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トンネルだらけの山陽新幹線「のぞみ」“ナゾの通過駅”「三原」には何がある?

文春オンライン / 2024年6月24日 6時0分

トンネルだらけの山陽新幹線「のぞみ」“ナゾの通過駅”「三原」には何がある?

山陽新幹線「のぞみ」“ナゾの通過駅”「三原」には何がある?

 東海道新幹線と山陽新幹線の大きな違いのひとつは、トンネルの数だ。

 それは、東海道から山陽に直通する「のぞみ」にでも乗ってみればよくわかる。それまでは車窓を楽しめる時間も多かったのに、山陽新幹線に入ったとたんにトンネルだらけ。

 新大阪駅から山陽新幹線になって最初の駅である新神戸駅からしても、両脇をトンネルに挟まれた駅だ。山陽新幹線、なんとおよそ半分ほどがトンネルなのだとか。

どうして山陽新幹線は「トンネルだらけ」?

 なぜ山陽新幹線にはトンネルが多いのか。これは、東海道新幹線の反省を活かしたからだという。速く走るためには、カーブが少なければ少ないほうがいい。

 その点、東海道新幹線はいささかカーブが多すぎた。そこで、山陽新幹線ではトンネルを多用してできるだけ一直線に駆け抜けられるようにした、というわけだ。

 もちろんそれはその通りなのだろう。だが、それ以外に地形的な要因もあるのではないかと思っている。

 地図を見れば一目瞭然、東海道新幹線は関東平野・濃尾平野・大阪平野という広大な平野部を走る。ところが、山陽新幹線はそれほど大きな平野部を通らない。中国地方は瀬戸内海の際まで山地が迫っているところが多く、おかげで新幹線の駅は、海と山に挟まれた小さな平地部にぎゅっと押し込められているのだ。

 そうした山陽新幹線らしさを象徴するような駅のひとつが、今回やってきた三原駅である。

山陽新幹線「のぞみ」“ナゾの通過駅”「三原」には何がある?

 三原駅があるのは、広島県の東部だ。観光都市にしてしまなみ海道のはじまりの地でもある尾道がすぐお隣。三原駅には新幹線に加えて在来の山陽本線、瀬戸内海沿いを走る呉線が乗り入れており、交通の要衝という一面も持つ。

 そんな三原駅にやってきて、高架の新幹線ホームからあたりを見渡すと、まず気になることがある。新幹線の高架にぴたりとへばりつく、というよりは、ホームの方がそれに食い込むように古めかしい石垣があるということだ。

 その周りには、お堀とおぼしき水面も見える。これは、どういうことなのだろうか。というわけで、まずはその石垣を目指すことにする。

高架下の改札を抜けて駅の外に向かう

 高架下の改札を抜けて、そのまま流れに乗って駅の外に出れば、そこは石垣とは反対の南側。バスのりばとタクシーのりばが分けられた大きな駅前広場が出迎えてくれる。その中央には噴水広場もあったりして、いかにも新幹線のターミナルらしい駅前だ。

 駅前通りの向かい側には図書館なども入った公共施設が建ち、その脇にはホテルなども見える。マリンロード、またグリーンロードといった名前がつけられている細い道沿いには飲食店がひしめく。ちょっとした歓楽街のようなエリアなのだろうか。少なくとも、駅の南側一帯が三原の中心市街地であることは間違いなさそうだ。

高架を潜って北側に出ると小さなロータリーが。その真ん中に何やら像が…

 が、最初の目的地はこちらではない。駅の北側の石垣である。高架を潜って北側に出ると、そこにも小さなロータリーがあった。その真ん中の小島には、何やら像が鎮座している。

 近づいて見ると、小早川隆景公。毛利元就の三男にして、兄の吉川元春とともに毛利両川として戦国末期の大大名・毛利氏を支えた傑物だ。そんな隆景公の像が鎮座し、傍らには「隆景広場」と呼ばれる広場も整備されている。

 そして、その向こうには水を湛えるお堀と三原城本丸天主台の石垣だ。新幹線の高架は、三原城天主台の南側を削り取りながら、東から西へと走っているのである。高架下には石垣の一部が残っていて、まるで高架の基礎が石垣のよう(実際はさすがに違うと思います)。

 かつての広大な城の一部に線路が通る、などという事例は意外とあちこちで見られるが、ここまでまったく天主台のど真ん中を貫く新幹線の駅など、三原をおいて他にないといっていい。

どうして「三原」はこんなことになった?

 この三原駅が開業したのは、1894年のことだ。隣の糸崎駅から広島駅まで線路が延びたときに開業している。当時はもちろん新幹線などなく、在来線だけの駅である。しかし、このときから三原城の真ん中を貫くように線路が敷かれている。

 というのも、その頃の三原という町は、いまよりももっと平坦部が少なかったのだ。北には山が迫り、お城の北側に西国街道が通り、そのすぐ南はもう瀬戸内の海。三原城は、まるで瀬戸内海に浮かんでいるように見えたことから、「浮城」などと呼ばれていたという。

 そうした町に鉄道が通ったわけで、それはもうお城だろうがなんだろうが、その真ん中を貫かざるを得なかったのだろう。

 いま、三原の中心市街地が広がる駅の南側。その中を歩くと、ところどころに三原城の痕跡を見ることができる。例えば、駅前に建つペアシティ三原という大型複合施設。その裏手には石垣が残っていて、「三原城本丸中門跡」の碑がみえる。

 また、駅前広場の脇から南東に向けて少し入ると小さな池があり、「三原城船入櫓跡」の説明書き。つまりは、船で三原城に入るための船溜まりがこのあたりにあったということだ。

 つまり、お城の跡を貫いているのは鉄道だけではなく、もはやいまの三原の中心市街地そのものがかつて城があった場所。瀬戸内海に浮かぶ城の周りを埋め立てて、そこに市街地が形成されたのが三原という町なのである。

土地が足りなかった「三原」が“大規模工場の町”になった理由

 三原城は、16世紀後半に小早川隆景によって築かれた城だ。瀬戸内海に浮かぶ島をつなぐようにして整備されたという。そして、この海辺の城を拠点として毛利水軍が力を蓄える。東から織田信長の勢力が迫ってくると、対信長の前線基地として毛利家当主の毛利輝元が入城したりもしている。

 戦乱の世が落ち着くと、はじめは小早川隆景の養子で裏切り者としても有名な小早川秀秋。関ケ原の戦い後には福島正則が入り、その後は広島藩浅野氏の所領となって幕末まで続く。浅野氏は一族の重臣を配置して三原を治めさせており、領地の東の守りの要だったのだろう。

 この頃から、三原の町は干拓を進めている。あまりに平坦地が少なく、田んぼを耕すにしても土地が足りなかった。だから、江戸時代を通じて海を埋め立てて、“新開地”を生み出していった。明治に入ってもそれは続き、大正時代ごろからは大規模な工場が進出するようになる。

 先駆けは1917年にやってきた三原ラミー紡績(のち東洋繊維を経て現在のトスコ)。1933年には帝国人造絹糸(現在の帝人)が沖合の広大な埋立地に工場を構えた。さらに、戦時中の1943年にはお隣の糸崎駅にかけての海沿いに三菱重工もやってくる。線路沿いという立地を活かし、蒸気機関車のD51などを製造していたらしい。

工場と人口が増えても「新幹線が乗り入れる予定はなかった」。ところが…

 こうして戦前から戦中にかけて、海と山に囲まれた小さな町・三原は埋立で得られた新地も活かして工業都市へと変貌してゆく。工場ができれば働く人も増えるわけで、人口は増加し旧西国街道沿いから駅周辺にかけて商業エリアも生まれる。こうしていまの三原の町が形作られた。新幹線ができるとなって、駅が設けられるのも必然の流れ……。

 と、言いたいところだが、実ははじめは三原には新幹線が乗り入れる予定はなかったという。

 もともと在来線の時代から、お城を貫かねばならないほど狭い平坦地。海を埋め立てて土地が広がったとはいえ、余裕があるわけではなかった。その上、駅の周囲は住宅や商店が密集している。そこに新幹線を通すとなれば、用地買収でそうとう手間取ってしまうと思われたのだ。

 だから、はじめの計画では、福山~三原間では尾道市内の在来線尾道駅とは離れた場所に新幹線駅を置く予定だった(いまの新尾道駅がそれである)。

 ところが、これに三原の人々が反発する。当時の三原市長らが中心となって駅設置の署名を集めたり、地権者たちに用地売却の同意を取り付けたり。もちろん三原の経済を支えてきた三菱重工や帝人といった大企業も一丸となって国鉄に陳情した。これが奏功し、新幹線三原駅の誕生が決まったのである。

 ちなみに、このときに三原城の石垣を削ることになるという問題に対し、文化庁は難色を示している。三原市や国鉄がなんとか文化庁を説得し、了承を得られたそうだ。何かと都市開発に対して批判が集まりがちな昨今だったら実現しなかったかもしれないが、ともあれこうして1975年に新幹線三原駅が開業した。

 新幹線駅は町の発展に拍車を掛け、1981年には駅前再開発にともなってペアシティ三原が生まれ、百貨店の天満屋が営業を開始している。まさに、右肩上がりの時代であった。

工場街でも新幹線の町でもない…「三原」のもうひとつの顔

 しかし、時代は徐々に右肩下がりへ。駅前から南の埋立地に向かう帝人通りは、その名の通り帝人の工場の面前に続く道筋だった。しかし、帝人の工場は徐々に縮小。

 いまでは帝人通りをまっすぐ南進すると、帝人の工場ではなく商業施設が並ぶ道につながっている。東洋繊維の工場は移転し、その跡地はイオン三原店。他にもいくつかの工場が、町の中心から姿を消した。

 それでも、いまも三菱重工の工場は現役バリバリだし、最近は観光客も増えているという。町を歩けば、駅やその周りの市街地の中に三原城の時代の痕跡があちこちに。駅北西の西国街道沿いを歩くと、ここにも三原の町が刻んできた歴史が香る。

 西国街道沿いにはお寺や神社も多く、古の“三原の中心”らしさは健在だ。そこに、近代以降の工業都市としての側面が加わる。駅の南、ビジネスホテルが建ち並び、脇には歓楽街の雰囲気が漂っているというのも、出張族が多い工業都市らしさといったところだろうか。

 そして、三原は瀬戸内の町である。駅前からプチ歓楽街の間を抜けて国道185号に出て、それを渡った先には三原港。瀬戸内の島々までの航路が出ている港である。

 新幹線で三原駅を降りてから、ほんの10分もあれば着く瀬戸内の港。三原港から正面南を見ても、埋立地が広がっているばかりで瀬戸内の島々は見えない。が、三原から南東にはいくつもの島々が浮かぶ。せっかくなので、三原港から船に乗って、沖合に浮かぶ小さな島のどこかに立ち寄ってみたいと思う。

写真=鼠入昌史

〈 瀬戸内の“ナゾの人口5人の島”「小佐木島」には何がある?〈新幹線駅から約30分、船は1日3~4本…〉 〉へ続く

(鼠入 昌史)

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