1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. ライフ
  4. ライフ総合

「本気で言うてんの? みんな働いてんねんで」5浪目に突入した息子(33)に年収180万家庭の母親が言い放った一言《地方×底辺校×貧困家庭の三重苦》

文春オンライン / 2024年7月14日 11時0分

「本気で言うてんの? みんな働いてんねんで」5浪目に突入した息子(33)に年収180万家庭の母親が言い放った一言《地方×底辺校×貧困家庭の三重苦》

©志水隆/文藝春秋

〈 10歳の時に父親が脳出血で倒れて要介護に、学校では「局部画像を撮られて女子にメールで送られる」壮絶イジメ…濱井正吾(33)を学歴厨にした“不幸すぎる学生時代” 〉から続く

「9浪はまい」こと濱井正吾氏(33)は、18歳から27歳までの9年間を浪人として過ごした。関西の私大2校に通った時期もあったが、それはあくまでも“仮面浪人”。 

「地方在住・底辺高校・貧困家庭」という三重苦から自分の境遇を恨み、学歴コンプレックスを「完全にこじらせた」時期のすさまじい生活ぶりを聞いた。(全3本の2本目/ 3本目を読む )

◆◆◆

 

「おまえらみたいなサルがいるから、この大学はダメなんじゃ!」

――濱井さんは「9浪」と言いつつ、2009年にストレートで大阪の私大の経済学部へ入学しています。“憧れ”の大学生活はどうでしたか。

濱井 実は入学後すぐ、その大学に失望してしまったんです。というのも、学生たちがうるさすぎて授業が聞き取れないし、教授には「おまえらみたいなサルがいるから、この大学はダメなんじゃ!」と怒鳴られるし……屈辱でしたね。地元を出て高校の下劣な奴らと離れたのに、また同じレベルの人間に囲まれた気がして。

――これじゃ、高校時代と変わらないと。

濱井 はい。あと、他大の学生はどんな雰囲気かを確認したかったので、インカレサークルに入ってみたんです。

 そこで知り合った京大や同志社の学生はみんな優しくて、物事の考え方も多面的で、自分の周りにいた学生と全く違うことに心底驚きました。高校までは怒鳴られた記憶しかなかったので、人と接することに恐怖感があったのですが、京大や同志社の学生は「悩みがある人にはよい面を見つけて励ます」というコミュニケーションをしていました。「励まされると人は自信が持てるんだ」と知り、愕然としたんです。

 自分もこんな素晴らしい人たちに近づきたい、それにはもっと高い偏差値の大学に行こうと思い、入学から1カ月経つ頃には仮面浪人を決めました。ただ、当時の私の学力は酷いもので、英文は「I are」と書くほどでしたから、2年勉強して他大に編入する計画を立てました。 

龍谷大に編入し、「授業が聞こえる! なんていい大学なんだ」

――努力が実り、実際に2年後には龍谷大学の経済学部現代経済学科へ編入しています。20歳で2度めの大学生活はどうでしたか。

濱井 龍谷大学に入ったときは本当に感動しました。周りの学生の人間性が根本的に違うんです。みんな真面目で知識もあるし、授業中も静か。「これが求めていた大学なんだ……」と感極まって、涙が出たこともあります。龍谷大には嫌な思い出はひとつもありません。

――でも、浪人生活はその後も7年間続きますよね?

濱井 龍谷大では、私ひとりだけが周りの学生についていけない感覚があったんです。たとえば教授が「これは微分だから高校でやってますよね」と言っても、私は高校数学を二次関数までしかやっていないので、「微分」という言葉自体を知らない。そういうことが無数にありました。

「龍谷大に入った時点でも、かけ算わり算が怪しかった」

――高校の授業で範囲が終わらなかった?

濱井 高校の授業では、教科書を最後まで終わった科目がひとつもありません。偏差値40の商業科だったので仕方ないのですが、国語は3年間古文漢文をやらず、日本史は江戸時代に入る前まで。英語は毎年教科書20ページも進まず、それでも進級すると新しい教科書に変わるので、わけがわからないまま新学年の授業を受けるんです。物理は科目の存在すら知りませんでした。

――その状態で大学に入ると、苦労するでしょうね……。

濱井 勉強ができない人がよく「何がわからないのかわからない」といいますが、まさにその状態です。一般受験で龍谷大に入った生徒には当然の基礎知識が、私にはほとんどありませんでした。

 なので授業で発表してもまともに話せず、周りとの差がどんどん開くばかり。それがショックで「編入で滑り込んだ自分と、一般入試で受かった他の学生は違う。自分はここで求められる知的レベルに達していないんだ」と落ち込み、勉強を再開しました。

――龍谷大の環境には満足しながらも、仮面浪人として3浪、4浪の時期に。

濱井 はい。龍谷大に入った時点でも、数学の中3の問題集が解けないレベルでした。実はかけ算やわり算でさえあやしかったので、小学校低学年レベルに戻る必要がありました。それなのに最初の大学も龍谷大も、数学知識が必要な経済学部。ついていけないのは当然です。

 そもそも高校と最初の大学は推薦入学、龍谷大は編入なので、受験勉強のやり方が全然わからない。お金もないので塾にも通えず、学力は全然上がりませんでした。

――大学4年のときは就職活動をしたのですか?

濱井 「せっかくの新卒カードを使ってみるか」と関西を中心に80社ほど受けましたが、全て落ちました。就職すれば地元に戻らずに済むと思っていたのに受験も就職もできず、ようやく10月に証券会社に内定が決まったのものの、正社員ではなく契約社員で……卒業までは失意の日々でした。

高卒社員から「大卒なのにこれも知らんのか」と逆学歴マウント

――卒業後はどうしたんでしょう。

濱井 浪人生活の継続は決めていましたが、最初の会社は業務時間が長く勉強時間がとれなかったので、別の地元企業に転職しました。でも、地元では大卒者は超希少種ですから、それに対する嫉妬で〈逆〉学歴マウントされるんですよ。

――逆学歴マウント?

濱井 そうです。高卒の上司から「おまえ大卒なのにこんなんも知らんのか」など、散々バカにされるんです。私をイジメた奴がいる地元で働くだけでも悔しいのに、学歴があることで余計ボロクソに言われる。

 しかも当時は「実力がないのにまぐれで編入したから、自分は龍谷のレベルに達していなかった。それで〈大卒〉なんて胸を張れない」と卑屈になっていました。そうするとさらに視野が狭くなり、仕事でもミスするし、勉強にも集中できず、負の連鎖でした。

 そこで「地元の人でも驚くような大学に行くしかない」と思うようになったんです。これが23歳、5浪めのときです。

――龍谷大学は十分に有名な大学だと思いますが……。

濱井 私もそう思いますし、本当にいい大学でした。ただ私の地元は「東大と早稲田」ぐらいしか知らない人も多いんです。自分自身も、高校時代は京大すら知りませんでしたし。

 だから東大か早稲田に行けば、自分のコンプレックスは解消するのではと思いました。それに早稲田は私の好きな斎藤佑樹選手の出身校だったので、第一志望に決めたんです。

完全にこじらせた「関関同立、GMARCH以下は意味ナシ」

――ご家族は、濱井さんの3回目の大学受験にどんな反応でしたか。

濱井 私がまた受験勉強を始めたことがわかると、家族とは一気に険悪になりました。母は「本気で言うてんの? みんな働いてんねんで」と。確かに同級生はもう働いていたし、大卒という学歴は既にある。家族にしたら「これ以上何したいねん」という思いだったのでしょう。居間の壁に暗記用のメモを貼ったり、食卓で単語帳を見ている私に「もうやめてくれ」と怒っていました。

――四面楚歌ですね。

濱井 完全に浪人をこじらせてしまいました。就職したのは受験費用を貯めるためと「無職だと地元で世間体が悪い」という理由でしたが、働いてからコンプレックスはより根深くなり、自己肯定感は地の底に落ちました。

 この頃には完全に学歴厨になっていました。だって、何浪してでも早稲田に入りたい人間が「学歴がすべてじゃない、もっと下の大学でもいい」というのは、嘘があるでしょう? 

――確かにそうですね。

濱井 それで「第一志望は早稲田。関西なら最低でも関関同立、東京ならGMARCH以上じゃないと大学に行く意味がない」と思い込むようになりました。今振り返ると、完全にコンプレックスです。龍谷大が悪いわけじゃなくて、自分で自分を認められなかった。有名大に一般入試で合格すれば、そこで初めて自分を誇れると思いました。

 同時に「周りからすごいと思われたい」「私を下に見る奴らの上に立ちたい」という、栄誉心やどす黒い気持ちがあったことも否定しません。

――フルタイムの仕事をしながら受験勉強を再開したのですか?

濱井 そうです。日中は仕事、夜は予備校でしたが、両立は地獄でした。営業で毎日車を200kmくらい運転していたので、夜の予備校の授業では疲れ果てて目が開かないんです。

 社会人1年めの5浪時は学力が伸びずに受験できず、6浪で初めてセンター試験を受けたものの39%しか取れず出願なし。7浪めの年に貯金が300万円貯まったので退職し、受験勉強1本に絞りました。でも、その年もセンターが49%で出願しませんでした。

――早稲田を受けるところまでも辿りつかなかった。

濱井 学力的に、受けること自体が非現実的なレベルでした。基礎がないので全科目を本当にイチからやり直したんですが、「がむしゃらにやるぞ!」と勘違いして〈英・国の辞典を1ページめから丸暗記しようとして挫折〉〈公式を意味も分からず丸暗記しようとして挫折〉〈同じ参考書を60周やり続ける〉〈英文をエキサイト翻訳にかけて訳文を丸写し〉など、的外れな勉強法ばかり……。当然、学力は伸びませんでした。

――その頃、ご家族との関係は?

濱井 険悪を越えて最悪で、応援する雰囲気はゼロでしたね。でも、私も「結果を出すしかない」と意地になってしまって。母には何を言っても怒られるので、完全に無視していました。

――弟さん、妹さんも同居していたんですよね。

濱井 きょうだいとも会話はほぼゼロでした。しかも弟と妹は、高卒で就職しているんです。彼らは「大学は興味なかった」と言っていますが、年収180万の家庭で長男が私大に行ったので、進学を遠慮したのかもしれません。

 それなのに、兄は懲りずにまた受験しようとしている。心中穏やかじゃなかったと思います。私の進学は、家族の負担と遠慮のうえに成り立っています。このことはずっと負い目で、家族には本当に申し訳なかったと今も思っています。

8浪めで6大学・11学部受けてまさかの全落ち

――8浪め、26歳のときは、かなりの数を受験したんですよね。

濱井 その頃はメンタルが完全に崩壊していました。予備校にいるのは現役生ばかりで、浪人生といっても1浪ぐらい。26歳の8浪なんて誰もいないんです。私から見ると1浪は10代なので、ほぼ「現役」。大きな溝があり、予備校内でも私ひとりが浮いていました。

 しかも成績がなかなか上がらず、講師からも「大学は行かなくてもいい」「おまえなんか受験をやめてしまえ」と言われて。この年は同志社、明治、上智、早稲田、慶応、阪大を11学部受けて、全落ちしました。

――8浪めで11落ちはダメージが大きいです。

濱井 本当に落ち込みました。親戚からも「おまえみたいなもんが早稲田に行けるわけない、おまえがやってることは親不孝やと気づけ!」「才能ないから早く諦めろ」など、散々な言われようで……もう、自分を取り巻く全てを逆恨みしました。

――逆恨み?

濱井 そうです。酷い責任転嫁ですが「あの日、父親が倒れなければ」「親が教育に関心があり、もっとお金をかけてくれれば」「あんな高校に進学させられなければ」など、8浪の原因を親のせいにして恨み、悪口を言うことでしか発散できませんでした。そして9浪め、現状を打破しようと、京都の予備校に入って一人暮らしを始めることにしたんです。

〈 27歳・9浪めでついに早稲田大に合格 濱井正吾(33)「学歴コンプレックスを克服した」はずが、まさかの“10浪目”に突入した意外な理由とは 〉へ続く

(前島 環夏,濱井 正吾)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください