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【追悼】桂ざこばが初めての独演会の日、高座で大泣きした“深い理由” 師匠に「褒めてやってほしいと思う」と言われた内容が…

文春オンライン / 2024年6月21日 17時0分

【追悼】桂ざこばが初めての独演会の日、高座で大泣きした“深い理由” 師匠に「褒めてやってほしいと思う」と言われた内容が…

桂ざこば ©時事通信社

 桂ざこばが亡くなった。筆者は若い日に上方落語協会事務局に2年間勤務し、当時の上方落語の師匠たちに接した思い出があり、ざこばは特に思い出深い師匠の1人だった。

 ざこばの最初の芸名は桂朝丸(ちょうまる)と言った。筆者には、そのほうがなじみがあるが、紛らわしいのでここは「ざこば」で通したいと思う。

 桂ざこばは、裏表のない、テレビで見る「そのまんま」の師匠ではあった。今、懐かしくそれを思い出している。

 桂ざこばは、文化勲章を受章した上方落語の大師匠、三代目桂米朝の弟子だ。米朝の筆頭弟子は三代目桂米紫(上方落語協会事務局長)、続いて月亭可朝、さらに二代目桂枝雀と続き、ざこばは米朝4番目の弟子だった。

 しかし米紫と可朝は他の師匠に就いた時期があり、米朝の内弟子ではなかった。内弟子修行をした弟子としては、昭和の爆笑王と言われた桂枝雀に続く2番目で、米朝一門の次男坊という感じだった。

「キリンに熱い熱い餅を食べさせるんですな」

 後述するように中学時代からアルバイトで生活費をねん出するような境遇だったが、米朝門下になってからは、出世が早かった。

 桂米朝は「落語家タレント」の先駆者のような存在で、1967年にワイドショー「ハイ!土曜日です」(フジテレビ系列)の2代目MCに起用され、いわゆる「お茶の間の顔」になる。

 演芸番組「お笑いとんち袋」のMCにもなった。この番組は、噺家など芸人がお題を貰って当意即妙の返しをする、いわゆる「大喜利番組」だった。米朝は、自分の弟子のざこばと枝雀(当時小米)を起用した。まだ10代だったばかりのざこばは年齢以上に若く見え、子どものような甲高い声で「兄ちゃん、そない言うけどなあ」と兄弟子の枝雀に絡んでいたのが印象的だった。

 ざこばは、この後「動物いじめ」というネタで世間の注目を集めるようになる。

「犬をいじめますな。犬は3日飼われたら飼い主の恩を忘れないといいますな。そこで、2日ごとに飼い主を変えますな。犬、ノイローゼになりますな」

「いろいろと動物をいじめるんですな、キリンをいじめますな。キリンに熱い熱い餅を食べさせるんですな、キリンは首が長いから、いつまでも熱い熱いいいますな」

 これ、もとは、深夜ラジオなどで放送作家としても活躍していた先輩の桂文紅のネタだった。せっかちな口調で畳みかけるようにしゃべるざこばのキャラに合って受けたのだが、今なら「動物虐待」とSNSで叩かれるだろう。時代を感じさせる。

 次にざこばが注目されたのは日本テレビ「テレビ三面記事 ウィークエンダー」のレポーターだった。様々なスキャンダルを取り上げて、真相を追及する。センセーショナルな音楽とともに「新聞によりますと!」とスキャンダルを紹介していく。レポーターは泉ピン子、横山やすし、桂ざこば、今思えば実に濃厚な顔ぶれだった。

「おまはんが行ってた高校やなんて知るかいな」

 ざこばは主に関西地区を担当して、様々な事件を紹介した。

 実は筆者の通っていた高校が破廉恥事件を起こして「ウィークエンダー」に登場したことがある。卒業したばかりの筆者は、テレビでざこばが身振り手振りで唾を飛ばして自分の母校の行状を紹介しだして、顔から火が出る思いがした。

 後年、ざこばと仕事をするようになって、そのことを話すと、

「そんなん、おまはんが行ってた高校やなんて知るかいな。こっちは仕事やないかい!」と気色ばんで言われた。

 20代前半のぺーぺーのスタッフの言葉など、鼻で笑って聞き流せばいいものを、むきになって言い返したのは、心中「しもた、悪いことした!」と思ったからだ。どんな人間に対しても一生懸命に向き合った、ざこばの人の良さがにじみ出ている。

 噺家は、内弟子の年季が明けると、あとは自分で仕事を探しながら、落語を演じる場所を求めて活動するようになる。師匠の前座をつとめたり、興行会社の寄席の高座に上がることもあるが、多くは地域の人々の協力を得て「地域寄席」を自分で開催するようになる。

 落語家にとって「地域寄席」は、いつでも自分の落語を聞いてくれる場所と、お客さんがいる「ホームグラウンド」と言ってよかった。

 しかし、若くして人気者になったざこばは、そうした修行の場を持っていなかった。それでも、ある時期から後輩が主催するような小規模な地域寄席に「飛び入り」で参加するようになった。

「そして今度、この噺を(高座に)かけますので勉強させてください」と断って落語をするようになった。

 これ、なかなかできないことだ。地域寄席には、主催する噺家の熱烈なファンが多い。今は地域寄席も高齢化が進んでいるが、当時は「速記本」を手にした落研(落語研究会)らしき大学生や、眼光鋭い社会人など「俺たちはお笑いじゃなくて、落語を聞きに来ているんだ」みたいなお客が多かった。

 テレビの人気者など「ケッ」みたいな空気もあったはずだが、ざこばは臆することなく落語を演じた。

 ざこばは、笑いが多い「得な噺」だけでなく、師匠米朝譲りの希少な噺も演じた。筆者がよく覚えているのは「狸の化け寺」という古い噺だ。笑いがそれほど多くない、難しい噺だったが、いろいろな地域寄席で演じているうちに、少しずつ噺の勘所を押さえるようになった。

 ざこばが1つの噺をものにするまでを目の当たりにしたことは、とても幸運だった。

高座に上がるなり男泣き、客席ももらい泣き

 昭和50年代のこの時期、ざこばにとって「甥弟子(兄弟子月亭可朝の弟子)」にあたる月亭八方も、地域寄席で落語を演じるのをよく見かけた。

 共にテレビの人気者だったが、落語に対して真摯に向き合っていたという印象だ。

 ざこばの精進の甲斐あって、1981年3月13日、大阪のサンケイホールで「第1回桂朝丸独演会」が開催されることになった。

 落語家が寄席以外の会場で大規模な落語会=「ホール落語」を定期的に開催した嚆矢はざこばの師匠の三代目桂米朝だと言われる。1971年7月からサンケイホールで始めた「桂米朝独演会」が大人気となったのだ。続いて1976年、ざこばの兄弟子の二代目桂枝雀もサンケイホールで「桂枝雀独演会」を始める。

 サンケイホールは米朝一門にとって「檜舞台」と言える大舞台だった。

 演目は「子ほめ」「不動坊」「首提灯」。ざこば(当時朝丸)は、満を持してこの日を迎えた。

 師匠の桂米朝は当日のパンフレットに、こんな一文を寄せた。

 朝丸と南海電車に乗っていて、難波に近づき車窓から大阪球場の灯りがちらっと見えると、

 朝丸は「今日は暑かったから、ビールがよく売れるやろうと思います」

 と言った。

 朝丸は、家庭の事情で中学からアルバイトをしていた。こんなあどけない子どもが、重たいビールを担いで、急な段差のある球場を上り下りしていたかと思うと、胸が詰まるような思いがした。

 その朝丸が、今日、初の独演会を開く。褒めてやってほしいと思う。

 ざこばは、高座に上がるなり「パンフレットの文章、よんでくれはりましたか」と客席に言い「嬉しい」といって男泣きに泣き始めた。客席ももらい泣きをし、それから大きな拍手が起こった。

 1947(昭和22)年生まれのざこばが大阪球場でアルバイトをしていたのは、昭和30年代半ば。南海ホークスの全盛期だ。杉浦忠、野村克也、広瀬叔功らが活躍していたはずだが、ざこばはグラウンドに目をやる余裕もなく懸命にビールを売り歩いていたのだろう。

 そんな境遇から必死に這い上がって、テレビの人気者、そして落語界の大師匠へと昇って行ったのだ。

 師匠の桂米朝は、そんなざこばのひたむきな努力を、じっと見つめていたのだ。

 このエピソードには、二代目桂ざこばという芸人の人柄、そして師匠米朝の懐の深さが、現れている。

 筆者は今、野球のライターをしているが、球場でビールを売る売り子を見るたびに、ざこばと米朝のことを思い出す。そして「心して飲みたい」と思いながら声をかける次第である。

(広尾 晃)

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