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「ここまで徹底した気配りをするのか」安倍晋三、竹下登、野中広務…中国と対峙した大物政治家の“凄み”《ベテラン外交官が語る》

文春オンライン / 2024年7月25日 6時0分

「ここまで徹底した気配りをするのか」安倍晋三、竹下登、野中広務…中国と対峙した大物政治家の“凄み”《ベテラン外交官が語る》

安倍晋三元首相 ©文藝春秋

前中国大使の垂秀夫氏が、日本の政治家とのエピソードを振り返る。(聞き手 城山英巳・北海道大学大学院教授)

◆◆◆

安倍元首相との最後の面会

 2020年9月16日、菅義偉内閣が発足したこの日、私は永田町・議員会館の事務所で、安倍晋三前総理と向き合っていました。同年11月に駐中国大使として北京に赴任する前の挨拶に伺ったのです。

 30分弱の面会ではありましたが、安倍さんは「垂大使のように中国と台湾の両方を知っている人に大使になっていただき、非常に嬉しい」と言ってくれ、習近平国家主席と李克強国務院総理との本当の関係など中国内政についても尋ねられました。一方で、大半を占めたのが台湾に関する話題でした。面会の冒頭、安倍さんはこう切り出しました。

「その節は、母が大変お世話になりました」

 16年6月、アジア大洋州局審議官だった私は、安倍洋子さんが台湾を訪れた際に随行しました。

 この訪台に繋がったのは、前年10月に北京の天安門広場の横にある国家大劇院で行われたNHK交響楽団の公演です。自民党の二階俊博総務会長が尽力して実現したもので、二階さんが観覧したほか、中国側からは劉延東国務院副総理も出席しました。この公演では、私も二階さんのお供で会場にいましたが、とても素晴らしい演奏でした。

 翌年、今度は台湾で公演をすることになりました。これは1972年の日台断交後初めてのこと。北京公演では中国の副総理が出席しましたから、私は、台湾では蔡英文総統を招こうと秘かに考えました。

 当時は安倍政権。祖父の岸信介元総理は現職総理だった1957年に台湾を訪問しています。そこで、安倍さんの弟である岸信夫衆院議員と蔡氏を招待するアイデアについて相談し、「安倍家か岸家から、どなたかご出席頂けないでしょうか」と打診していたのです。

 それと同時に台湾側には「蔡総統が出席すれば、日本側も相応の人物が出ます」と伝えておくと、蔡氏側からは出席するとの返事。改めて信夫さんに「蔡総統が来るので、ぜひご検討を」とお願いすると、「総理と相談する」と言ってくれました。女性同士という意味で、私は昭恵夫人が適役ではないかと考えていたのですが、信夫さんからの返事はなんと、お母様の洋子さんでした。

 総力を挙げたのが安倍事務所です。秘書が総出で準備に取り掛かり、要人へのお土産選びも、逐一私とも連絡を取って決めました。N響の公演だけでなく、岸元総理が訪台した際に蒋介石総統と会談した台北市内の士林官邸や台北賓館も訪問。洋子さんは凜とされた方で、お父様を懐かしむように、ゆかりの地を回る姿がとても印象に残っています。

 安倍さんはこの時のことを覚えていて、わざわざお礼を言ってくださったのです。結果的に、安倍さんにお目にかかったのは、これが最後になりました。一時帰国の際の22年7月12日に面会のアポを取っていましたが、その4日前に凶弾に倒れてしまいました。大使着任前の挨拶で、ニコニコとした表情で気遣ってくれた姿は今でも忘れられません。

竹下登から届いたお礼状

 〈垂秀夫氏(63)は40年弱の外交官生活で、歴代の外相だけでなく、安倍元総理や菅前総理、二階元幹事長ら数多くの政治家の外交をサポートしてきた。連載の第6回では、彼らの知られざる素顔について明かす。〉

 外務省での初仕事は、1985年に中曽根康弘総理が主催した中国青年訪日団の受け入れパーティの手伝いでした。私は外務省入省1年目で、まだ研修中の身でした。

 南京大学に留学中の87年1月には、自民党幹事長だった竹下登氏が訪中し、最高指導者の鄧小平と会談。竹下さんが上海を訪れた際は、在上海総領事館からお呼びがかかり、私も南京から応援に駆け付けました。まだ若手でしたから竹下さんのそばにいることはほとんどなかったのに、後に留学生宿舎に竹下さんから「大変お世話になりました」と、丁寧なお礼状が届いた。ここまで徹底した気配りをするのかと驚かされたものです。

 留学時代は、87年6月に北京で開かれた日中閣僚会議の手伝いもしました。日本側団長は外相の倉成正さんでしたが、中国が重視したのはポスト中曽根の一人とみられた宮澤喜一蔵相です。私は大蔵省チームに配属され、肩から下げる大きな無線機を持ち、後ろから宮澤さんに付いて回った。宮澤さんも気配りの方で、帰国日に身内の慰労会を開き、大蔵省の職員ばかりのその会に「君も入りなさい」と招いてくれたのです。

野中広務が築いたパイプ

 野中広務元官房長官には若手時代から可愛がってもらい、08年に中国課長に就任した後も、半年に1回は平河町にある砂防会館の事務所を訪ねました。親しくなったきっかけは98年5月、幹事長代理だった野中さんの訪中。私は大使館一等書記官で、北京から南京、上海までずっと随行しました。

 野中さんは訪中に当たり、中国側に二つの条件を示しました。一つは後に国家副主席となる曾慶紅共産党中央弁公庁主任との面会です。曾氏は江沢民国家主席の腹心ですが、当時はそれほど知られた存在ではなかった。私は早い段階で彼の重要性を外務本省に報告していましたが、まだ、日本で親しい要人はいませんでした。野中さんはそこに目を付けたのでしょう。

 2人の会談は、釣魚台迎賓館で実現しました。歓迎宴の場で、私は曾氏の秘書官の隣に座りましたが、彼が簡単な日本語を話せるのを知って驚きました。野中氏と曾氏は、肝が据わっていてリスクを取るタイプ。トップではないけれど、実力は認められていました。そんな共通点から、お互い認め合っていたのでしょう。曾氏の相手は野中さんにしか務まらず、後に二階さんや古賀誠元幹事長らにパイプを引き継ごうとしましたが、うまくいきませんでした。野中さんの政界引退後には、曾氏から2人の思い出の写真をまとめたアルバムが贈られ、喜んでいました。

 2人がパイプを築いていた意味は大きく、後の小泉純一郎政権時代は総理の靖国神社参拝問題のため、ほとんど首脳会談が行われませんでしたが、曾氏に連なるある人脈を通じて水面下での意思疎通はできていた。この人脈は私が開拓し、後に宮本雄二駐中国公使(後の大使)が強化されたものです。

 98年の訪中で野中さんが求めたもう一つの条件は、南京大虐殺記念館の訪問でした。中国側は大歓迎でしたが、結果として野中さんには不満の残るものとなったようです。

 私が中国課長になった後、野中さんは「記念館に行くと、頭を下げさせて後ろから撮られるから、日本の政治家が誰も訪問しなくなるんだ」とこぼしていました。記念館では〈遭難者300000〉と大きく書かれた壁の前に献花台が置かれ、日本の要人が訪れると、頭を下げる姿を後ろから撮影するのが恒例です。これには、さすがの野中さんも閉口したのでしょう。

 あの頃、中国側が高く評価していたのが小渕恵三総理です。98年11月、江沢民国家主席が訪日し、首脳会談が行われました。ところが、この時に発表された日中共同宣言に小渕さんが「謝罪」を入れることを拒否したため、江沢民は滞在中に何度も、日本の侵略の歴史に言及しました。このため、この訪日自体は失敗だったと広く思われています。

 ただ中国側は、小渕さんが首脳会談で、当時の中国の国際情勢認識に合致するような、冷戦後における多極化した国際情勢について言及したと認識しました。これが中国国内で高く評価されたのです。

 翌年7月、今度は小渕さんが訪中すると、中南海の瀛台(えいだい)で江沢民と会談。ここは本当に重要な海外の要人を接遇する時に使われる施設です。しかも江沢民はこの時、一転して歴史問題をほとんど取り上げなかった。厳しい姿勢を予想していたメディアは肩透かしを食らいました。この訪中では、通称「小渕基金」と呼ばれる、100億円の日中緑化交流基金の創設も決定し、両国の交流が深まったのです。

本記事の全文は、「文藝春秋 電子版」に掲載されている( 垂秀夫「二階俊博元自民党幹事長のすごい人心掌握術」 )。

(垂 秀夫/文藝春秋 2024年7月号)

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