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「1週間後にはすべての先輩を差し置いて…」生前のマキノ正幸さん(享年83)が明かしていた安室奈美恵への想い「僕の原点です」

文春オンライン / 2024年7月1日 20時5分

「1週間後にはすべての先輩を差し置いて…」生前のマキノ正幸さん(享年83)が明かしていた安室奈美恵への想い「僕の原点です」

マキノ正幸さん(『沖縄と歌姫』より)

〈 《安室、SPEED、DA PUMPを輩出》「親父はヒロポンを打ちながら…」マキノ正幸さん(享年83)が語っていた“辛い少年時代” 〉から続く

 安室奈美恵、DA PUMPやSPEED、MAXらを次々と輩出したことで知られる「沖縄アクターズスクール」創業者のマキノ正幸さんが、6月28日に敗血症性ショックで死去していたことがわかった。享年83。

 父は映画監督のマキノ雅弘、母は女優の轟夕起子と、自身も華麗なる芸能一家に生まれたマキノさん。「 週刊文春 」の人気連載「家の履歴書」では、日本音楽界の一時代を築くまでの半生、そして安室奈美恵との衝撃的な出会いを語っていた。当時の記事を再公開する(初出:2018年12月20日 年齢・肩書等は公開当時のまま)。

マキノ正幸(まきの・まさゆき)/1941(昭和16)年、京都府生まれ。青山学院大学卒業。映画監督の父・マキノ雅弘と女優の母・轟夕起子の間に生まれる。祖父は日本映画の父・マキノ省三。長門裕之、津川雅彦とも血縁がある芸能一家で育つ。沖縄アクターズスクール校長として、安室奈美恵らを育成した。

◆◆◆

運命の地・沖縄と出会い、ライフワークであるスターの育成を手がけ始める

 1971年、30歳のとき、青山学院大学の後輩でもある俳優の渡哲也さんに誘われて、本土復帰前年の沖縄へ初めて渡る。人生の大きな転換点となった。

 テツが「遊びに行こう」って誘うので行っただけなんです。地元の有力者がテツのショーを主催したりして、僕も一緒に遊んでました。毎晩、どんちゃん騒ぎです。

 驚いたのは、地元のヤクザの親分の紹介で水商売の店に行くと、とにかくいい女が出てくるということです。ハーフの子、クォーターの子とかね。東京の銀座にもいないようなとびっきりの子たちばっかり。この子たちで、ちょっと面白いことができるんじゃないかな、って思ったんです。

 つつじヶ丘の家の残りと六本木の店を売り、3億ほど持って沖縄に来たんです。北中城村(きたなかぐすくそん)に米軍将校が住む外人住宅街があって、その中の海が見える家を7000万円のキャッシュで買って住みました。

83年、アクターズスクールを開校。入学金55万円ながら希望者が殺到した

 これはと見込んだ女の子たちに歌を歌わせて、那覇市泊にあるビルで、ジュエルパレスというナイトクラブを開きました。あっという間に沖縄でナンバーワンの人気店になった。流行って儲かるようになると、僕は飽きちゃう性分。店の経営はスタッフに丸投げして、次のことを考える。

 作曲家の平尾昌晃さんがやってる芸能学校が儲かっていると聞かされて、沖縄で芸能学校を始めようと思い立ったんです。長門裕之を理事長にして、沖縄のテレビCMにも出演してもらいました。

 83年4月、沖縄アクターズスクールが開校する。入学金が55万円ながら、500人が殺到した。約100人を選抜して入学させ、集まったお金を元手に那覇市内に4階建てのビルを一棟借り、全フロアを改装してスタートする。

 ところが、半年ほどで講師の一人が辞めて独立して、生徒たちを引き抜いちゃった。残った生徒はたった6人。そのうち2人は私の息子と娘です。女房は逃げました。

 悪いことは重なるもので、ジュエルパレスの経営も悪化して閉店に追い込まれて、借金だけが残りました。北中城の家を売って、僕は那覇市内の、貧しい家が連なる地区に建つ家賃が月2万5000円の木造アパートに引っ越しました。

 雇っていたスタッフの女の子が一人だけ残ったんです。「辞めたら?」って言ったら、「私、行くところがありません」と答えて残ったんです。

のちに、19歳年下のそのスタッフの女性と再婚。3人の子供に恵まれた。

 バスに乗る金もなくて、アパートからアクターズスクールまで片道40分かけて歩いて通いました。走ったり、鏡の前で裸で踊ったりして、身体にビートを叩きこむメソッドを独自に作り上げていきました。4、5年、仕方なくそんなことをしていましたね。でも、その悪戦苦闘の時期があったからこそ、いまの僕があると思っています。

「安室は確かに僕の原点」「でも、僕だけが育てたというわけでもない」

 87年9月、アクターズスクール出身第一号の歌手としてGWINKOがデビュー。同じ頃、オーディションを受ける友だちの付き添いでアクターズスクールに来ていた一人の女の子に、一瞬で痺れるようなオーラを見て取った。まだ小学5年生の安室奈美恵だった。

 安室は確かに僕の原点です。僕がいなければスター安室奈美恵はいない、このことだけは自信を持って言える。でも、僕だけが育てたというわけでもないんですよ。安室をスターにしたのは、荻野目洋子を売り出したライジングプロダクション社長の平(たいら)哲夫君です。あんなにタレントを売り出すのが上手な人はいないと思いますね。僕にしかできなかったのは、最初にセンターを決めるというフロント・システムを作ったこと。アクターズスクールに入って1週間後にはすべての先輩を差し置いて安室をセンターに立たせて歌と踊りのレッスンをさせました。センターがいなければブームは作れない。そこまで入れ込んで安室で勝負しようと決めたことがアムラー・ブームを生んだのでしょう。

 安室奈美恵のほか、多くのアーティストを発掘したが、CD売り上げなどから配分を受け取る印税契約は結んでおらず、ミリオンセラーがいくら生まれても、アクターズスクールが潤うことはなかった。ただし、知名度が上がるにつれて生徒が増え、入学金や授業料の収入によって借金はなくなり、経営も安定した。

 日本の芸能界では金を出すプロダクションが最も強くてすべてを握るんです。いいタレントを発掘しても、僕らには1%も権利や権限がない。だから、僕は、自分で芸能界から撤退したんです。

3LDKの一軒屋を借りて、「最後の生徒」を育てる

 2000年代に入ると、出身タレントが減ったことから経営は難しくなり、負債が増えていった。浮き沈みの激しい日々を送り、総額6億円の借金をすべて返済したのは14年のこと。再婚した妻とは離婚した。

 77歳のいまは、北谷町(ちやたんちよう)にある3LDKの一軒屋を借りて、「最後の生徒」と公言する4人の女性グループ「Precious J」の練習スタジオを兼ねた自宅とし、一人で暮らしている。

 僕は、これまでの人生で一度もできなかった自分の力だけですべてをプロデュースするということを、彼女たちで初めてやろうとしているわけです。彼女たちが成功しないと、僕には何もありません。安室以上の才能のある子がセンターにいます。僕は過去に何も極めていません。極めるとしたら、これからです。面白くなってきました(笑)。

(取材・構成 樽谷哲也)

(「週刊文春」編集部/週刊文春 2018年12月20日号)

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