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【七夕に読みたい】「織り姫星」が重要なモチーフに…1968年の大災害の謎と、1988年の偶然の出会いが互いの運命を変える「ガール・ミーツ・ボーイ」の青春ミステリー

文春オンライン / 2024年7月7日 6時0分

【七夕に読みたい】「織り姫星」が重要なモチーフに…1968年の大災害の謎と、1988年の偶然の出会いが互いの運命を変える「ガール・ミーツ・ボーイ」の青春ミステリー

伊岡瞬さん文庫『奔流の海』書影

 ベストセラー『代償』『悪寒』といった数々のダーク・ミステリーで人気を集める作家・伊岡瞬さん。伊岡作品は、リアルな人間描写と予測不能なストーリー展開、複雑な人間関係を通じて、読み手を物語世界へと強く引き込んでくれる。その作品群は一部では、読み始めると抜けられない「伊岡沼」と呼ばれている。

 伊岡さんの最新文庫『 奔流の海 』は、天文観測、特にこと座のα(アルファ)星ベガが、物語の重要なモチーフになっている。ベガは「織り姫星」としても七夕伝説で広く知られており、この「伊岡瞬史上、最も残酷で美しい青春ミステリー」は、七夕の夜に読むのにぴったりの作品としておすすめだ。この度、そんな『奔流の海』の魅力を、書評家の杉江松恋さんが熱く紹介してくれた。

◆ ◆ ◆

 押し寄せる絶望の波に負けず、そびえたつものは何か。

 伊岡瞬『奔流の海』を読む人がまず感じることは、作者はここまで登場人物を追いつめるのか、という畏怖の念ではないかと思う。

 秘められていた事実が幾度も明かされ、世界の見え方がそのたびに変わっていく、という展開の物語である。新しい情報が開陳されるたびに、誰かが心に傷を負う。ここが本作の重要なところで、単なる驚かしのためのどんでん返しではないのである。足元が崩れるような感覚や、自覚すらしていなかった痛みに気づかされるということがあり、彼らが味わう感情が読者の側にもひしひしと伝わってくる。痛い。しかし、止められない。

 結構な長い時間の流れを、謎を醸成するための武器として使っている小説でもある。構成に妙味があって、序章ではまず不安を醸し出す情景が描かれる。1968年7月7日に時計の針は合わされている。その日、静岡県千里見町は大型台風の襲撃を受け、土砂崩れによって多くの人命が奪われた。その夜なのだ。有村という若い夫婦が避難を始める。乳児を連れての移動は実に心細い。夫婦が幕切れで登る「少しでも板を踏み外せばずぶずぶと足がめりこむ」土砂の山は、今にも崩壊しそうな世界への不安を映し出す二人の心象風景そのものだ。

 第一章第一部では一転して時が流れ、1988年3月の話になっている。舞台は同じ千里見町だ。主人公の清田千遥は、清風館という旅館の一人娘だ。千遥の母が一人で切り盛りしていること、しばらく清風館は休業していたらしいこと、それは父がしばらく前に急逝したためであるらしいこと、などが状況とともにわかってくる。そこに現れるのが東京で大学に通っている坂井裕二という青年だ。無理を言って清風館の泊り客となった裕二は、夜な夜な一人で出かけていく。そのことに、千遥は不審の念を抱く。

 これが現代のパートである。本作は二筋の流れで書かれていて、もう一つは坂井裕二が主人公となる過去のパートだ。ここでの裕二は坂井ではなく、津村の姓を名乗っている。過去パートで最初に描かれる裕二はまだ就学前だ。小学1年生になったばかりのある日、彼は父親である津村に突き飛ばされて自動車にはねられる。こうしたことは一度きりではなく、何度も起こる。父親は彼を使って当たり屋をやっているのだ。母親とも引き離され、父親の言うことを聞くしかない裕二は、幾度も傷を負う。そして運命の日がやってくる。

 書いていいのはここまでだろう。裕二の物語から先に言及すると、この救いのない少年の人生は運命の日を境に大きく変化する。ここで描かれているのはヤングケアラーの問題であり、親に運命を決められたために自由を奪われてしまったこどもの物語である。裕二の感じる哀しみに心を痛める読者も多いと思う。だが待っていただきたい。ページはまだまだ残っているのだ。運命の日とそれに伴う変化までが裕二パートの第一幕だとすれば、第二幕からは大きな変容が訪れる。

 第一幕でしっかりリアリズムの足場を組み立てていた作者が、そこからミステリーならではの奇想を注ぎこんでくるのである。奇譚の意外性であり、伝奇小説で描かれるような、人の世の不思議を描いているともいえる。裕二の人生はここから、当人のあずかり知らない形でうねり始めていく。揺れに身を委ねながら読者が思うのは、この数奇な物語がどのように現在と、そして1968年の過去と結びつくのか、ということではないだろうか。

 現在パートの視点人物である千遥は、悲嘆の中にいる主人公だ。父の哀しみからはまだ立ち直れておらず、他人に対しては頑なである。過去パートで大人の玩具として裕二が翻弄されているのと、千遥が他人を排して殻に籠っているのとが並行して描かれているのが小説の工夫である。千遥が閉じた扉を開けて再び世界に足を踏み出す過程は、大人によって未来を鎖されたことのある裕二の人生と対比される形で綴られる。この二人が偶然の出会いから互いの運命を変えていくという、ガール・ミーツ・ボーイの物語でもあるのだ。複数の古典的なプロットを組み合わせて独自の作品世界を構築していくのは伊岡瞬のお家芸だ。この作者の物語はどれも複雑で、未知の驚きに満ちている。

 ミステリーは謎の小説である。謎自体の新奇性を競うという行き方もあるが、それがいかに明らかになっていくか、という語りの芸に秀でているのが伊岡瞬という書き手だ。文春文庫に収録された『祈り』を読んだとき、これはもうミステリーという形式を使わずとも登場人物の表情を逐一書いていくだけで成立する作品だ、と最初に思った。いや、それをミステリーという謎の物語として書いてくれていることに価値があるのだ、と再読して認識した。何通りも読み方があるのも特徴で、本作は苛烈な人生を描くミステリーであると同時に、心の中に温かいものを灯してくれる青春小説でもあるのだ。

 天文観測がすべての文脈を束ねる要素として使われていて、第1部のタイトル「十万光年の花火」は星の光が遥かな距離を通って伝わってきていることを指している。満天の星々は、なすすべもなく立ち尽くす人間たちを黙って見守っている。星に思いがあるとしても下界の人間にそれを知るすべはないが、自分とは関係ないところに誰かの生があり、世界が拡がっているという事実は孤独な心をいささかでも慰めてくれるだろう。

 天の星のように書かれる数多の小説たちも、同じように誰かの心に届く日を待っている。

杉江松恋(すぎえ・まつこい)
1968年、東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒。ミステリー書評を中心に活動し、古典芸能関連の著書も多い。著書に『浪曲は蘇る』、『ある日うっかりPTA』、『路地裏の迷宮踏査』、『読みだしたら止まらない! 海外ミステリー・マストリード100』『絶滅危惧職、講談師を生きる』(神田伯山と共著)、『100歳で現役! 女性曲師の波瀾万丈人生』(玉川祐子と共著)『鶴女の恩返し』(桃川鶴女と共著)など。近著『芸人本書く派列伝』。

文春文庫、伊岡瞬のベストセラー

『 祈り 』
楓太は公園で、炊き出しのうどんを食べる中年男・春輝が箸を滑らせる光景に出会う。その瞬間…? 都会に馴染めない楓太と暗い過去を持つ春輝の人生が交錯する時、心震える奇跡が起きる。

『 赤い砂 』
電車に男が飛び込んだ。事故現場の鑑識係・工藤は同僚の拳銃を奪い自殺、そして電車の運転士、拳銃を奪われた同僚警察官も自殺した…連鎖する死の真相を刑事・永瀬が追う。大手製薬会社に届いた脅迫状「赤い砂を償え」の意味とは?

『 白い闇の獣 』
凄惨な少女誘拐殺人事件で捕まった3人は、少年法で守られていた。4年後、3人のうちの1人が転落死。疑われたのは、殺された少女の失踪した父親。一方、少女の元担任はある思いを胸に転落死現場に向かう。慈悲なき世界を描く作者の真骨頂!

(杉江 松恋/文春文庫)

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