっとぐらい何か言われたって自分の考えを曲げはしない。

和田 フェミニズムは田嶋先生にとって血肉である、ということですか?

田嶋 「フェミニズム」という言葉は、子供の頃の私の中にはなくて、長じてから「ああ、これがフェミニズムなんだな」というだけ。私は一貫して田嶋陽子という一人の人間になりたくて生きてきた。

 今は、私の考えてることはフェミニズムなんだな、フェミニズムが私を応援してくれているんだなと感じている。「フェミニズム」とか「ウーマンリブ」とか、いろんな言い方が私の上を通っていくような感覚で、私自身は変わらない。

 和田さん、あなたのお母さんと同じよ。あなたのお母さんもフェミニズムなんて言わないでも、すごい人じゃない。あなたの本(『50代で一足遅れてフェミニズムを知った私がひとりで安心して暮らしていくために考えた身近な政治のこと』)を読みましたよ。

和田 ええっ、ビックリです。

田嶋 お母さんは戦後、16歳の頃からマッサージの仕事をずっとやってお金稼いで、その後、沼津市から賞をもらったんですよね?

和田 はい、ひとつの専門職を長く続けた人を表彰する「技能功労賞」を受けました。

田嶋 本の中ではお母さんのことには数行しか言及してないけど、輝く宝石みたいな人。それなのに、お父さんは自分の女房をバカにして評価しない。娘のあなたもお父さんの側について「飯がまずい」とか言っていた。

なぜ女は「父の娘」になってしまうのか

和田 そうなんです、今となっては後悔していますが、当時は父の側に立って、母を悪しく言ってました。

田嶋 そんな娘と夫を捨てて離婚して、ずっと1人で飯を食っていく。素敵じゃない。

和田 思い返すと、父はいわゆる「毒親」で、私の存在を否定してました。子供はあまり好きでなく、姉がいたので1人で十分だったらしく、「お前は生まれてこなくてよかった子供」と言われながら育ったんです。私は母には勝手なことをいっぱい、ひどいことも言ってきたけれど、逆に私のことを全く認めない父の気に入るような行動をしていたんだと思います。

 本来なら父の価値観に反旗を翻す「母の娘」になるべきだったのに、逆に父の価値観を内面化した「父の娘」になってしまった。今年9月に文春新書から刊行予定のご著書のゲラを読ませていただいて、先生が書かれていた「父の娘」という概念を知り、ハッとしました。私こそ「父の娘」だって。

田嶋 世間という男社会から認めて欲しいからこそ「父の娘」になってしまう、世間の女性の多くはそうだと思う。でないと、いじめられるし、生きにくかったから。父親は男社会の代弁者でしょ。日本は会社も議会も男社会だから。父親にまず気に入られないってことには女にとって落第なわけ。

和田 ああ、本当にそうですね。今とても腑に落ちています。

田嶋 多くの場合は、お母さんも「父の娘」で、男社会の手先みたいなものだから、娘を結婚に適した人間に、二級市民に育て上げようとする。それが「女らしく」なること。そうしないと妻としての役割が果たせない。うちの母はそれに必死になっていた。

 父の娘というのは、良妻賢母のこと、すなわち「妻」と「母」の役割をしっかり果たす「自分」なしの女性。自分がないわけではないけれど、自分を殺して生きているから、十二分に自分を生きられなくて、意地悪になったり、娘の邪魔をしたりする。

※議員時代の苦悩や35歳での一軒家購入、現在のシニアハウスでの暮らしやおひとりさまの老後について語った対談全文は、 『週刊文春WOMAN 2024夏号』 でお読みいただけます。

撮影=釜谷洋史/文藝春秋

たじまようこ/1941年生まれ。英文学・女性学研究者、書アート作家、シャンソン歌手。元法政大学教授、元参議院議員。津田塾大学大学院博士課程修了、2度のイギリス留学。女性学研究者としてマスコミで活躍。2024年9月に文春新書より新刊を刊行予定。

 

わだしずか/1965年生まれ。相撲・音楽ライターにして、政治ジャンルで『時給はいつも最低賃金、これって私のせいですか? 国会議員に聞いてみた。』『選挙活動、ビラ配りからやってみた。「香川1区」密着日記』『50代で一足遅れてフェミニズムを知った私がひとりで安心して暮らしていくために考えた身近な政治のこと』(左右社)の3冊を上梓。

(和田 靜香/週刊文春WOMAN 2024夏号)

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