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「想像を絶する衝撃で、人間の頭や首が引きちぎられ…」520人死亡の“凄惨な飛行機事故”生存者4人が奇跡的に助かったワケ

文春オンライン / 2024年7月20日 17時0分

「想像を絶する衝撃で、人間の頭や首が引きちぎられ…」520人死亡の“凄惨な飛行機事故”生存者4人が奇跡的に助かったワケ

焼け焦げた JAL のマークの入った主翼が痛々しい=1985年8月13日、群馬県上野村の御巣鷹の尾根(写真提供・産経新聞)

〈 「バラバラの遺体は手足がなく、頭蓋骨が潰れ…」520人が死亡した“最悪の飛行機事故”はなぜ起きてしまったのか? 〉から続く

 約40年前に発生した、日本の民間航空史上最悪の事故「日航ジャンボ機墜落事故」。1985年8月12日午後6時56分過ぎ、日航123便は乗客乗員524人を乗せ、群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落した。520人が死亡し、助かったのは女性4人だけだった。

 墜落事故当時、日航の技術担当の取締役だったのが、松尾芳郎氏だ。松尾氏は事故原因とその背景について知る第1人者で、墜落事故後、群馬県警の厳しい取り調べを受け、業務上過失致死傷容疑で書類送検されている(結果は不起訴)。

 松尾氏は、群馬県警の取り調べの内容やその実態、墜落事故の関係資料をファイルにまとめていた。そのファイルを引き継いだのが、ジャーナリスト・木村良一氏だ。

 ここでは、木村氏が、松尾氏のファイルをもとに取材を重ね、事故の真相に迫った書籍『 日航・松尾ファイル-日本航空はジャンボ機墜落事故の加害者なのか- 』(徳間書店)より一部を抜粋。生存者の4人は、事故後にどのような証言をしていたのだろうか?(全2回の1回目/ 前編 を読む)

◆◆◆

生存者の落合さんと職員との「1問1答」

 8月16日の夕方、日航アシスタント・パーサーの落合由美(生存者のひとり)は報道陣のインタビューにも応じている。ただし、落合本人が直接答えたのではなく、報道陣に代わって入院先の多野総合病院(現・公立藤岡総合病院)の職員が質問してそれに落合が回答したものだった。報道各社に公開された、落合と職員との「1問1答」の録音内容のなかから主なものを拾ってみよう。

――いまの体調や気分はどうですか?

「気分はいいです。ただ腰がちょっと痛い」

――異常が起きたときに機内で絶叫や悲鳴はありましたか?

「はい、ありました。子供たちは『お母さん』と言ってましたし、パニックでしたので『キャー』という悲鳴ばかりです」

――急降下のとき、飛ばされたり、手荷物が吹き飛んだりしましたか?

「衝突防止姿勢で自分の足首をつかんで頭を両ひざの間に入れていましたから。下を向いていたので、周りの状況はよく分からないんですけど、みんなその格好でいたようです」

――墜落したとき、どんな気持ちでしたか?

「助からなければいけないと思いましたけど、体が動かなくてどうしていいか分からないという状態でした」

――なぜ助かったと思いますか?

「分かりません」

――墜落後、眠り込むまでどんな気持ちでしたか?

「口の中に砂が入ってくるので息苦しくなるから、自分の顔をちょっとでもそういうことのない方向に動かすのに精一杯でした。あとはノドがかわいて。ヘリコプターの音がしてずっと手を振っていたのですけど。気が付いてもらえなかったのか、ここまで来ることができないのか、と思いました」

――翌朝、救急隊員に起こされたときの気持ちはどうでしたか?

「『大丈夫だぞ』というふうに叫んで下さったんですけど、もう体が痛くて本当にこのままどうなるんだろうか、まだはっきり自分では分からない状態でした」

「励ました直後に血を吐いた」父・母・妹を失った12歳の生存者の証言

 さらに事故から1週間後の8月19日には4人の生存者のうちの1人で、12歳の中学1年生の川上慶子=島根県簸川郡大社町(現・出雲市)=のインタビューも入院先の国立高崎病院(現・高崎総合医療センター)の看護婦長を通じて行われた。

 落合由美のインタビューと違ってテレビカメラが病室内に入って映像を撮った。川上は生存者のなかで症状が一番軽く、時折笑顔を見せながら話していたが、それでも左前腕を骨折し、右前腕の筋肉も切断して神経が麻痺していた。右腕には痛々しく添え板があてられていた。

 川上の座席は機体最後部の60​Dだった。いっしょに乗っていた父(41)と母(39)、それに小学1年生の妹の咲子ちゃん(7)を失っている。見舞いの親類に「墜落直後は父と咲子が生きていた。咲子に『帰ったら私と兄とおばあちゃんの4人で仲良く暮らそうね』と励ましたその直後に血を吐いた」と語ったことなどがすでに報じられていた。

「『バリッ』といって穴があいた」

――「バーン」という音がしたとき、飛行機のなかで何が起こったの?

「左後ろの壁、上の天井の方が『バリッ』といって穴があいた。いっしょに白い煙みたいなものが前から入ってきた」

――そのとき何か考えましたか?

「怖かった。何も考えなかった」

――シートベルトはしていたの?

「したままだった」

――落ちて最初に気付いたときの様子は?

「真っ暗で何も見えなかった」

――お父さん、お母さん、妹の咲子ちゃんのことは覚えている?

「咲子とお父さんは大丈夫だったみたい。お母さんは最初から声が聞こえなかった」

――明るくなって見たのはなに?

「木とか太陽が差し込んできた。それに、寝転がったみたいになっていたから、目の前にネジのような大きなものが見えた」

――ほかに何も見えなかった?

「隣に何かタオルみたいなものが見えて、お父さんが冷たくなっていた。左手が届いたので触ったの」

――助けられたときは何を思った?

「お父さんたち、大丈夫だったかなあとか」

――ヘリコプターでつり上げられるときの気持ちは?

「出されるときね。妹の咲子がベルトで縛られているところが見えたから『大丈夫かな』と思った」

「ママ眠っちゃダメだよ。死んでしまうよ」

 落合由美、川上慶子に続いて長女とともに助かった34歳の主婦、吉崎博子(兵庫県芦屋市)は8月21日午後、事故の様子を実兄の質問に答える形で語り、その録音テープが報道陣に公開された。吉崎は夫(38)、長男(9)、長女の美紀子(8)、次女(6)の4人といっしょに東京の実家からの帰りに事故に遭い、夫、長男、次女を失った。座席は54​Fで、美紀子が54​Dだった。

 パニック状態の機内で夫が「眼鏡をかけたままではケガをする」と心配してくれたことや、墜落後に美紀子に「ママ眠っちゃダメだよ。死んでしまうよ」と励まされたことなどが親類への取材によってすでに報じられていた。吉崎博子は多野総合病院に入院した後、都内の東京慈恵会医科大学附属病院に転院している。公開された録音テープの内容は次の通りだ。

吉崎さんが語る、墜落前後の様子

――機内の様子は?

「私は眠っていたが、ドーンという音と同時に白っぽい煙と酸素マスクが出てきた」

――乗客の様子は?

「酸素を吸うので精一杯だった。(酸素マスクの)数は十分だったと思うけど、我先に取り合っていた」

――子供の様子は?

「ゆかり(次女、死亡)は気分が悪く、マスクをしながら『あげそう』と言った。ゴミ袋をあてると、少しもどして真っ青で気を失った」

――墜落のときの気持ちは?

「ジェットコースターに乗ったような感じだった」

――ぐるぐる回ったりした?

「回ったりはしない。景色が次々、変わっていった。充芳(長男、死亡)はしっかりマスクをあてていた。お父さんが『子供がいるからしっかりしろ。うろたえるな』と言ってた」

――墜落の様子は?

「何回かに分けて落ちて行った。これが結構長かった。耳鳴りがしてよく聞こえなかったが、機内では赤ちゃんの泣き声がした」

――機内の放送は?

「『救命胴衣をして頭を両足の中に入れて』と放送があったが、美紀(長女の美紀子、生存)は救命胴衣を着けられなかった」

――墜落のとき、何を考えたか?

「絶対に無事に着くと思った。どこかが故障したぐらいに思った。スチュワーデスは『大丈夫、大丈夫ですから』と言っていた。不時着する覚悟でいた」

――落ちたときの様子は?

「美紀の声だけが聞こえた。それも夢かもしれない。眼鏡をはずしていたので見えなかった」

――いまの気持ちは?

「元気になりましたから、がんばって生きます」

4名とも墜落激突時に発生した強度の衝撃によって…

 以上が生存者4人の証言である。計524人(乗客509人、乗員15人)中、助かったのはわずかこの4人だけだった。0.76%の生存確率である。墜落事故から2年後の1987年6月19日に公表された運輸省航空事故調査委員会の事故調査報告書のなかにある「生存者の受傷の状況」の項目(24ページ)にはこう記されている。

〈生存者は乗客4名(全員女性)のみであり、いずれも機体後部の座席列番号54から60、左側及び中央部の座席に着席していた〉

 日航123便(JA8119号機)は最初に1本カラマツ(仮称)とU字溝(同)に接触して機体に残っていた垂直尾翼や水平尾翼、エンジンなどを落とした後、機首と右主翼を下に向けた状態で機首から山肌に墜落した。機体後部は墜落の衝撃で分離し、スゲノ沢第3支流側の斜面を滑り落ちた。

〈4名とも墜落激突時に発生した強度の衝撃によって部位の相違はみられるが骨折が認められ、程度の差はあるが外傷性ショックに陥っており、全治2箇月から6箇月の重傷であった〉

4名はなぜ助かったのか

 4人が奇跡的に助かった理由について調査報告書は「乗客・乗組員の死傷についての解析」の項目(121~122ページ)のなかで、〈4名とも後部胴体の後方に着座しており、数10G程度の衝撃を受けたものと考えられるが、衝突時の着座姿勢、ベルトの締め方、座席の損壊、人体に接した周囲の物体の状況等がたまたま衝撃を和らげる状況であったために、また、床、座席、ギャレイ等の胴体内部の飛散物との衝突という災害を受けることが少なかったこともあって、奇跡的に生還し得たものと考えられる〉と分析している。

生存者さえ体重の数10倍で圧迫された

 一般的に航空機が墜落するとき、機首から山などに激突するか、あるいは尾部から落下するかなど墜落時の機体の姿勢によって搭乗者の受ける衝撃は違ってくるし、山の木々がクッションとなって衝撃が和らいで助かるケースも過去にはある。だが、「数10G程度の衝撃」はかなりの力である。

 このGとは衝撃加速度(衝突時に加わる力)のことである。Gが加わる方向には前方、下方、側方、上方とあり、さらにジェットコースターやエレベーターで下降するときに体が浮くように感じるときのマイナスGもある。もちろん、同じGでもその継続時間によって衝撃度は変わってくる。数10Gの衝撃とは、簡単に言えば、私たちが生活している地上の重力が1Gだからこれの数10倍、つまり自分の体重の数10倍もの重石がのしかかってくる圧迫である。

 旅客機の離陸時のGは1.2Gほどで小さいが、筆者が産経新聞記者時代に防衛庁(当時)記者クラブに所属していたときの経験談を述べると、航空自衛隊のプロペラ練習機T​3(縦列複座の単発レシプロ機、富士重工製)に搭乗してゆっくりループ(円を描く宙返り)飛行をすると、3​Gはかかった。一瞬だが、3Gでも体が動かなくなったから数10​Gとなると、やはりかなりの衝撃度である。

 もちろん、T3の操縦は教官が行った。「6 飛行機の夢」でも説明したが、レシプロとはレシプロ・エンジン(ピストン・エンジン)の略で、レシプロ機は自動車のエンジンと同じようにピストンの往復運動を回転運動に変え、それによってプロペラを回して推力を得る。

即死した乗客乗員

 事故調査報告書によると、機体の前部胴体は墜落時に原型をとどめないまで大破し、その中にいた乗客乗員は数100Gもの衝撃を受けて即死した。後部胴体の前方座席の搭乗者も100Gを超す衝撃を受け、即死に近い状態だった。数100Gや100Gというと、人間の体は頭や首、胴体、手足がバラバラに引きちぎられてしまうような想像を絶する衝撃度である。火災も発生していたから即死後に焼けて炭化した遺体も多かった。

(木村 良一/Webオリジナル(外部転載))

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