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「病気なんかじゃないでしょ」“最高のバディ”から180度の手の平返し…依存症の専門家が語る、日本人が水原一平に冷たいワケ

文春オンライン / 2024年6月27日 11時0分

「病気なんかじゃないでしょ」“最高のバディ”から180度の手の平返し…依存症の専門家が語る、日本人が水原一平に冷たいワケ

水原一平 ©時事通信社

 止まらない水原一平バッシング。「依存症は病気である」という認識はなぜ日本社会に浸透しないのか。

 依存症の第一人者・信田さよ子さんが、水原氏に関連した報道の背景を解説した連載「女性と依存症、そしてトラウマ」第4回より一部抜粋する( 『週刊文春WOMAN 2024夏号』 に全文掲載)。

◆ ◆ ◆

 少し時間が経ったが、なんといっても3月のビッグニュースはドジャース大谷翔平選手の元個人通訳・水原一平氏の野球賭博の事件だろう。メジャーリーグ戦が韓国で開催されるため、専用機で出発前に大谷翔平が真美子夫人と一緒に写った写真がインスタグラムに初めて投稿されたことも大きな話題になったが、それよりはるかにインパクトが大きかった。

 通訳として常に大谷と同行し、理想的バディのように持ち上げられていた水原氏が、多額の借金を抱えており、返済のために大谷の預金口座からお金を支払っていた理由が、彼のスポーツ賭博であったことがわかったからだ。

 私の頭の中ではすぐに、賭博=ギャンブル、つまり水原氏はギャンブル依存症という連想が働いた。その後の報道で、事件が発覚した日の試合後、彼はドジャースの選手仲間全員に対してこれまでのことを謝罪し今後仕事から外れることになると述べ、「僕はギャンブル依存症だ」と発言したことがわかった。

 ギャンブル依存症という言葉が世の中に広がったのは、国会でのIR推進法(統合型リゾート推進法案)をめぐる論戦において、反対派の議員が「カジノができるとギャンブル依存症が増える」ことを論拠にした時だ。しかし水原氏の一件の話題性はそれとは比較にならないほど大きく、ギャンブル依存症がメディアのトピックに躍り出た。

 捜査が進むうちに報道の論調はどんどん水原氏に対して厳しくなっていった。「あそこまでひどいことがなぜできる」という驚きもあるだろう。大谷翔平の口座から引き出した金額は一般庶民からは想像できないほどの巨額である。

 それを詐取していながら何喰わぬ顔で大谷の通訳をしていたこと、6年前には結婚しており妻をも騙していたことなどが強調されるようになった。メディアは無責任なもので、教科書の題材になるほどバディとして水原氏を持ち上げていたのに、とんでもない嘘つきへと扱いが180度変わったのである。それに伴って、精神科医による「ギャンブル依存症になるのは幼少期のトラウマが……」的な彼の生育環境の解説まで登場するに至った。

 さて、ここでは水原氏の事件の詳細を述べることが目的ではない。むしろ量刑が決まり、水原氏が司法制度でどのような処遇を受けるのか、その後彼がどう生きるのか、ギャンブル依存症からどのようにして回復するのかという未来について考えてみたい。

「病気なんかじゃないでしょ?」

 私が『依存症』(文春新書、2000年)を書いてから24年が過ぎたが、残念ながら日本における依存症理解は当時からほとんど変化していない。

 振り返ってみればもう50年以上も「アルコール依存症は病気です」と訴え続けてきた気がする。1970年代半ばまでは、慢性アルコール中毒が診断名だったからアル中と略されてもしかたがなかった。1977年に依存症という言葉が誕生したときに、これで「アル中」という偏見まみれの言葉が無くなり、依存症は病気であることが広がるだろうと期待した。

 それは甘かった。「ギャンブル依存症だ」とカムアウトした水原氏に対して、「彼も病気だったのか」と思う人は少なく、やっぱり依存症ってひどいやつなんだ、平気で人を騙すんだ、人間のクズだ、というのが一般的反応だったろう。大谷のイメージが上がれば上がるほど、巨額をだまし取った水原氏は、自らの行いをギャンブル依存症という病気のせいにする人間失格者だとされるのだ。

 このように、50年近く経っても依存症のイメージはほとんど変わっていない。それは残念で悲しいことである。

 アディクションの専門医がことあるごとにメディアで「依存症は病気だ」と発言してもそれがなかなか根付かないのは、何らかの理由があるからではないか。それはアディクションの「回復者」に対する日本社会の厳しさにもつながっているのではないか。

「本人よりまず家族を」の大原則

 依存症が家族を困らせ傷つけるというのは、援助者にとって常識である。したがって本人よりも周囲の家族をまず援助することが、結果的に本人を治療するための近道になる。1999年に私が著した『アディクションアプローチ』(医学書院)の中には、アディクション特有の援助論と方法が提示されている。そのひとつが「本人より家族を」である。

 アルコール依存症のイメージには飲んで暴れる姿が付いて回るが、飲み始めると止まらず意識がなくなる人もいる。失禁して居間で動けなくなった父親を家族でひきずって寝室に連れて行かなければならない。このような静かだけれど家族が困り果てる依存症もある。家族の中心である父親が役割機能を全く果たさないどころか、妻子は父親の飲酒しだいで地獄が訪れるかもしれないという恐怖や緊張にさいなまれるのだ。「家族は安心・安全の場」という子育てのうたい文句の正反対が、アルコール依存症の家族なのである。

 また、父親の飲酒問題は外部に漏れてはならない。酔っていないときの父親は総じてまじめなので、母は近所の人に知られないように隠し、子供も暗黙に「言うな」というタブーを感じとっている。子どもたちは幼いころから秘密を抱えながら生きることになる。

 家族(配偶者、子ども)をまず援助するのは、困り果てて「助けてほしい」という思いを抱えているからである。

※依存症治療の基本やや海外で「回復者」がどのように扱われているか、そして日本社会が「回復者」に理由について解説した全文は『 週刊文春WOMAN2024夏号 』でお読みください。

〈 「コントロールできない」ことが“病気の本体”と思われていたが…依存症の専門が語る、日本人の「水原一平への誤解」 〉へ続く

(信田 さよ子/週刊文春WOMAN 2024夏号)

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