〈介護休暇〉を経て19年振りに奇跡の復活。度肝を抜く新作を発表したミステリー作家の発想力
文春オンライン / 2024年6月21日 11時0分
『聖乳歯の迷宮』 (文春文庫)
イスラエルのナザレ近郊で発見された乳歯から、ホモサピエンスと違うDNAが見つかった。時代的にイエス・キリストの乳歯であってもおかしくない。世紀の大発見に世界中で宗教ブームがわき起こる。その一方、伊豆諸島の青ヶ島では源為朝の鬼退治伝説をめぐり、ある事件が起きていた。
長いブランクを経て発表された本岡類『 聖乳歯の迷宮 』(2023年11月刊)は、2000年の時空を超えた壮大なスケールの伝奇ミステリーだ。
◆◆◆
19年ぶりのミステリー新作。キリストの乳歯が見つかったなら!?
「小説としては16年ぶり、ミステリーに限定すると19年ぶりの新作になりました。キリストが実際にいたのかどうか、いろいろな論争があります。実在を証明する明確な証拠があったら面白かろうと考えました。キリストは磔刑で殺された後に復活し、天に召されたわけですから遺骨は残っていない。そこで思いついたのがキリストの乳歯が残されていたらというアイデアです。
中東では遺跡が見つかるとキリストがらみではないかと期待され、この小説の中でも描いたように、キリスト教関係の団体が援助に乗り出してくるようです。このアイデアを思いついたことがキーになり、すでに半分以上完成したような感じがしました。これと保元の乱で敗れて伊豆大島に流された源為朝の伝説を結びつけ、それからは物語がどんどん転がっていきました。あとは二つのアイデアに見合うような事象を見つけてくればいいわけで、それほど苦労せずに完成に至りました。キリストがらみのフィクションはたくさんありますが、『乳歯』を思いついた人は誰もいないのでは。そのことは幸運だったと思います。イスラエルに行くのは無理でしたが、青ヶ島の取材は楽しかった」
〈キリストの乳歯〉発見により、教会に足を運ぶ信者が激増、沈滞気味だった既存の宗教が盛り返すだけではなく、宗教ブームに乗じたカルト団体にも信者が集まり、社会問題になっていく。〈キリストの乳歯〉というたった一つのアイテムが、世界中に大きな影響を与えてしまう。伝奇的な興趣に加えその危うさが描かれるのも本書の魅力である。
「さまざまな流行やトレンドに操られる人がいます。それを画策し、その結果を見てほくそ笑んでいる者もいます。本書のような描き方ができたのは、ドナルド・トランプの存在が大きかった。たぶん彼は、自分でも大統領になれるとは思っていなかったでしょう。そんな人物が思ったことをなんでも命じて、世界を動かしうる権力を手に入れてしまった。トランプのような者が実際にいなければ、本書の背景にリアリティが与えられなかったかもしれません」
新作は、新美南吉の名作『ごんぎつね』に関する謎!
今年の5月には新潮文庫から『 ごんぎつねの夢 』が刊行された。15年ぶりに開かれた中学校のクラス会に、散弾銃を持った男が乱入し参加者を人質に取る。男はSATにより射殺されるが、かぶっていたキツネ面の下から現れたのは、不祥事によって退職した元担任の顔だった。人質になった教え子のノンフィクションライターは、元担任が残したメッセージに従い、新美南吉の『ごんぎつね』に関する謎を調べ始める。
「新美南吉の『ごんぎつね』は1956年に初めて小学校の国語の教科書に採用されました。80年代以降は現在までほとんどすべての教科書に載るようになりました。ある年代から下の人はみなこの物語を知っており、小学校の時にあの衝撃的なラストに出会った経験があるはずです。私は昔から新美南吉が大好きで、「ごんぎつね」は素晴らしい作品だと思っていますが、あの結末はどうなのかという思いがありました。
新美南吉は妥協の作家と言えるでしょう。30年に満たない生涯の中で、辛い体験をいくつもし、折り合って生きてきた。小説の中にも書きましたが、『ごんぎつね』が雑誌「赤い鳥」に掲載された時に、雑誌の主宰者の鈴木三重吉が原稿に大幅に手を入れたと言われています。当時の児童文学の世界では有力者だった鈴木三重吉に、まだ10代の駆け出しだった新実南吉が逆らうことはできなかったでしょう。
思うようにならない現実の中で、どのように生きていけばいいのかという問を貫いてきた彼の作品を読みこんでいくと、人間とはお互いに理解し得ない存在だという諦念が読み取れます。でも仲良くしたい、認め合わなくてはいけない、現実世界から離れず妥協しながらも、その上でより良く生きていこうというテーマが読み取れます」
元担任の射殺というショッキングな現実と、残酷な結末が待っている童話の謎。この二つが見事に結びついていく。
「陳腐なハッピーエンドではない『ごんぎつね』の新たな結末とは、どのようなものであるのか。当然ながら作者である私が書いたフィクションですが、原作の不満点を解消した、本物であってもおかしくないものを用意できたのではないかと思います。大それた作者の思いを読者はどう受け止めてくれるのか、それが楽しみです」
母の介護のために、スクールに通い、得たものとは。
本岡さんは母親が要介護4になったのをきっかけに介護問題に取り組み、小説を書かなかった時期に3冊の関連書を上梓している。
「初めは介護の基本を身につけようと、ヘルパー2級の資格を取るためのスクールに入りました。その実習の現場でとんでもない体験をし、さまざまな現状を知りました。その強烈な体験があったので、実際に施設で働いた上できちんとしたものを、と思って書いたのが2009年刊の『介護現場は、なぜ辛いのか』(新潮文庫)でした。
その後も高齢社会の諸問題を扱った企画を週刊誌で1年半続けました。この間にいろいろな人に会い、取材しました。世代も生活もまったく違うさまざまな人と出会ったことが、今回の小説を書くに当たっても大いに役立ちました。
小説を書かなかった期間が長かった分、抱いているアイデアはいくつもありますし、すでにいくつか書き進めています。この年齢になるとあと何作形にできるのか不安になることもありますが、これからも面白い作品を書いていけたらと思っています」
(西上 心太)
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