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10歳の時に父親が脳出血で倒れて要介護に、学校では「局部画像を撮られて女子にメールで送られる」壮絶イジメ…濱井正吾(33)を学歴厨にした“不幸すぎる学生時代”

文春オンライン / 2024年7月14日 11時0分

10歳の時に父親が脳出血で倒れて要介護に、学校では「局部画像を撮られて女子にメールで送られる」壮絶イジメ…濱井正吾(33)を学歴厨にした“不幸すぎる学生時代”

©志水隆/文藝春秋

「9浪」つまり9年間の浪人生活の末に27歳で早稲田大学教育学部へ入学し、2022年に卒業、現在は大学院入試に向けて再び浪人生活に入った濱井正吾氏(33)。

 浪人専門家「9浪はまい」として教育や受験情報を発信するが、彼が9年間という長すぎる浪人生活を送ることになったのは、小さい頃に植え付けられたコンプレックス、そして高校時代に野球部の同級生から受けた苛烈なイジメが影響したという。濱井氏に、幼少期の環境や壮絶なイジメ体験を聞いた。(全3本の1本目/ 2本目を読む )

◆◆◆

父親が脳出血で倒れ要介護になり、家庭は年収180万に

――濱井さんは18歳から27歳までの9年間を「浪人」として過ごしていますが、子どもの頃から学歴へのこだわりが強かったのですか?

濱井 実は高2の終わりまで、東大と早稲田以外の大学を知らなかったんです。それまで、大学進学を考えたことは一度もありませんでした。

 というのも、私が生まれたのは兵庫県丹波市という山間部です。親族や周囲には大卒者が1人もおらず、「大学生」という生き物を見ないまま育ちました。父は郵便局員で、田舎では裕福な家庭だったと思いますが、私が10歳のときに父が半身不随になりまして。

――ご病気ですか? 

濱井 脳出血で倒れて要介護度5になり、その後亡くなるまでの18年間は寝たきりでした。父がいるのは基本的にリハビリ施設か病院で、家に帰るのは「外泊」。ある日を境に、母と私、弟、妹の母子家庭状態になったんです。

――生活が一変したんですね。

濱井 母がパートで働きましたが収入は激減して、年収は180万円ほど。私が早稲田に入ったあとも200万を超えたことは1度しかなく、親戚には「おまえは長男やし、高校を出たらこの家でお母さんを助けてあげなあかん」と言われ続けました。自分でもそれが当然で、高卒で働くんだろうと思っていました。

 それでも、周りが「かわいそうや」と洋服やゲームソフトをくれたりしたので、貧しいとはあまり感じていませんでした。

――では、それなりに楽しい子ども時代でしたか。

濱井 楽しいというよりは、いろんなことを知らなすぎて、全てがフワフワしていたような気がします。都会と田舎の違いや、勉強する意味などは考えたこともありませんでした。「こうなりたい」と憧れる大人もいなくて、好きなものはゲームと野球。「将来はゲームクリエイターか野球選手になりたい」と漠然と思っていました。

偏差値60の高校を勧められたが、母の意向で偏差値40の商業科に

――小中学生の時の成績はどうでしたか。

濱井 親や親戚に怒鳴られて育ったせいか、「周囲に怒られないために」という理由で、勉強はわりと真面目にやっていました。中3時の成績は学年52人中で10番くらい。悪いほうではありませんでした。

 でも、勉強への意欲はないんですよ。父は寝たきりで、どうせ高校を出たら働くんだし「なぜ勉強しなきゃいけないんだ」と思っていたので。

――親や親戚から「いい学校へ行け」とは言われなかった?

濱井 まったく言われなかったです。周りは「高校卒業すれば御の字や」という雰囲気でしたから。

 中3で高校を選ぶときも、先生には偏差値60くらいのK高校を勧められたんですが、母は「K高に行ったら進学しかできひんけど、隣の市のS高なら進学も就職も選べるで」と、偏差値40の商業科を勧めてきました。しかも推薦で入れると聞いて、S高を選びました。

――お母さんの助言は、素直に納得できましたか。

濱井 はい。親の言うことは正しいだろうと思っていたので、抵抗感はなかったです。それに、当時の私は学歴や偏差値という言葉も理解があやしいレベルで、人生に「大学に行く」という選択肢がありませんでした。大学はファンタジーの世界というか、完全に他人事だったんです。

「自分はいるだけで他人を不快にさせるダメな人間だ」

――大学は他人事。

濱井 そうですね、周りに大学生もいなかったですし。それに当時は、自分の夢を語るのはダメなことだと思っていました。

 小学生の頃に「ゲームクリエイターか野球選手になりたい」という夢を親戚に話したら、すぐに「無理や」「おまえになれるわけないやろ」とバカにされて。そういうことが重なり、中学生になると「やりたいことを話すと否定される、怒られる」と思うようになっていたんです。

――お母さんからもよく怒られましたか。

濱井 「~~はダメだ」「~~しちゃいけない」という言い方はよくされました。今振り返ると、当時は父の介護や収入減など心労が重なり、母もメンタルが不安定だったと思います。

 でも、子どもだった私は言われたことを鵜呑みにして「自分はいるだけで他人を不愉快にさせる、ダメな人間だ」と思い込みました。自己肯定感が低かったので反抗期もなく、偏差値の低い高校に行くことも抵抗感はなかったです。

――自然と選択肢が狭まっていった。

濱井 当時はわかりませんでしたが、今なら周囲の環境によって夢への道を絶たれていたとわかります。

 地元は保守的な地域で横並び意識が強く、外に出る人も少ない。それに親族は誰ひとり教育に関心がないので「成績が悪くても高校を卒業できればいい」「大学は金がかかるし行く必要はない」という考えでしたし。

――濱井さんが長男であることも足かせに?

濱井 間違いなく大きな足かせでした。「長男は家を守って親孝行すべし」という価値観が根強い地域なんですよ。しかも、うちは父が倒れてますから「家族を支えるべき立場であるおまえは、外に出てはいけない」という空気もありました。

高校生活は「人生最悪の時期でした」

――S高校に進学後、状況は変わりましたか?

濱井 人生最悪の時期でした。私は今でも高校選びは失敗だったと思っています。当時のS高は偏差値40で大学進学率が1割未満、しかも勉強する人をバカにする雰囲気が強くありました。「勉強するのはカッコ悪い」と思っている人間ばかりで、話題といえば酒・タバコ・女ばかりでした。

――未成年ですよね……?

濱井 未成年ですが、そういう生徒は多かったです。

 特に私が入った野球部は酷くて、本当に下劣な人間の集まりでした。万引きする生徒も多くて、一緒に万引きしようと誘われたのを断ったら、イジメのターゲットにされました。一番酷かったのが「失神ゲーム」。息を10秒止めて10秒吐いたあと、壁にガッと押し付けられると、本当に失神するんですよ。意識が戻ると、みんなが自分を見下ろして笑っていて。

――完全に暴力ですね。

濱井 あとは、遠征試合で打てないとホテルのロビーを裸で歩かされたり、駅のホームで上半身裸のまま空気椅子をさせられたり。ケータイを奪われて服を脱がされ、局部画像を撮られて女子生徒にメールで送られたこともありました。

――酷いですね。

濱井 そういう高校だったので、普通に授業を受けて課題を出すだけでも「なに勉強してんねん、おまえアホちゃう」とバカにされました。成績トップの生徒も「あいつ、勉強しかできひん」と言われてましたし。

――勉強をするとバカにされる。

濱井 10代の私は今よりも空気を読むのが苦手で、行動がワンテンポ遅れたり、会話のキャッチボールがうまくできなかったんです。そのせいか「おまえ、ガイジやろ」などの差別発言もよく浴びました。テストでわざと悪い点数を取ってイジメの標的にならないようにしたこともありましたが、一度狙われたら終わりでした。

「なんで大学行かへんの? 行けばええやん」と

――部活を辞めようとは思いませんでしたか。

濱井 親族から「運動せん奴はダメや」と言われていたんです。でも高2の秋に精神的に限界がきて、部活に行くと動悸が起きたり涙が止まらなくなり、仕方なく退部しました。

――その後の学校生活はどうでしたか。

濱井 学校には通っていましたがやる気を失い、家ではオンラインゲームにのめり込みました。そこで知り合った仲間に、同志社大学の学生がいたんです。それが、私が初めて接した「生きている大学生」でした。

 地元で働く未来に絶望していると彼に相談したら「なんで大学行かへんの? 行けばええやん」と言われて、私の人生にも「大学受験」という選択肢があることに初めて気づいたんです。今もその瞬間を思い出せるくらい、革命的でした。

――地元を離れる未来がそのときに見えた。

濱井 自分をイジメた奴らがいる地元で働くのは、完全に無理でした。田舎は狭いのでいずれ顔を合わせるし、そこでまた高校時代のヒエラルキーを持ち出されるかと思うと、本当に絶望しかなくて。

 でも「地元を出て大学に行けば、イジメた奴と別の場所で生きられる」というのは、大きな希望でした。それに野球部を辞めたのとオンラインゲームを始めたのは、初めて自分から起こした行動だったので、親や親戚からの鎖は断ち切れるという成功体験になったんです。

――進学ではなく、別の場所で就職という手もあったのでは?

濱井 もちろんそれもあったのですが、学校時代の記憶が一生暗いままで終わってしまう……という思いがありました。小・中は楽しかった、でも高校は暗黒だった。だから「大学」という楽しい記憶を上書きしたかったんです。

 あと、イジメた奴らを見返したくて。奴らには一生到達できない場所まで行きたい、それは「大学進学」しかない、と。そこで情報処理検定の資格推薦を使って、現役で大阪の私大に入ることができました。ところが、これが9年間続く浪人生活の始まりでした。

〈 「本気で言うてんの? みんな働いてんねんで」5浪目に突入した息子(33)に年収180万家庭の母親が言い放った一言《地方×底辺校×貧困家庭の三重苦》 〉へ続く

(前島 環夏,濱井 正吾)

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