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「物価高対策も賃上げも奏功しておらず無策」保阪正康氏が指摘する岸田政権の“恥ずかしさを覚える”問題点とは?【総裁選不出馬を表明】

文春オンライン / 2024年8月14日 17時0分

「物価高対策も賃上げも奏功しておらず無策」保阪正康氏が指摘する岸田政権の“恥ずかしさを覚える”問題点とは?【総裁選不出馬を表明】

岸田文雄首相 ©時事通信社

岸田文雄首相が8月14日、9月の自民党総裁選に出馬しない考えを表明した。自民党政権への不信感が高まっている中、歴史から何を学ぶことができるか。評論家・保阪正康氏が、岸田政権の問題点と政党政治の系譜について読み解いた。

◆◆◆

自民党に政治を託すことに懐疑を深めている

 政権与党への顕著な逆風は、個々の政治家の力量への低評価というよりも、自民党そのものへの強い不信や怒りによって巻き起こっていると言うべきである。それは当然のことながら、長期間にわたって組織的な裏金問題が存在してきた事実と、その背後に政権与党の構造的な腐敗が見えること、さらに、抱え込んだそれらの問題を自己切開して責任を明らかにすべきなのに、それがいっこうに進まない体たらくを国民が見て、いまの自民党に日本の政治を託すことに懐疑を深めているということなのであろう。

 さらに、世界の情勢を見ても、国民一人ひとりの暮らしから考えても、いまの岸田政権の政治姿勢に、信頼度が高まる要素を見出しにくいことも指摘しなければならない。

アメリカへの「自発的隷従」

  前回 、私は、4月に岸田首相がアメリカ議会上下両院合同会議で行った演説を分析したが、アメリカの議会に赴いて、アメリカへの従属を良きものとして過剰に主張する岸田首相の言動を、16世紀フランスの人文主義者、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシの「自発的隷従」という、いささか強い言葉で批判した。

 これは単純な反米主義から言うのではない。岸田政権が進めている防衛費倍増、敵基地攻撃能力保有、アメリカ指揮下の日米指揮統制システム構築などを注視していると、日米同盟を基軸にしながらもアジアを中心とする多国間の協調によって外交バランスを取ろうとした、かつての石橋湛山らの志向からの変質は明らかである。近現代史において、一貫してアメリカの圧倒的な影響下におかれざるを得なかった日本の運命を凝視して、「対米従属」を「自主独立」へと少しずつでも転換していこうとする志など、いまや完全に放棄されてしまったように見える。

 ウクライナ戦争、ガザ危機など、いま戦争が世界を覆っているが、停戦と平和構築に向けて、日本はほとんど役割を担えていない。アメリカの指示に従うことに汲々とするばかりで、自らの経験に基づく戦争についての識見を示すことすらできない。このような哲学なき国家を次世代に託すことに、私は恥ずかしさを覚えるのである。

 国民生活に目線を移してみると、岸田政権は「物価高を上回る所得増へ」などというスローガンを掲げはしている。だが、実質賃金は24カ月連続で減少し続けているというから、物価高対策も賃上げ実現も奏功しておらず、現実的には無策とみなされても仕方ないだろう。

 また、「防災・減災・国土強靭化の推進」を重要政策として打ち出しているものの、今年の元日に発生した能登半島地震への対応では、初動においても、その後の被災者支援、被災地の復興についても、様々な専門家が遅滞や手薄を指摘している。もちろん自然災害は、人知や人為がたやすく及ばない苛酷な緊急事態であるわけだが、そこでこそ非常時のリーダーシップが問われるのである。

「歴史の教訓」に学ばない

 阪神・淡路大震災、新潟県中越地震、東日本大震災、熊本地震など、様々な災害とその都度の政府対応を取材してきたジャーナリストの鈴木哲夫は、その著『シン・防災論―「政治の人災」を繰り返さないための完全マニュアル』(発行・日刊現代、発売・講談社、2024年)のなかで、能登半島地震の被害によっていまだ4000人を超える市民が避難所に身を寄せ、3000戸以上で断水が続く(5月時点)といった状況を描き出しながら、岸田政権を批判して、次のように言う。

《復興対策が遅々として進まない理由は「工事の難航や法律の壁など」(石川県担当部局)というが、ならば知恵を絞って専門業者を集め、国の予算を集中的に投入すればいい。法律を変えればいい。(中略)災害時こそ政治決断や現場主義が必要なのに、それが足りないという過去の災害対策と同じ経過を辿っている》

 鈴木は、自然災害に際して岸田政権のリーダーシップが機能していないことを憂え、その大きな理由の一つとして、過去の災害対策で積み重ねられた様々な成功例や失敗例という「歴史の教訓」に学ばない姿勢を挙げている。これは災害対策に留まらず、現政権の本質を突く評言とみなすべきだと私には思われる。

 さて、日々の暮らしを大切にしつつ社会が理想に近づくように地道な変革を試みる「真正保守」を復権しようと、私は本連載を書いているのだが、一方、実際の「保守政治」が劣化を重ねて自壊に至りかねない様相を呈している。私の視界のなかで保守の理想と現実が極端に引き裂かれているのは、明らかに危機の局面の反映なのだが、そうであるからこそ、いまは変革への好機であると捉える必要があるだろう。危機を好機に置き換えるには、やはり歴史の地下水脈を辿り直し、その教訓に学ばなければならない。今回は、政党政治の成立と崩壊の過程を素描して、さらに、この状況に登場すべき変革者像を慎重に彫琢してみたい。

「桂園時代」から原内閣へ

 日本近現代史において政党政治が本格的にスタートするのは、1918(大正7)年、「平民宰相」と呼ばれることになる原敬が内閣を組織してからであるが、原の登場前と登場後で、日本の政治はその姿を大きく変えた。

 明治維新以降の日本の政治を動かしてきたのは「藩閥政治」であり、薩摩、長州出身者が政治の中枢を占めてきた。具体的な人物を挙げれば、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、山縣有朋、伊藤博文、黒田清隆、井上馨といったところになろうか。彼らは廃藩置県後の新たな官制で要職を独占して権力基盤を固め、「富国強兵」を牽引していった。1873(明治6)年、征韓論争によって分裂したが、1881年、国会開設、憲法制定をめぐる対立から起きた「明治十四年政変」で、開拓使官有物払下げ事件を契機に肥前出身の大隈重信を追放して、薩長出身者はさらに実権を握っていく。

 1885(明治18)年、伊藤博文が内閣制度を創設して初代首相になってからは、薩長は、官僚、軍部、警察、経済界に勢力を張りめぐらせ、自由民権運動からの批判を受けながらも、憲法制定、国会開設など、明治国家の根幹を築いていく。藩閥政治では、多くの薩長出身者が、首相、大臣、元老に交代で就任した。

 原敬内閣が成立して藩閥政治から政党政治への転換がなされる以前に、過渡期が存在した。1901(明治34)年から、日露戦争(1904年〜1905年)を挟んで1913(大正2)年までの十数年間、長州出身で山縣有朋の後継者である桂太郎と、立憲政友会総裁であった西園寺公望が交互に政権を担当した「桂園時代」である。

 第一次桂太郎内閣の後期、日露戦争終結前後の政治的危機を乗り越えるため、桂首相は立憲政友会の原敬と会談を重ね、講和条約への同意を得るかわりに、次期政権を政友会総裁の西園寺に譲った。以後、長州閥の官僚を押さえた桂と、政党政治を象徴する西園寺が妥協して、たらい回しのような形で政権を運営していったのである。藩閥政治の全面支配からは脱しつつあるが、政党政治まではいかない状態と言っていいだろう。原敬はこの時期に、「交渉」によって現実を動かす政治的な実力をつけていった。

 桂園時代は、日露戦争後のポーツマス条約に反対する日比谷焼打事件、労働運動の激化など、「大衆の反逆」に揺さぶられた時代でもあった。反体制運動に対しては、西園寺内閣が取り締まりを緩くすると、桂内閣が強権的に対峙するという傾向があった。1910(明治43)年、大逆事件に直面した桂内閣は、政友会との協調を深める路線を取ろうとし、翌1911(明治44)年、桂首相は政友会議員との会合の席で、「情意投合し、協同一致して、以て憲政の美果を収むる」と語っている。これは、公的に約束はしていないが、暗黙のうちに意思疎通をはかって政権を運営していこうという呼びかけに他ならず、「情意投合」は桂園時代を象徴する言葉となった。

 だが、立憲政治の確立を目指す第一次護憲運動によって議会を包囲されて第三次桂内閣が倒されるという「大正政変」が起こり、桂園時代は終焉する。

保阪正康氏による「 日本の地下水脈 次期首相7つの条件 」全文は「文藝春秋」「文藝春秋 電子版」に掲載されています。

(保阪 正康/文藝春秋 2024年7月号)

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