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「オレはバカじゃないか」余命は短くて10年…経済評論家・岸博幸が振り返る、がんを宣告された日の医師との“押し問答”

文春オンライン / 2024年6月29日 6時0分

「オレはバカじゃないか」余命は短くて10年…経済評論家・岸博幸が振り返る、がんを宣告された日の医師との“押し問答”

岸博幸さん ©杉田裕一

『全力!脱力タイムズ』など数々のバラエティ番組に出演していることでもお馴染みの、経済評論家・岸博幸さん。現在も出演を続けているが、実は2023年にがんと診断され、余命と向き合うことになったという。

 ここでは、岸さんが“最期に言いたいこと”をまとめた『 余命10年 多発性骨髄腫になって、やめたこと・始めたこと。 』(幻冬舎)より一部を抜粋して紹介。多忙を極める中で病気を宣告されたときの複雑な感情、そして入院をめぐって主治医と「バトル」になった理由とは――。(全3回の1回目/ 続きを読む )

◆◆◆

2023年1月20日、がんを告知された

 2023年1月20日、僕はとある大学病院血液内科の診察室にいた。そこで、のちに僕の主治医となる先生から、初対面の挨拶も早々にこんな言葉を告げられた。

「岸さんは多発性骨髄腫に罹患されています」

 前年の夏頃から非常に疲れやすくなっていたのだが、ちょうど還暦を迎えたこともあり、当初は「年のせいだろう」と、あまり気にしていなかった。だけど、妻や知人からは「顔色が悪い」「顔が土気色だ」と言われるし、どうも様子がおかしい。

 そんな時に知人から良い人間ドック専門クリニックがあると聞き、たまたまスケジュールが空いていた日程で、運よく予約がとれた。それで、約5年ぶりに人間ドックを受診したのだけど、初日の検査終了後、クリニックの院長に、すぐに血液内科の専門医を受診するようにと言われてしまった。血液検査で異常なレベルの数値が出て、血液疾患の疑いがあるとのことだった。

 その場で、東京都内で評判の良い血液内科の病院への紹介状を書いてもらい、予約の電話を入れた。それがこの日、1月20日だった。

 ちなみに、クリニックの院長に紹介されたドクターは血液内科では有名な先生とのことだったので、予約をとれても1ヵ月先くらいかと思っていたが、わずか10日後、しかも、僕の予定も空いているこの日に予約がとれたのは、とてもラッキーだった。

 もっとも、病院で告げられた病名は、ラッキーとは程遠いものだった。

 多発性骨髄腫。耳慣れない病名ではあったものの、骨髄腫という名称からがんの一種だろうと推測はできた。もちろん、それを聞いてかなりショックではあったが、同時に納得感みたいなものも心に去来した。

「なんだ、疲れやすかったり顔色が悪かったりしたのは、年のせいじゃなくて病気だったからなのか」と、腑に落ちたのだ。

 こう見えて僕は子供の頃から丈夫で、60歳になるまで、これといった大病をしたことがない。それどころか、ロッククライミングに40歳頃まで熱中していてハードなトレーニングを続けていたし、50歳頃からは、仕事で関わるようになった総合格闘技の影響でキックボクシングまで始めたので、体力に関しては、同年代の誰にも負けない自信があった。

 だから、去年の夏頃から、地方でのテレビ出演や講演を終え、帰りの新幹線や飛行機に乗るや否や寝落ちしてしまったりと、それまでとは違う自分に対して、「年には勝てないのか」と感じていた。

 テレビ出演や講演は、たとえ短時間でも、ものすごい集中力が必要である。だから、60歳になった自分が疲れてしまうのも当然のことかもしれない。そう思いつつも、戸惑いを抱いていたのだ。そんな時に、「年のせい」ではなく「病気のせい」だったことがわかり、なんだかすっきりしたのだ。

 その5日後、あらためて骨髄穿刺(骨髄穿刺針を用いて骨に穴をあけて、中の骨髄液を注射器で吸引する検査法。これが壮絶に痛い!)で骨髄を調べた結果、僕の病気は、多発性骨髄腫であることが確定した。

男性の罹患率は10万人に6.6人という「多発性骨髄腫」とは

 ここで多発性骨髄腫という病気について、少し説明をしておこう。

 多発性骨髄腫は、血液中に存在し、免疫を司っている形質細胞が悪性化する血液のがんの一種で、男性の罹患率は10万人に6.6人とされる珍しい疾患だ。初期には自覚症状がほとんど出ないため、血液検査などで見つかることが少なくないという。病状が進むと、腎臓の機能低下や貧血などが起こり、貧血が進行すると、動悸や息切れ、めまい、全身倦怠感などの症状が出てくるらしい。

 また、骨髄腫細胞は、骨を壊す細胞を活性化するだけでなく、骨を再生する細胞の働きも抑えてしまうため、結果的に骨がもろくなり、骨折しやすいのだとか。実際、僕は、この病気が発覚する前にスキーで派手に転んでしまい、以来ずっと胸の骨に激しい痛みを感じていたのだが、入院後の検査で骨にヒビが入っていることが判明。今思えば、あの頃すでに多発性骨髄腫を発症していたのだろう。

 主治医から、「出張の帰りに寝込んでしまうのは、ひどい貧血が起きていたからです」と説明された。自覚はまったくなかったものの、どうやら病状はすでに進行していたらしい。

 ちなみに多発性骨髄腫は、治癒することが難しい疾患でもある。だから治療の目的は、完治ではなく病気との共存になるようだ。僕は一生この病気とつきあいながら、普通の生活を送ることを目指していく。

 幸い現在はさまざまな治療法が確立されていて、主治医いわく、僕の年齢なら、そうした治療を施せば、あと10年や15年は大丈夫だろうとのことであった。動揺していたこともあり、あえてその言葉の意味を詰めなかったが、つまり短く見積もって余命10年~15年ということなのだろう。僕は、自分なりにそう理解した。

 病名を告げられた時、僕は60歳だったから、残りの人生は70歳、長くても70代半ばくらいまでになる。

 こんな風にして僕は、唐突に自分の人生の残り時間を突きつけられてしまったのだ。

入院時期をめぐって主治医とバトル

 体調の悪さが病気のせいだとわかったこと、その病気に対する治療法が確立されているということ、治療すればあと10年から15年は生きられるということ。主治医の説明は丁寧でわかりやすかった。

 ただ、主治医から「血液数値が異常なレベルなので、今日から入院してもらい、治療を開始したい」と言われた時は困った。

 すでに翌月(2月)は、休みがないくらいに仕事のスケジュールが埋まっていた。特にテレビや講演などは、かなり前から予定が組まれるので、直前キャンセルとなれば、多方面に迷惑がかかる。それは、仕事人間の僕としては本意ではない。

 ただし、1ヵ月後の3月以降のスケジュールであれば、調整可能かもしれない。そこで、「入院は1ヵ月待ってほしい」と訴えたのだが、主治医も、「不整脈を起こしたら死んでしまうかもしれないのだから、一刻も早く治療を始めるべき」と言って譲らない。

 ちなみに、多発性骨髄腫の状態は、血液中の免疫グロブリンの値で判断するようだが、そのうち免疫グロブリンGを例にとると、その基準値は上限が1747で下限が861であるのに対して、僕は10145というかなり異常な数値だったので、主治医がこう言うのも無理はなかった。

 それから、「今日にでも入院を」「1ヵ月後じゃないとムリ」と、押し問答が始まったが、「オレはバカじゃないか」と内心思っていた。だって、その道の第一人者から「今すぐ治療を始めないと命を落とす危険がある」と言われているのに、治療を後回しにし、仕事を優先しようとしているのだから。

 仕事を引き受けたからには責任があるとか、自分の仕事に対するプライドだとか、もっともらしい理由はいくらでも言える。でも、そんな“屁理屈”を並べて、仕事を優先した結果、命を落としてしまったら、単なる大バカ者だ。

 でもまぁ、この時に感じた「自分はとことんバカだ」という反省が、その後の自分なりの悟りにつながるのだが……。

 最終的に、「2月中は、通院で容体を監視しながら治療を始める」「水分と栄養と睡眠時間をたっぷり摂る」ことを条件に、主治医には3月入院を認めてもらった。

 今思い返しても、一番大変で、ストレスフルだったのは入院までの1ヵ月だった。週に1回は注射と体調チェックのために病院に行き、毎日多量の薬を服用し、生活習慣も改めた。それまでの僕は不摂生の典型で、食事は1日1回かせいぜい2回で、水分もあまり摂らなかったけれど、朝昼晩と食べるようにし、水分も頻繁に摂るようにした。睡眠時間も1日4~5時間だったのが、最低でも6~7時間は眠るように心がけた。

 そうした生活を送りつつ、いつ、どこで不整脈を起こしてもおかしくないのだと内心常に恐れながら、日帰りの地方出張を繰り返す。そんな精神的に余裕がない状況が、約1ヵ月続いた。

〈 「頭を洗うと、ごっそり抜ける」抗がん剤の副作用でスキンヘッドに…落ち込む岸博幸を救ったのは“やしきたかじんの妻”の言葉だった 〉へ続く

(岸 博幸/Webオリジナル(外部転載))

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