「映画監督になったらいけないんじゃないか」手塚眞監督(62)が“ヴィジュアリスト”を名乗るきっかけになった“巨匠の存在”
文春オンライン / 2024年8月2日 6時0分
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『星くず兄弟の伝説』販売元:アップリンク
〈 《父・手塚治虫が心配し大島渚が驚愕》「観客を不幸のどん底に突き落とす」手塚眞監督(62)が19歳で撮った映画『MOMENT』の恐るべき展開 〉から続く
『MOMENT』を見たミュージシャンの近田春夫氏から「一緒に映画をやろうよ」と声をかけられて始まった『星くず兄弟の伝説』。当初は「月1で夜ライブハウス上映」のカルトムービー企画だったが、次第に方針が変わっていって……。好評インタビューシリーズ第3弾の最終回。(全4回の4回目/ #1 、 #2 、 #3 を読む)
◆◆◆
初の商業映画『星くず兄弟の伝説』
―― 『星くず兄弟の伝説』は一般映画として公開された最初の作品ですね。
手塚 近田(春夫)さんが最初におっしゃっていたのは、「これは映画館じゃなくてもいい。ライブハウスでもいいんじゃないか」と。その代わり、月に1回必ず夜上映しているみたいな。要するに、カルトムービーを作ろうと思っていたんです。その頃、『ロッキー・ホラー・ショー』が、どこかの映画館で毎月1回上映されて、そこに好きな人だけ集まってみんなで盛り上がるみたいな流れがあって、そんなことをやりたいんだとおっしゃっていたんです。
僕はそれでもいいと思っていたんです。でも、途中からやっぱりそうじゃいけない、ちゃんとビジネスとして成立させなきゃいけないんだという話になって、近田さんは背広とネクタイ姿で、プロデューサーです、ということになった。映画業界じゃない人間、音楽業界とか学生とかそんな人だけが集まって、自分たちでお金を集めて作るということでは、たぶん今のインディーズにつながる一番最初の映画かなという気がします。
ライバル同士のミュージシャン、シンゴ(久保田しんご)とカン(高木完)。ある日大物プロデューサー、アトミック南(尾崎紀世彦)にスカウトされ、二人はスターダスト・ブラザーズとしてデビューし人気沸騰!ファンクラブ会長の少女マリモ(戸川京子)や大物政治家の息子を巻き込み、陰謀渦巻くTOKYO CITYでスターダスト・ブラザーズをめぐり上へ下への大騒ぎ!果たして彼らの運命はいかに…? DVD解説文より
―― 現場はプロ体制のスタッフだったんですか?
手塚 プロでも、助手のクラスの人が多かったんです。一本立ちするために、何かいい仕事がないかと考えていたようで。カメラの大沢さん(注1)なんかそうですね。ずっと阪本善尚さんに付いてきて、1本目で『星くず』をやったという感じなんです。
―― 8ミリと違って、スケジュールの管理とか、窮屈なところもあったかなと思うんですけど。
手塚 そこはみんな甘かったんですよ。みんな若かったから勢いだけでやっていたので、一応スケジュールは立ててはいたんだけど、到底ハマってないんです。始めてみたら徹夜徹夜の連続で「これ、本当に終わるのか」みたいになっちゃって。
途中で自主映画から商業映画に変わったギャップがあった
―― 出来上がって自分の評価はいかがでした?
手塚 正直に言って、できあがった瞬間に、「これはちょっとな」と自分で思ったんですよ。仲間内の完全な自主映画で、月に1回上映だったらこれでオッケーと思ったんだけど、全国の劇場映画ということで考えると、ちょっとこれは考えが甘かったなと思いましたね。
―― 制約のある体制の中で作品を作ることに戸惑いはありましたか?
手塚 もちろん学生映画だってスケジュールは立ててやるんです。むしろプロのスタッフが入ってきたことで、少し甘えちゃったんだと思うんですね。プロもいるんだから、自分は監督としてやればいいぐらいに思っちゃった。学生映画とか自主映画は自分で全部管理しなきゃいけないじゃないですか。だから、そこである種の厳しさも出てくるんだけども、それがなくなった分だけ、とりとめがなくなった気がします。自分でどこまでやっていいのかも分からないし、しかも近田春夫さんが「手塚の言うことを全員聞け」みたいなことを言われたんですよ。だから、余計に歯止めが利かなくなったところはあります。
―― 8ミリ時代は手塚さんが直接やっている部分が多かったですからね。
手塚 もっと簡単なことでいいよ、というのが通用しなくなっちゃったというのはある。8ミリだったらこんなの5分で撮れるよ、みたいなことを、彼らは何時間もかけて準備したりするから。そこは初めてテレビ局のビデオのスタッフと一緒に『もんもんドラエティ』をやった感覚に近いんです。ただ、途中からはずみがついてきたら、頭が柔らかくなっていって、「これはこういうことだね」と割り切ってやってくれるようになりましたけどね。それにしてもみんなよく頑張ってくれた。普通だったらあんなに徹夜してたら途中で止まっているはずなんだけど、「最後までやり切ろう」と。それは若さの力だなと思いましたね。
―― 自主映画でできなくても、プロが参加すると大掛かりなこともできる。メリットとデメリット両方あるのかなと思います。
手塚 そうですね。規模と内容というのはすごく重要な関係あるんですよ。往々にして、企画を立てる時と完成した時で製作の話が変わっているケースが多いんです。『星くず』も最初は「ただの自主映画だよ」と言われて、終わる頃には「これは商業映画だよ」と言われたという、そのギャップがあって、そこに僕が追い付けてないんですね。そこが一番の問題だったんだろうとは思います。
ヴィジュアリストという肩書き
―― その後、『妖怪天国』など商業映画を撮り続けますが、映画監督という肩書きでなく、ヴィジュアリストと名乗られていますよね。
手塚 学生から独学でやってきて、いきなり映画監督になったらいけないんじゃないかというような気持ちがあったんです。いろんな思いがありました。例えば黒澤明さんの映画を見に行って、「これが映画だ。黒澤さんこそが映画監督だ」と思うと、学生映画でポロッとやっていた自分が並んじゃいけないような印象はすごくあったんです。映画は作りたいけど、別に無理に監督と名乗らなくても映画を作ればいいんじゃないかと思って。で、試しにヴィジュアリストというので始めてみたら、ちょうどいろんな映像メディアが広がる時代に重なったんです。ビデオもあるか、コンピューターもあるよ、みたいになっていった時に、いろんなメディアを使える肩書きだと。その頃は「映画監督たるものはそんな仕事はしちゃいけない」みたいな思いを持った人が多かったんです。めんどくさいから、ヴィジュアリストと言ったら何でもできると。非常に拡張性があるから、それで何となく使い始めて、それで今まで来てしまったという感じで。
―― 自主映画と商業映画を比較して感じることはありますか?
手塚 僕は8ミリにはこだわり続けたんです。富士フイルムがシングル8の生産を中止して、現像もストップして、完全にできないところでやむなくやめましたけど。『MOMENT』が終わった時、8ミリである必然性って何だろうと考えたんです。8ミリの良さを生かし続けるとしたら、もうアートしかあり得ないと思ったんです。この質感と色味とか、8ミリの感触だからこそ表現できるものを作るには、映像を中心にしたものをやっていくしかない。ドラマではなくて、アート的なものにずっと使っていたんです。
その一方では、きちんと商業的に作っていく作品というものもやっぱりちゃんと極めていった方がいいと考えて。その習作として、『白痴』を作ったんですね。あれは大作過ぎたんですけれども。そっちはそっちでちゃんと勉強し直そうと。セットを組んで、俳優を呼んで、何カ月もかけてゆっくり撮影するとはどういうことなんだと。そうやって映画を作るってどういうことなんだって。本当に極端に両側なんですけど、それをずっとやり続けているというのが今の自分ですね。
―― 8ミリ出身監督というのは、自主映画は通過点で商業映画へ進むのが普通ですけれども、手塚さんの場合、自主映画は通過点ではなく、両輪なんですね。商業映画でドラマをやり、自主映画でアートをやる。
手塚 ドラマとアート、その両方ができるのが最初の高校生の8ミリだったということで。そこで両方を勉強できたからこそ、今も両方に行けてると思います。
注1 大沢栄一 撮影技師。『三毛猫ホームズの推理』『モーニング刑事。』など。
てづか まこと 1961年東京生まれ。父は漫画家・手塚治虫。成蹊高校在学中に8ミリで映画製作を始め、大島渚監督を初めとする映画人の高い評価を得る。日大芸術学部在籍中から映画、テレビ、ビデオを初めとする様々なメディアで活躍。映画を中心としながら、小説やデジタル・ソフト、イベントやCDのプロデュースも手掛け、先進的な内容やスタイルが注目されている。主な作品に『星くず兄弟の伝説』『妖怪天国』『白痴』『ブラックキス』『ばるぼら』など。
こなか かずや 1963年生まれ。高校、大学で8ミリ自主映画を撮り、『星空のむこうの国』(86年)で商業映画デビュー。主な作品に『四月怪談』(88年)、『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟』(06年)、『七瀬ふたたび』(10年)など。昨年自身の8ミリ自主映画時代を描いた『Single8』を発表。
(小中 和哉/週刊文春CINEMA オンライン オリジナル)
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