「怪獣がもう一体現れた」藤井聡太の“全冠独占”を終わらせた男、伊藤匠新叡王の誕生にプロ棋士が思うこと
文春オンライン / 2024年7月6日 7時0分
![「怪獣がもう一体現れた」藤井聡太の“全冠独占”を終わらせた男、伊藤匠新叡王の誕生にプロ棋士が思うこと](https://media.image.infoseek.co.jp/isnews/photos/bunshun/bunshun_71910_0-small.jpg)
挑戦者・伊藤匠七段 ©文藝春秋/石川啓次
〈 将棋は一人で強くなるのはなかなか大変です。「この人に勝ちたい」と思える人がいるのはものすごくプラスになります。刺激がないまま何十年も先輩に挑み続けるのは、気持ち的に盛り上がらないでしょう。あとやっぱり技術的に高いレベルの人が近くにいたほうが、絶対に自分も伸びますよ。
森内俊之九段(大川慎太郎著『証言 羽生世代』講談社)〉
フルセットになった第9期叡王戦五番勝負。第5局の終盤、挑戦者・伊藤匠七段は持ち時間最後の30秒プラス秒読みの1分を費やして、金を2枚も渡しながら先手・藤井聡太叡王の竜をとらえて必至をかけた!
それを見て藤井の最後の攻勢が始まる。プロの第一感は「後手玉に詰みなし」なのだが、調べてみると、どの変化も際どい。藤井が出す選択問題はどれも正解は1つしかない。
取ると詰み、逃げると詰み、逃げると詰み、取ると詰み……。
タイトル移動を告げる一手
いや、このとき藤井は「問題を出す」という上位者の気持ちではなかっただろう。タイトルをいくつ持っていても、これまでの対戦成績がどうでも、防衛だろうが何だろうが「今この将棋を負けたくない」、その一心で指しているはずだ。かつて幼い伊藤匠に負けて泣いた頃と同じ気持ちで。
伊藤は慌てずに正着を指し続け、玉が2二まで逃走した。1三に逃げ場所があるのが大きく、どうしても詰まない。右玉、7二にいたその玉が、遠い1筋の端歩のおかげで助かるとは、盤上のドラマは常に筋書きがない。
藤井は何度も髪をかきあげガックリ、ガックリとする。最後の桂の王手も、うっかり上に逃げると頓死だが、伊藤は落ち着いた表情で、40秒の声とともに玉を下に逃げた。
それはタイトル移動を告げる一手だった。藤井の肩が落ちた。水を飲み、頭を下げた。18時32分、156手で伊藤勝ち。
伊藤が3勝2敗で叡王を奪取した。
青野は皆の気持ちを代弁するように言う。
「第3局も悪かった将棋を終盤でひっくり返したんですよね。藤井さん相手に終盤で逆転勝ちできるのはすごいですね。しかも藤井さんの先手に2局勝つなんて」
皆がうなずいた。
「藤井を泣かせた男」が「藤井に勝って泣いた男」になった
両対局者は対局室でのインタビューに答えた後、大盤解説会場へ。
「シリーズを通して終盤のミスが結果につながってしまったと思います。それと同時に伊藤さんの強さを感じるところも本当に多くあったので、それを糧にしてまた頑張っていきたいと思います」
と、藤井は述べた。
対局室に戻っての感想戦。遠くから見ていたので、はっきりとはわからなかったが、伊藤は目に涙をにじませていたような気がする。棋士になって初めての藤井との対戦は、2021年12月の非公式戦の新人王記念対局。それから叡王戦第1局まで、持将棋1局を挟んで12連敗もした。一般の男性ならまだ多感な時期に、タイトル戦で7連敗も食ったんだ。それでもめげずにタイトルを奪ったんだ。八冠王藤井聡太からタイトルをもぎ取ったのだ。そりゃ泣けるよなあ。「藤井を泣かせた男」が「藤井に勝って泣いた男」になったのだ。
「藤井さんのおかげでこういう舞台に上がれている」
タイトル戦23回目にして初めての敗退にもかかわらず、感想戦で藤井はよく喋った。時折笑みも浮かべ、いつも通り駒をクルクルと回した。楽しそうだ。
12年前、偶然指した2人がこうやってタイトル戦のひのき舞台で戦う。
体は大きくなった。21歳とは思えぬほど落ち着いている。あのころの伊藤は声が高かった。なにもかもが変わった。しかし、変わらぬものが1つある。2人とも将棋が好きで好きでたまらないのだ。
などと感傷にふけりながら感想戦を見守っていると、あれっ、▲6四桂と打った局面までいかずに感想戦は終わっちゃったよ。まあ両対局者とも疲れ切っていたからなあ。
感想戦が終わり、見届人が新叡王に挨拶しているときに、役得とばかり写真を1枚とった。おおっ、疲れ切った良い表情ではないか。この1枚が今日のすべてを物語っているなあ。
記者会見で、伊藤は答えた。
「自分はずっと藤井さんを追いかけてここまで来られたと思っていますので、藤井さんがいなかったらタイトルも取れなかったと思いますし、藤井さんのおかげでこういう舞台に上がれているのかなと思っています」
ああ、森内の言葉と同じだ。これからも同世代のライバルが競い合ってタイトル戦で戦っていくんだ。1993~1995年、竜王戦では羽生ー佐藤康光が、王位戦では羽生ー郷田真隆が、いずれも3年連続七番勝負を戦った。羽生ー森内は2011年から2014年にかけての4年連続を含めて計9回も名人戦で激突している。
この若い2人も、ずっとずっと戦うのだろう。来期、藤井が挑戦者になったらすごいなあ。
「相手が相手なので震えてました(笑)」
翌日朝、記者会見の前に、伊藤新叡王から対局中の形勢判断などを聞くことができた。
「△7六歩の局面では、▲3四金△4二玉▲4三歩△4一玉に▲7一飛と王手して、飛車で7六の歩を払われていたら悪かったようです。昨夜、ある棋士から電話がかかってきて教えられました。△3三歩で金が捕まるだけに見えませんでした」
そして、2度目の▲6四桂に代えて、▲5五桂とされていたらどうしたのと聞く。
「▲5五桂は、△3三玉▲3四金△2二玉▲2四歩に、△8九と▲同金△7九とで、耐えているかと思っていました」
伊藤は1分将棋でも正確に読み切っていた。ということは間違いなく藤井も同様だ。周囲がAIの候補手がどうだとか騒いでいたが、2人では結論が出ていたのか。だから感想戦で最終盤を検討しなかったのか。レベルがあまりにも高すぎないか。
藤井最後の王手ラッシュは怖くなかったの?
「詰まないのを読み切っていたつもりでしたが、相手が相手なので震えてました(笑)」
いやいやいや、あなた、落ち着いていたから。そうは見えませんから。
藤井はいくつもの罠をしかけた。普通の棋士なら△5三銀ではなく玉を引いて寄せられただろう。▲6四桂には妥協して△同銀と取って逆転されていただろう。1分将棋であの王手ラッシュを逃げ切れる棋士もそういないだろう。藤井だから厳しく正しく追い上げられた。伊藤でなければ勝てなかった。
「怪獣がもう一体現れたようなもん」
その週の日曜日、柏将棋センターで子供教室が終わった後、わが師匠・石田和雄九段との話題もずっと叡王戦のことだった。
「伊藤君は強いねえ。あの銀打ちから銀引きは、大山先生の二枚腰といった感じで。受けが持ち味なんだねえ」
ふふふ、師弟で同じ感想ですか。
別のベテラン棋士に話を聞いても、第一声はこうだ。
「あのと金使いは大山将棋を彷彿させるね」
そして、藤井の不敗神話が崩れたことによって、今後どうなるか、他のトップ棋士も奮起するかという話題になり、「あまりにもレベルが高すぎて、八冠の一角を崩したとか、後に続けとか、そういう感じじゃないよね」。
続けて「むしろ、怪獣がもう一体現れたようなもんだよね」。
そう、まさにそれ。二体の怪獣がともに21歳なのだから、ふたりで20代のうちにどれほどタイトルを獲得するのだろうと思ってしまう。
常磐ホテルからバスで駅に向かう。窓に目をやると、ホテルのスタッフの方が見えなくなるまで手を振っていた。また名局が名宿に刻まれた。次に大勝負が甲府にやってくるのは、いつになるだろう。
(勝又 清和)
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