「ええっ!」攻める伊藤匠九段、粘る藤井聡太叡王…“着物が着崩れる死闘”の舞台裏では何が起きていたのか
文春オンライン / 2024年7月7日 6時55分
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挑戦者・伊藤匠七段 ©文藝春秋/石川啓次
〈同学年の2人がひのき舞台で顔を合わせるのは将棋界の新時代を到来させる出来事かと思っております。
羽生善治九段(2023年10月5日、第36期竜王戦七番勝負第1局前夜祭のスピーチ)〉
〈こうなったらNHK杯戦で優勝して、タイトルも取り、「藤井聡太を最後に泣かせた男」から、「藤井を泣かせる男」になってほしい。そして「俺は羽生善治と伊藤匠の両方とNHK杯戦で戦ったことがあるんだぞ」と自慢させてくれ。
勝又清和七段(「NHK将棋講座」2023年7月号、NHK杯1回戦第8局・勝又清和七段ー伊藤匠六段 自戦記)〉
日本中が注目する第9期叡王戦五番勝負第5局は、6月20日、山梨県甲府市の常磐ホテルで行われた。藤井聡太叡王に対して挑戦者・伊藤匠七段が先に2勝。第4局はカド番となった藤井が勝ち、フルセットにもつれこんだ。本局で藤井が勝てば叡王防衛で八冠維持、伊藤が勝てば初タイトルとなる。
伊藤が藤井のサービスゲームを受ける構図に
最終局の舞台となった常磐ホテルは、皇室の方々も御宿泊されてきた名宿で「甲府の迎賓館」とも呼ばれる。昭和の時代から将棋・囲碁の名勝負が繰り広げられ、その歴史は館内に写真や扇子とともに展示されている。シリーズの決着局が多いのは、早々に決着してキャンセルになってしまう恐れもある後半戦でも引き受けてくれるからだ。
担当者の小沢行広さんは他の対局場を年に何度も視察するほど熱心で、対局者の表情から要望を察してきめ細かやかなサービスを提供している。裏方の方々の心遣いがあって、対局者は勝負に集中して臨めるのはいうまでもないだろう。今回も将棋界への情熱あふれるホスピタリティで、我々を出迎えてくれた。
番勝負でフルセットになると、最終局では改めて振り駒で先後を決める。対局開始前、記録係の福田晴紀三段は入念に駒を振ってから放り投げた。歩が3枚で藤井叡王が先手に。先手のほうが主導権を握りやすいため、伊藤が藤井のサービスゲームを受ける構図になった。
私は安食総子女流二段とともに、見届人(※スポンサーになった将棋ファンが対局室や控室で対局を見守る、叡王戦ならではの制度)のアテンド役を務めた。対局翌日に伊藤にゆっくり話を聞く機会があったので、そのインタビューも交えて伝えたい。
さて戦型は藤井の角換わりを伊藤が受けて立ち、これでシリーズ5局すべてが角換わりになった。伊藤は右玉に構え、藤井は穴熊に組み直す。先手が飛車先を交換した瞬間に後手が動く展開は、局面は違えど第4局(伊藤が穴熊、藤井が右玉)と似た進行である。。伊藤が角を敵陣に打ち込んだのに対し、藤井は自陣角を放って桂頭を攻める。かなりのところまで両者の研究範囲だったのだろう、午前中に68手も進んだ。ともに相手の桂を取れる激しい展開で昼食休憩に入る。注文は藤井が天ぷらそばで伊藤がカレーライス、なんだか羽生と森内を思い出させるメニューだ。
思わずのけぞった藤井のすさまじい手
午後1時に対局再開。藤井は自陣にいる相手と自分の角を交換して盤上から消し、先に桂得を果たす。だが自分の右桂は取られる寸前で、と金も作られているので難しい。しかも次に飛車金両取りの角打ちがある。さあ、手番を生かしてどう攻めるか。立会人の深浦康市九段、現地大盤解説会担当の松尾歩八段と貞升南女流二段とともに検討する。「穴熊が堅いとはいえ、このままだと攻めが切れるぞ」と見ていると、なんと藤井、▲6六銀直! 銀を歩頭に体当たりしたのだ。私は思わずのけぞり、深浦も「すさまじい手ですね」と驚いた。
午後1時半の手ではない。5分の考慮で指せる手ではない。すなわちこれは研究手だ。
将棋界随一の研究家である伊藤と戦うためには、ここまでやらねばならぬ。研究は武器ではなく防具であり、伊藤相手にこの一発で決まるとは思ってはいない。
「▲6六銀直は軽視していましたが、決断が早かったので研究だろうとは思いました」(伊藤)
藤井は銀を取らせて無理やり空けたマス目に王手で桂を放り込み、打った桂をすぐに成る。伊藤の金銀の密集地、藤井のもう1つの桂が利いた穴に。ここから猛攻。しかし伊藤も玉を上がり、飛車の王手には歩を合い駒してから逃げる。藤井のハードパンチをギリギリでかわす伊藤。
藤井は飛車も叩き切り、歩・角・銀と連打し伊藤玉を包囲した。藤井の持ち駒は金だけになったのだが、この形が妙に受けにくい。しかも伊藤は飛車の配置が悪く、流れ弾に当たって取られてしまいそうだ。なるほど、こうやって攻めるのか。見えにくい手が見える。さすがの射程だ。正確さだ。
伊藤玉がしぶといことがわかり空気が変わった
伊藤の残り時間が40分を切った。藤井はまだ1時間12分も残している。山崎隆之八段と戦った棋聖戦五番勝負第1局、第2局での冴えた指し回しを思い出した。初のカド番を迎えて「不調」といわれていた藤井は、完全に復活した。これは決まったか。控室でも皆がそう思っていた。
と見ると、伊藤は△5三銀と、玉の真下、角取りに銀を打った。藤井が逃げつつ▲7三角成として、これが詰めろになっている。伊藤は△5二銀と銀を引いて玉の逃げ場を開けたが、ええっ、それじゃあ馬で王手飛車取りが掛かってしまうではないか。本譜では実際にそう進み、伊藤は飛車を失った。手番は回ってきても、銀取りに△7六歩と突き出しで反撃しても、あっちは穴熊でパンチは届かないのではないか。
検討では、王手で伊藤玉を下段に落とし、寄りだと見ていた。ところが、その玉を狭そうなところに逃げる手が発見された。控室には青野照市九段も訪れて一緒に検討していたが、このあたりで伊藤玉がしぶといことがわかり空気が変わった。
「(▲4六銀に対しては)玉を引いて受けるつもりでしたが、それがまずいとわかり予定変更です。本譜の手順も、保険で読んではいました。形勢は先手60~70パーセントはあるとは思いましたが、具体的にはどうやられるかわからなかったです」(伊藤)
観戦に訪れ、大盤解説会にもゲスト出演した山田久美女流四段が控室にやってくる。
「対局室のモニターを見ながら解説していたんですが、藤井さんが(飛車取りを)指したら、伊藤さんは間髪入れずに歩を突いていましたね。なにか自信ありげに見えました。それにしても玉を広い方ではなくて、まっすぐ引いて大変とは驚きますね」
両者とも着物が着崩れている。まさに死闘だ
藤井は11分ほど考えた末に▲6六銀と上に逃げる。先の「6六銀」でペースを掴んだ藤井だが、2度目の6六銀は問題の一着となった。続けて伊藤に8筋の歩を突かれ、藤井の手が止まる。藤井の誤算は逃げた銀が目標になってしまったことだ。やむなく、7筋の一段目に飛車を打ち、飛車銀両取りの角打ちにも飛車を成り返って守る。そこで伊藤が逆サイドで沈黙していたと金を入り、金取りにぶつけたのが妙手。これで相手の金を動かして飛車を打ち、なんと穴熊の藤井玉に先に詰めろが掛かった!
青野が「このと金が勝利のと金になったらすごいよね」と感嘆の声をあげた。
私はとっさに、大山康晴十五世名人のことが頭をよぎった。大山と言えば「と金使いの名手」だ。30年以上前、私が記録係を務めたA級順位戦でも「△4九と」という手があったなあ(1989年の対塚田泰明九段戦だった)。大山先生は66歳だったにもかかわらず、迫力あったなあ……。伊藤くんの落ち着きぶりと胆力はすごいなあ……というか、対局者は2人とも21歳!? 逆サバ読んでいない?
「8筋の歩を突いた局面が難しかったのが幸運でした。相手が長考しているときに、と金入りを発見できたのが大きかったです」(伊藤)
最大1時間以上も持ち時間に差をつけていたのに、藤井が先に一分将棋に追い込まれた。伊藤が穴熊に向かって桂を連打して迫れば、藤井は竜を穴熊城内に引き入れて籠城戦の構えだ。伊藤が攻め、藤井が粘る。両者とも着物が着崩れている。まさに死闘だ。
伊藤は最後の持ち歩を穴熊脇に打ってさらにと金を作り、最初のと金はひたひたと6九まで到達した。2枚のと金と飛車に包囲され、もう受けきれないから打って出るぞ――58秒まで読まれて藤井は桂を持った。そして打った場所は、ええっ、王手になる5五ではなく銀取りの6四!?
なるほど、駒が入ったら詰ますぞと脅したのか。さすがにこれは意表をつかれただろう。伊藤は持ち時間最後の30秒プラス秒読みの1分を費やして、金を2枚も渡しながら先手陣の竜をとらえて必至をかけた!
〈 「怪獣がもう一体現れた」藤井聡太の“全冠独占”を終わらせた男、伊藤匠新叡王の誕生にプロ棋士が思うこと 〉へ続く
(勝又 清和)
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