京急&横浜市営地下鉄“ナゾの停車駅”「上大岡」には何がある?
文春オンライン / 2024年7月8日 6時0分
![京急&横浜市営地下鉄“ナゾの停車駅”「上大岡」には何がある?](https://media.image.infoseek.co.jp/isnews/photos/bunshun/bunshun_71809_0-small.jpg)
京急&横浜市営地下鉄“ナゾの停車駅”「上大岡」には何がある?
日本で第二の都市は、という話になると、だいたい手を挙げるのが大阪である。確かに、大阪は日本三大都市の一角を占める押しも押されもせぬ日本を代表する大都市だ。そこに疑う余地はない。
だがしかし。こと人口という点に限って言うならば、大阪は第二の都市ではない。大阪市の人口は約280万人。ところが、本当の“第二の都市”横浜はというと、実に約380万人もの人が暮らしているのだ。東京から近いということもあって、“首都圏”としてひとくくりにされてしまいがちだが、人口面だけで言うならば、横浜こそが圧倒的な日本第二の都市なのである。
380万人もの人が住んでいるのだから、横浜という都市にはいくつもの中心的な町がある。横浜駅という巨大ターミナルを中心とする一帯だけでなく、いわゆる“副都心”が周りを取り囲んで成り立っているのだ。たとえば、鶴見や戸塚もそうした副都心のひとつ。そして、そうしたいくつかの副都心の中に、上大岡もある。
京急線“ナゾの停車駅”「上大岡」には何がある?
しかし、上大岡と言われても、申し訳ないけれど地元の人でもない限り、ピンとこないのではないかと思う。箱根駅伝でその名を聞くこともある鶴見や戸塚ならともかく、京急線と横浜市営地下鉄が乗り入れるだけの上大岡はどうだろう。
京急線と地下鉄のユーザーにとってはとてつもなく馴染みのある町なのだろうが、逆にそれ以外の人たちにはまったく縁遠いといっていい。大げさな言い方をすれば、知られざる副都心・上大岡といったところだろうか。
そんな上大岡駅には、横浜駅から京急線で10分ほど。快特や特急にでも乗れば、横浜~上大岡間はノンストップだ。もちろん上大岡駅にはすべての電車が停まるので、乗る列車を選ぶ手間もない。そして、電車はその間、大岡川に沿って走っている。
京急線も乗り入れる横浜駅は、横浜市どころか神奈川県内における最大のターミナルだ。横浜駅からはJR東海道線・根岸線、相鉄線なども分かれていて、横浜市内各所に向かう。東海道線は柏尾川、相鉄線は帷子川、根岸線は海沿いを走る。そして、京急線は大岡川沿いを走っている、というわけだ。
川沿いの谷間の高架の駅、いざホームから下りていくと…
横浜という都市は、380万人もの人々がひしめき合って暮らしているというのにもかかわらず、平坦地が実に少ない。丘陵地が海の近くまで迫ってきていて、住宅地のほとんどはそうした高台の丘陵を切り開いたところに広がっている。
それでも鉄道は簡単に丘陵を登ったり下りたりできるわけでもない。そのため、横浜の鉄道は小さな川沿いを選ぶようにして線路が敷かれているのだ。京急線もまさにそのひとつで、大岡川沿いを走って横浜市南部から三浦半島を目指す。上大岡駅は、そうした大岡川沿いの谷間にある駅である。
上大岡の駅そのものは、何の変哲もない高架の駅だ。ホームから階下に下りると、そのまま駅ビルに直結している。
「ゆめおおおか」と名付けられた巨大な駅ビルで、商業施設はもちろんのこと、バスターミナルからオフィスまで、ありとあらゆるものが集まる。もちろん京急系列の駅ビルであって、つまりは上大岡という駅とその町は、まるで京急の城のような威容を持って訪問者を出迎えてくれるのである。渋谷が東急、二俣川が相鉄、そして京急が上大岡……。
駅ビルから外へ。まずは駅名にもなっている大岡川を見にいこう
仮にも副都心の中核たるターミナルが、巨大な駅ビルだけで成り立っているはずもない。なので、駅の外に出てみれば、実に活気に満ちた、大都市らしい光景が広がっていた。
川沿いを南北に走る京急線の西側には県道21号線、交通量に恵まれた大通りが通る。ちょうどその地下には地下鉄が走っているのだろう。大通りを渡った駅の向かいにも、いくつもの大型商業施設が建ち並ぶ。
つまり、大岡川が作った河谷に京急の線路と大きな道が南北に通り、そこに商業ビルがひしめくというのが、副都心・上大岡の姿なのだ。
ドトールコーヒーとミスタードーナツの看板が色鮮やかな、通りの向こうの「カミオ」という商業ビルの脇には、さらに西に向かうアーケードの商店街が延びている。
パサージュ上大岡という名の商店街で、このアーケードを歩いて抜ければ大岡川だ。大岡川沿いの上大岡の町なのだから、大岡川を見なければ話は始まらない。
谷底の町らしい曲がりくねった道を進む。飲食店を横目に坂を登ると「港町」らしくない光景が…
大岡川沿いは緑道が整備されていて、くねくねと微妙に曲がりくねりながら流れの向きは南から北へ。ほとんど最後まで京急線に沿って流れ、みなとみらいで東京湾に注ぐ。いわば、横浜の横浜らしいところへと流れ出る、横浜を象徴する川といっていい。その川沿いに上大岡という副都心。こうして考えると、上大岡が副都心になったというのも当たり前のことのように思えてくる。
それはともかく、大岡川を渡った向こう側は、いくつか飲食店などが集まる一角もあるけれど、どちらかというと住宅地としての趣が強くなってくる。この町は谷底の町だから、川を渡った少し先ではもう上り坂。丘陵の上には住宅地、そして谷底には副都心。これは戸塚も二俣川も似たような構造をしているから、横浜のような丘陵地が大半を占める都市にとっては当たり前の光景なのだろう。
坂を登って住宅地、という町の構造は、大通りとは反対の上大岡駅東側でも同様だ。東側は、駅を出るとすぐに急な上り坂が迫っている。えっちらおっちらと登ってゆくと、もう瞬く間に谷底の上大岡を見下ろせる高台に。そこに並んでいるのはどれもこれもが徹底的な住宅ばかり。
大きなマンションもあるし、長い歴史を刻んでいそうな大きな御邸宅、はたまた築年数の浅そうなキレイな戸建て住宅も。つまりありとあらゆる多種多様な住宅が肩を寄せ合っているのが横浜の高台だ。横浜というと、港町のイメージが強い。けれど、こうした丘陵地の上の住宅地というのもまた、実に横浜らしい光景といっていい。
高台の上から黒船が見えた頃、「上大岡」は…
ちなみに、上大岡駅東口の高台を登りきり、さらに東へと歩いて行くと久良岐公園という大きな公園がある。眼下に横浜の港まで見通すことができる絶景の公園なのだとか。そして、古の人々もこの高台から海を望み、黒い煙を上げながらやってきたアメリカはペリー艦隊、黒船の船団を眺めたのだという。
幕府のお偉いさんはともかくとして、一般庶民にしてみれば初めて目の当たりにする西洋の力。まだまだ海沿いも小漁村に過ぎなかった当時の横浜の丘の上。そのとき、人々はどんな気持ちで黒船を眺めていたのだろうか。
そして、こちらもまだまださしたるものがあるわけではなかった河谷の小村・上大岡も、黒船来航によってかつてない喧噪に置かれていた。
というのも、いまの県道21号線、つまり駅前の大通りは、ルーツを辿ると江戸と浦賀を結ぶ浦賀道にある(武士の町・鎌倉に通じる鎌倉街道でもあった)。
江戸と浦賀、つまりペリー艦隊がはじめ浦賀に現れたときは、いまの上大岡駅前を馬に乗った幕府の使者たちが駆け抜けた、というわけだ。鉄道の時代になった近代以降もそうだし、それ以前の時代でも川が刻んだ谷あいは、重要な道筋として重宝されていたのである。
ただ、そういう時代があったといっても、上大岡が“副都心”として発展するのはだいぶあとになってからのことだ。長らく谷あいの小村に過ぎなかった。
花街、刑務所、さらには“UR”がやってきた100年前「上大岡」の変化
変化の兆しは大正時代にやってくる。まず、上大岡の北にあった弘明寺の町に横浜高等工業学校が開校することになると、移転を強いられた花街が大岡川沿いのいまの上大岡付近にやってきた。1920年のことだ。なんでも「浜の箱根」を称していたとかで、いまのパサージュ上大岡のアーケードは花街に通じる小径。古くは「箱根通り」などと呼ばれていたという。
さらに、根岸にあった横浜刑務所が関東大震災で被災すると、移転先として上大岡に白羽の矢。その当時は近い将来の発展が見込めない町ということで移転先に選ばれたそうだが、それでも刑務所ができればそこで働く職員たちの住宅も建設されるなど、発展の足がかりになった。
また、この時期には同潤会の大岡住宅も建設されている。東京都心の同潤会アパートの名で知られる同潤会は、内務省肝いりで発足し、関東大震災後に不足した住宅供給を担った法人だ。つまりはのちの住宅公団、URの先駆けのような組織といっていい。同潤会はアパートスタイルの同潤会アパートだけでなく、戸建てが集まる住宅地の建設も各地で行っている。そのひとつが上大岡の大岡住宅だった、というわけだ。
世界シェアの約8割を横浜が占めた一大特産物
ただし、この頃はまだ京急線の上大岡駅は開業していない。京急線が上大岡まで線路を延ばしてきたのは1930年のことだ。なお、この3年前の1927年には横浜市に編入されて名実ともに横浜の町のひとつになっている。
つまり、この大正時代の半ば以降に上大岡はのちの副都心としての基礎が形作られたというわけだ。
この時期には、大岡川沿いに捺染業者の進出も見られている。捺染とは、簡単に言えば布を染めること。幕末の開港以来、生糸の集積地になっていた横浜ではシルクのハンカチやスカーフの製造が盛んで、昭和に入ると大岡川(や帷子川)の豊富な水を背景として多くの捺染業者が進出していった。
戦後は昭和30年代には「横浜スカーフ」として世界に知られたブランドに成長、世界シェアの80%近くを横浜が占めていたというから、とてつもない一大産業であった。上大岡は、そうした産業をも背景にして副都心としての形を整えていったのである。
戦後の発展は、実にめざましい。1963年には駅に隣接して京急百貨店が開店すると、それを合図のように周囲にはいくつもの商業施設がオープン。人口の増加に伴って丘陵地を切り開いた住宅地が次々に生まれ、1972年には横浜市営地下鉄の上大岡駅も開業している。
1980年代を過ぎて町の“主役”が入れ替わった今も「あの頃の名残」が見える場所が…
いっぽうで、捺染は1980年代以降徐々に衰退してゆく。ファッション嗜好の変化や1985年のプラザ合意による急激な円高が背景だという。いまでもいくつかの捺染業者が川沿いに残っているそうだが、むしろ上大岡の“副都心”としての地位は、捺染の賑わいと入れ替わるように定着してきたといっていい。
1996年には「ゆめおおおか」が開業、2000年代以降は三越や長崎屋、イトーヨーカドーといった商業施設が閉店するものの、入れ替わるように新しい商業施設が生まれ、本質的な賑わいは変わらずにいまに至っている。
いまの上大岡には、ドトールもマクドナルドも映画館も、ヨドバシカメラだってある。横浜駅前に勝るとも劣らない、実に文句のつけどころのない副都心なのである。
駅前の大通りを渡って、かつての箱根通り、パサージュ上大岡を抜ける。その先の大岡川の手前には、大通りと並行するように南北の裏道が通っている。これが、かつての浦賀道、鎌倉街道である。いまでも昭和の時代の商店街の名残があちこちに見られ、同時に多くの旧道がそうであるように抜け道としてクルマの通行量も多い。古い商店を再利用したオシャレな店もあるし、行列のできる店もあった。
こうした歴史を伝える町並みと、メインストリートのごとき大通り、チェーン店ならばすべて揃っているであろう商業施設群。川沿いは散策にぴったりだし、坂を登れば静謐な住宅地。京急線に地下鉄と交通の便は文句なし。
それでいて、他の地域からもたくさんの人が来訪するほどのターミナルではなく、生活感もにじんでいる。上大岡は、実によくバランスの取れた副都心なのである。こういう町を持っているということこそ、日本第二の都市・横浜の底力なのかもしれない。
写真=鼠入昌史
(鼠入 昌史)
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