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「経営戦略」はノルマンディー上陸作戦に学べ〈史上最大のロジスティクス計画に隠されたヒントとは?〉

文春オンライン / 2024年7月14日 6時0分

「経営戦略」はノルマンディー上陸作戦に学べ〈史上最大のロジスティクス計画に隠されたヒントとは?〉

山下裕貴氏 ©文藝春秋

第二次世界大戦において大きな転換点となったノルマンディー上陸作戦。この作戦は経営戦略の観点から見ても、現代人に大きな示唆を与えるものだという。元陸将の山下裕貴氏がその内実に迫った。

◆◆◆

史上最大のロジスティクス計画

 現在、世界中でスタートアップ企業が最先端技術分野などで目覚しい成長を遂げている。スタートアップの特徴は、革新的なイノベーションの実現、圧倒的な成長力、短期間に成功するための「戦略」である。我が国でも先端半導体分野などでスタートアップ企業が徐々に力を付けてきている。スタートアップ企業だけではない。既存の企業もまた生き残りをかけて様々な分野に挑戦している。これらの企業間の競争は、今後も激しくなるばかりだが、その競争に勝ち残るためにはどのような「戦略」が必要なのか。

 そのヒントを与えてくれるものの一つに、国家の生存をかけた究極のプロジェクトである「戦争計画」がある。「企業戦略」や「経営戦略」の分野で、日常的に「ロジスティクス」という用語が使用されているが、この用語の原義は、軍事用語の「兵站」だ。今からちょうど80年前、史上最大の「大規模兵站計画(ロジスティクス)」が策定・実行された。第二次世界大戦の欧州での戦闘を終結に導いた「ノルマンディー上陸作戦」だ。

 この大規模作戦は、近年、「経営戦略」の観点からも注目され、研究されている。「組織の在り方」「適材適所の人事」「ロジスティクスの重要性」「困難な課題の克服」……など、多岐にわたって事前に緻密に組み上げられ、さらに計画の実行においては「想定外の事態への対処」も迫られた「大事業計画」だったからだ。現代の我々にも多くの教訓を与えてくれている。

 ノルマンディー上陸作戦とは、どのような作戦だったのか。今日の「経営戦略」のヒントにもなり得るエピソードを中心に振り返ってみたい。

限られたチャンスを逃さない

 1944年6月4日21時、ロンドンの連合国遠征軍最高司令部では、司令官のアイゼンハワー米陸軍大将以下の各指揮官が集まり、作戦会議が行われた。この日、ドーバー海峡及びフランス北部を暴風雨が襲っていた。気象予報官の報告では、6月5日から7日までの3日間は天候が回復するが、その後は悪天候になる。それ以降、気象条件が良くなるのは7月中旬まで待たなければならない。参加者全員が最高司令官の決断を待っていた。

 アイゼンハワーは目を閉じ、暫く沈黙した後に目を開いて静かにいった。

「私は決断を好まない。しかし、決断しなければならない。では諸君、前に進もう!」

 6月6日午前6時30分、激しい艦砲射撃や空爆の後に、約5000隻の艦船に乗り込んだ米英軍を主力とする約18万人の兵士達がノルマンディー海岸に上陸を開始した。

 海岸は、西からユタ、オマハ、ゴールド、ジュノー、ソードと名付けられ、ユタ海岸には米第4歩兵師団、オマハ海岸には米第1歩兵師団(同師団指揮下の第29歩兵師団を含む)、ゴールド海岸には英第50歩兵師団、ジュノー海岸にはカナダ第3歩兵師団、ソード海岸には英第3歩兵師団が上陸した。

 オマハ海岸に上陸した部隊は、防御するドイツ第352歩兵師団の主防御正面にあたり、米軍兵士はドイツ軍の猛火を浴び次々と斃れた。海岸には戦死者が累々と積み重なり、砂は血により赤く染まり、後に「血染めの海岸」とよばれるようになった。その他の上陸海岸では、小規模なドイツ軍の抵抗や反撃を排除して概ね予定通り上陸を完了し、後続部隊のための橋頭堡を確保した。オマハ海岸も大きな犠牲を出したが、夕方までには海岸地域の確保に成功した。

 上陸作戦開始前夜には、米第82及び第101空挺師団並びに英第6空挺師団の3個師団約2万人による空からの「降下作戦」が行われた。この作戦の目的は、後方地域の橋梁確保、砲台の占領、ドイツ軍増援部隊の阻止などである。同作戦では、降下地域の間違い、広域分散などのミスが発生したが、概ね所期の目的を達成した。

 上陸開始から24時間で連合軍側に発生した戦死傷者の数は、米軍が約6000人、英軍が約3000人、カナダ軍が約1000人であった。一方のドイツ軍側は、はっきりとした数は分からないが、生存者からの聞き取りによれば約4000人から9000人といわれている。

 連合軍のヨーロッパ反攻作戦は「オーバーロード作戦」とよばれ、ノルマンディー上陸作戦の開始日は「Dデイ」として永遠に記憶されることになる。

「作戦」の「究極の目的」

 これに先立つ1943年11月28日、イランの首都テヘランで、ルーズベルト、チャーチル、スターリンの3国の首脳による初めての首脳会談が開かれた。

 当時のソ連は、ドイツ軍の奇襲から立ち直り、モスクワ正面でドイツ軍を押し返すことに成功していた。しかしながら、まだヨーロッパの大半はドイツの占領下にあった。ソ連側は、ヨーロッパにおいてドイツ軍と戦っているのは自軍のみで、できるだけ早く西ヨーロッパ正面で第2戦線を開くように強く要望した。

 席上、チャーチルは「バルカン作戦」(ユーゴスラヴィア正面への上陸)を主張したが、スターリンは実現性がないと反対し、ルーズベルトは補給線の維持から難色を示した。

 さらにルーズベルトは、このまま英仏が西側から押し返さず、ソ連軍が単独勝利すれば、「ソ連によるヨーロッパ支配」が完成してしまうとの思惑からチャーチルの意見に反対した。この結果、北フランスへの進攻作戦――ノルマンディー上陸作戦――が決定されることになったのである。その意味で、ノルマンディー上陸作戦の究極の目的は、「ソ連による欧州支配を阻止すること」にあったと言える。

 作戦実行にあたって、連合国遠征軍最高司令官アイゼンハワー米陸軍大将は、兵力300万、艦船6000隻、航空機1万4000機を有する大兵力を指揮することになった。その兵力組成は、米英を基幹とする連合軍であり、また陸海空三軍の統合軍でもあった。

「連合軍」というものは、各国の主張や軍種間の協調や統制など多くの問題があり、一元指揮が難しいとされている。アイゼンハワーという若い軍人(当時53歳)が300万人という陸海空の寄せ集めの大軍を、果たしていかに統率できたのだろうか。

 アイゼンハワーがフィリピン勤務の経験を買われて、「陸軍参謀本部戦争計画局次長」に補され、初めて参謀総長のマーシャルの下に来たのは、1941年12月14日。真珠湾攻撃から6日目の朝であった。

 マーシャルは、「太平洋艦隊は壊滅、空軍も大損害を受け、フィリピンの米軍も劣勢であり補給も困難である。我が軍はいかに戦うべきか」と質問した。

 アイゼンハワーは、時間の猶予をもらうと自室で検討し、暫くして参謀総長室にもどると「我々が大規模に反撃するには時間がかかります。それまでフィリピン駐屯軍は耐えることが出来ないかもしれない。しかし、我々は必ず勝利します。そのためにはオーストラリアを基地として準備しなければなりません」と意見を述べた。

 マーシャルは「私は君の意見に賛成だ。ベストを尽くせ」と一言いった。その日から参謀アイゼンハワーの不眠不休の活躍が始まった。

「適材適所」の人事

 その後、アイゼンハワーは、1942年3月に新設された「参謀本部作戦部長」に任命され、少将に昇任する。1942年5月、北アフリカ上陸作戦について英国側との調整のため出張していたアイゼンハワーが帰国すると、すぐにマーシャルは上陸作戦について質問し、細かな説明を聞き終えると「貴官が作った作戦を、貴官が実行せよ」と命じた。

 1942年6月、アイゼンハワーは、「欧州戦域連合軍司令官」に任じられ、ロンドンに派遣される。そしてまもなくオーバーロード作戦を指揮する「連合国遠征軍最高司令官」に抜擢される。これはマーシャルの推薦が大きかった。

 最高司令官をとりまく諸将の顔ぶれはどうだったか。

 直接補佐する最高司令部には、「副司令官」としてテッダー英空軍大将、「総参謀長」としてスミス米陸軍中将、スミスを補佐する「総参謀副長」としてモーガン英陸軍中将。頭脳明晰、実行力に定評のある幕僚達が大計画をまとめ上げることになった。

 アイゼンハワーは、「司令官と参謀長との関係は人と人のつながりであって、私とスミスの関係は完璧に近く、この作戦の成否はこのコンビにある」としてスミス中将を要望したといわれている。

 アイゼンハワーは、スミスを評して「問題の大綱をつかむとともに、あらゆる細部にも通じていた。強い性格、鋭いカンを持ち、調和をもたらす」といっており、この辺に「参謀長」(事業計画の立案補佐者)として必要とされる資質があるのだろう。

「作戦部隊指揮官」として、「地上軍司令官」には、頑固だが戦略眼に長けた英陸軍最長老のモントゴメリー英陸軍大将、「海軍総司令官」にはラムゼー英海軍大将、「空軍司令官」にはマロリー英空軍大将、そしてアイゼンハワーの最も信頼する部下であるブラッドレー米陸軍中将は「米軍地上部隊指揮官」として配置された。

 一方、当時のドイツ軍は東部戦線において、ソ連軍と死闘を繰り広げており、絶望的な戦いの中で着実に敗北の道を歩んでいた。

 米英連合軍を迎え撃つドイツ西方総軍は、「司令官」にルントシュテット元帥、隷下に2個軍集団及び1個装甲集団の総兵力58個師団約95万人を擁していた。

 隷下の軍集団には、「B軍集団司令官」にロンメル元帥、「G軍集団司令官」にブラスコビッツ上級大将、「装甲集団司令官」にシュベッペンブルク大将の各将軍が配置されていた。いずれの将官も歴戦の勇士であり、名将達ばかりだった。

本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています(「 80周年 ノルマンディー上陸作戦に学ぶ経営戦略 」)。

(山下 裕貴/文藝春秋 2024年7月号)

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