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学者も仰天! ボロボロの木箱から出てきた「藤原定家の直筆本」のナゾ《冷泉家当主が解説》

文春オンライン / 2024年7月24日 6時0分

学者も仰天! ボロボロの木箱から出てきた「藤原定家の直筆本」のナゾ《冷泉家当主が解説》

冷泉為人氏 ©文藝春秋

代々宮中で歌学を教えてきた冷泉家。この“歌の名家”に伝わる木箱が、明治以来、初めて開けられれると、藤原定家の直筆本が見つかった。存在しないと思われていた“幻の書”の発見に、調査を担う学者チームが大興奮。冷泉家25代当主の冷泉為人さんが、800年の時を超えた大発見の意義について 解説 する。

◆◆◆

 冷泉家に伝わる、その箱の存在は知られてはいました。

 明治29(1896)年を最後に一度も開けられることすらなくひっそりと受け継がれてきたもの──私もただ畏れ多く開けずに守ってきたのです。

 昭和55(1980)年から順に蔵書全体を調査するなかで、およそ130年ぶりにその箱を開けることになったものの、すでに貴重な文書は数多く発見されていましたし、もうあまり大したものは入っていないだろうと思っていました。ですから、調査を担当する学者チームから藤原定家直筆の『顕注密勘』が発見された、との一報を受けたときには仰天しました。発見した先生方も「国宝級のものがまだ眠っていたとは」と興奮冷めやらぬ様子でした。

〈国宝級の大発見について、こう語る冷泉為人氏は冷泉家の第25代当主。冷泉家は「歌聖」と仰がれた藤原俊成、定家父子を遠祖とし、800年の歴史を持つ。代々宮中で和歌を教えてきた家として知られ、貴重な文書を数多く守ってきた冷泉家の蔵は「文書の正倉院」とも呼ばれている。冷泉氏はその文書を保存、継承する「冷泉家時雨亭文庫」(京都市)の理事長も務めている。〉

『顕注密勘』が収められていたのは、縦約35センチ、横約50センチ、高さ約55センチの箱でした。上等な塗りの箱でもなく、ボロボロの木箱です。

『顕注密勘』は日本最初の勅撰和歌集『古今和歌集』の注釈書で、歌僧の顕昭(けんしょう)による注釈に定家が自説を付け加えたものです。和歌研究のみならず国文学研究においても欠かせない書物であり、いくつもの写本が残されているのですが、原本は失われたとされていました。

一代に一度だけ開けられていた

 実は、この箱が定期的に開けられていた時代もありました。当主が代替わりするごとに一度だけ開け、収められた書物を丹念に読み込んで冷泉家に伝わる歌学を継承していたのです。

 なかでも『古今集』の解釈を継承することを「古今伝授」といいますが、父から一人の子のみへ口頭で伝えられる「一子相伝」の形式が取られてきたため、一代に一度、その箱を開けることは大変な吉事とされました。伝授が終わると盛大な歌会を催し、記念に「寿像」と呼ばれる御影(みえい、肖像画)を描かせたほどです。伝授を受けた当主は、自身の勉強の成果を記した、いわゆる「勉強ノート」を新たに箱に収め、後世へと伝えてきました。

 だからこそ、この箱を開けることにはとりわけ細心の注意が払われます。着手することになったのは令和4(2022)年10月3日。氏神様の神官に来ていただいて神事を行い、和歌の神々と祖先に箱を開けることへの許しを請いました。

 冷泉家では、何か大切な事を成す際に、「神降ろし」、「神上げ」の儀式を行います。今回も調査に当たる者は口をすすぎ、手を洗い清めてから箱や書物に触れることになりました。

 いざ開けてみると、中には冊子類60冊と古文書類58点とかなりの数の文書・典籍類が入っていました。文書だけでなく、先ほど述べたように行間に細かな文字がびっしり書き込まれた歴代当主の勉強ノートも収められています。

 一点一点、丁寧に調べるには時間がかかりましたが、多くの有識者の方々のご意見を伺い、綿密な学術的検証を経て、今年4月に藤原定家自筆の『顕注密勘』が発見されたことを発表するに至りました。

「定家さんのお陰で……」

 今回の調査では、箱に収められていた上中下3巻のうち中下巻が、定家の自筆によるものだと確認されました。定家が生きた平安時代後期から鎌倉時代初期の紙が使われ、さらに下巻の最後には、独自の癖のある字で記名がなされていることから、自筆原本に間違いないと結論づけられたのです。写本には残されなかった書き込みや推敲の跡は、定家の思考を研究するための貴重な手がかりになります。

 ところで、その字体は現在に至るまで「定家様(ていかよう)」と呼ばれ、親しまれていますが、定家がこの字体に至ったのは、写本を多く作るために速く正確に書く必要があったからだと考えられています。リズミカルに速く書くことで起筆が自然に省略され、かなの連綿も少なくなり、さらに線の太さに緩急がつくようになっています。

 関西大学教授だった片桐洋一先生は、あるとき私にしみじみとこうおっしゃいました。

「定家さんが存在し、古典の書写活動を盛んにやってくださったお陰で、現代の日本の古典文学が成立しているのです」

 この言葉は今も私の脳裏に強烈に焼き付いています。

『古今集』はもちろんのこと、『更級日記』や『伊勢物語』、『源氏物語』『後撰和歌集』『拾遺和歌集』なども、おおむね定家が書写した本が底本となっています。裏を返せば、彼が精力的に書写をしてくれていなければ、これらの作品が現在にまで読み継がれることはなかったかもしれません。

 定家は、現在わかっているだけで16回も『古今集』の書写をしています。『顕注密勘』には、行間に解釈の書き込みがなされ、貼紙による追記、擦り消しによる訂正が施され、勘物(かんもつ、文中の文字、語句、文章を原文と照らし合わせ、注記したもの)も書き込まれています。それらは定家が『古今集』についての考えを深めていった生々しい痕跡です。今回の発見により、私たちは定家が『古今集』をどのように解釈し、その歌の伝統をどう受け継ごうとしていたのかにさらに迫ることができるでしょう。

本記事の全文は、「文藝春秋」2024年7月号と「 文藝春秋 電子版 」に掲載されています(冷泉為人「 直筆の藤原定家に仰天した 」)

 

全文 では、冷泉家25代当主の冷泉為人さんが、発見された『顕注密勘』が定家直筆であると証明された理由、婿養子として冷泉家に入って感じていた不安や重圧をはらってくれた俊成の書などについても語っています。

(冷泉 為人/文藝春秋 2024年7月号)

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