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「宏之をクビにしろ」ロッテの“カリスマ創業者”が、後継者の息子をいきなり追放…日本有数の大企業で“内紛”が勃発したワケ

文春オンライン / 2024年7月4日 6時0分

「宏之をクビにしろ」ロッテの“カリスマ創業者”が、後継者の息子をいきなり追放…日本有数の大企業で“内紛”が勃発したワケ

写真はイメージです ©MIKI_Photography/イメージマート

 日本が誇る大企業を築き上げた「創業社長」には、どこか共通するカリスマ性がある。しかし、創業社長のカリスマ性が大きければ大きいほど、その去り際、そして去ったあとには、経営権を巡って内紛が起きる。

 日本と韓国にまたがる異形の財閥、ロッテグループも“お家騒動”を経験した企業のひとつだ。創業者の重光武雄は、長男・宏之に事業承継を行う予定だったが、失敗。二男の昭夫が、創業者の父と兄を放逐してロッテグループの経営権を奪取した。

 ロッテグループでは、経営権を巡ってどんな内紛が起きていたのか。ここでは、高橋篤史氏の著書 『亀裂 創業家の悲劇』 (講談社)より一部を抜粋して紹介する。(全2回の1回目/ 2回目に続く )

◆◆◆  

後継体制作りに手をつけた重光武雄

 2009年7月、カリスマ経営者として創業以来半世紀以上にわたって超然たる存在であり続けた重光武雄は、米寿を間近に控え、ようやく後継体制作りに手をつけた。日韓ロッテグループの要であるロッテホールディングスの社長職を譲り、会長に回ったのである。後任社長として白羽の矢を立てたのは住友銀行出身で関西の名門ロイヤルホテルの社長を務めていた佃孝之(つくだたかゆき)だった。

 この時、重光は副会長ポストを設け、宏之と昭夫にそれぞれ与えている。菓子事業を柱とする日本ロッテは宏之が、ホテルや百貨店、化学へと幅広く展開し日本をはるかに上回る規模となった韓国ロッテは昭夫が、それぞれ責任者を務める形だ。息子ふたりの体制へと繋ぐための、佃はいわば中継ぎ役だった。

 これにより重光武雄自らが日韓を往復して現場を直接指揮するような場面はなくなっていく。2011年頃には日本を離れ、韓国ソウルの「ロッテホテル」34階に置かれた執務室兼居室にほぼ籠もりきりとなった。佃や宏之、昭夫といった日韓の幹部はかわるがわるそこを訪れ経営報告を行うのが決まりだった。それから約3年、安泰と思われていた日韓ロッテグループに激震が走ることとなる。

辞任を求められた宏之

 2014年12月26日、ロッテホールディングスは西新宿の本社ビルで取締役会を開いた。会議室に顔を揃えたのは佃、宏之をはじめ6人の取締役。すべて日本人だ。韓国ロッテの代表は昭夫だけで、ソウルから電話で参加した。武雄は欠席である。

 じつは、4日前にも取締役会は開かれていた。その場で宏之は佃らから強く辞任を求められていた。宏之肝いりで3年前に始めた販売情報システムの開発が頓挫し、数億円の損失が出そうなことが理由だった。

 確かに、棚割の違いによる売れ筋を把握しようと許可なく店頭で写真を撮影するという法的に問題含みのシステムの失敗は宏之の不手際だ。ただ、損失額が辞任に相当するほどのものかというとそうとも思われない。創業家出身の役員であればなおさらで、宏之が辞任要求に納得しなかったのは当然だった。

「はい、それでは株式会社ロッテホールディングスの取締役会をこれから開催いたします」

 議長の佃はそう開会を宣言し、さっそく本題に入った。

「宏之副会長におかれては辞任されますでしょうか?」

「いたしません」

 宏之はそう撥(は)ね付けた。

「辞任されません?」

 佃が念押しすると、宏之はもう一度、「しません」と言い、少し後には「未来永劫(えいごう)しません」とも語気を強めて反発した。

宏之副会長解任の可決

「ということであれば、ここで決議をとらせて頂きます。それではこの議案に賛成の方、挙手をお願いします。はい」

 佃が採決を諮ると、宏之以外の取締役4人の手が次々と挙がった。佃は「いかがでしょう?」と電話の向こうの昭夫に尋ねた。

「賛成させて頂きます。大変心苦しいんですけれども会長(=武雄)の命令、ご下命でもありますので賛成させて頂きます」

 昭夫は恭しくそう答えた。

「はい、そうしますと、ここにおられる4名とそれから昭夫会長(=韓国ロッテ会長を指す)お一人、計5名が賛成と、こういうことで確認させて頂きます。よろしゅうございますね。賛成多数で宏之副会長を当社副会長職から解任する決議は可決されました」

 ここに宏之のロッテグループからの追放が決まった。ただ、それは長く続く骨肉の争いのほんの始まりに過ぎなかった。

用意周到に練り上げられた追放劇

 今日、この追放劇は韓国ロッテ幹部の後押しにより昭夫が腹心の部下で三和銀行出身の小林正元(こばやしまさもと)と取り計らって用意周到に練り上げたものだったとの見方がある。日韓ロッテグループの資本構造上、その司令塔となっているのはロッテホールディングスだ。ホテルロッテを出資窓口に各社が「循環出資」で株式を持ち合う韓国ロッテは、それに首根っこを押さえられている形である。

 いまほど見たように、歴史的経緯もあり、ロッテホールディングスの取締役会は日本人が独占する。いまや事業規模で日韓は完全に逆転しており、この状況に韓国ロッテの幹部が不満を持つことは無理からぬことだった。そこで昭夫を取り込んで、支配構造の日韓逆転をもくろんだというわけである。

 小林はもともと韓国ロッテで例外的な日本人幹部だったが、2013年にロッテホールディングスの取締役に転じていた。この頃から韓国サイドによる権力奪取が準備されていたのかもしれない。その障害となるのは宏之の存在だった。

もとは佃の更迭を進言していた昭夫

 じつのところ、もともと昭夫は外部から入ってきた佃のことをよく思っていなかった。2013年1月、昭夫は父・武雄に手書きのメモを渡している。そこでは佃に対する批判が長々と書き連ねられていた。

「ヴェデル社の業績悪化について、佃社長は『前任者のポーランド人社長が無能なので、こうなってしまった』と言っていますが、そもそもその社長を任命した佃社長に責任は無いのでしょうか?……私と色々な話をしている時でも、今だに『私は菓子はしろうとで良く分かりません』と言う発言をされます。ロッテに来てから4年近くなるのに『しろうと』では勉強不足と言わざるを得ません。……いつ迄も現在のままの体制で大丈夫なのか、心配です」

 ここで出たヴェデル社とはロッテホールディングスが3年前に買収していた欧州の製菓会社で、業績は芳しくなかった。昭夫はそのことをやり玉に挙げ、佃の更迭を暗に進言したのである。

 が、その後一転して昭夫は佃と固く手を結ぶこととなる。

すでに最終確認されていた宏之の辞任要請

 佃と小林が韓国ソウルに出向いて、宏之の事業失敗を武雄に報告したのは2014年10月29日が最初で、その場で武雄は「宏之をくびにしろ」と発言したとされる。発言の真意や真偽はともかく、どうやらその頃から宏之排除の動きは本格化した。翌月、翌々月も佃と小林は武雄のもとを訪れ、宏之の件を話し合っている。

 12月19日、昭夫、佃、小林をはじめ、宏之を除くロッテホールディングスの役員全員は武雄のもとで会議を開き、そこで辞任要請が最終確認されたとされる。先述したように、3日後の取締役会でそれは宏之本人に伝えられた。宏之が強く反発したことも触れたとおりだ。

 12月24日、佃は冒頭で紹介したハツ子(武雄の2番目の妻)にこんなメモを手渡している。

「総合的に判断してロッテのために総括会長(=武雄)が解任をご決断されたと理解しております。……(3)総括会長のお許しが前提になりますが、今後の経済的な配慮は考えたいと思いますし、経営に関わらない名誉あるポストも用意したいと考えています。(4)御奥様から宏之副会長に辞任をいただけますよう、お話いただければ幸いに存じます」

 宏之に対する包囲網づくりというわけだが、事態収拾に功を奏することもなく、結局、辞任要請は解任という強硬手段へと突き進むこととなった。

〈 「今日を限りに辞めてちょうだい」ロッテのカリスマ創業者が、社長に突然“クビ宣告”…大企業で起こった“お家騒動”の一部始終 〉へ続く

(高橋 篤史/Webオリジナル(外部転載))

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