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「悪魔になろう。世間から憎悪され抹殺されるような存在に」成田悠輔が東大生に語った“教育論”《特別講演録》

文春オンライン / 2024年7月11日 17時0分

「悪魔になろう。世間から憎悪され抹殺されるような存在に」成田悠輔が東大生に語った“教育論”《特別講演録》

東京大学で講演した成田悠輔氏 ©文藝春秋

東京大学の学園祭(五月祭)で、経済学者・ 成田悠輔氏の講演 が行われた。当日の成田氏から発せられた第一声は「穏当」とはかけ離れた、刺激に満ちたものだった――。

◆◆◆

透明性と多様性の衝突

 悪魔になろう。世間から憎悪され抹殺されるような存在に。でもいきなりそんな話を東大五月祭ですると、怒りだす人が出そうです。この講演会場の外では拡声器で私の存在に抗議している人もいるようですし、ふつうで真面目な話から始めましょう。準備運動です。

 それはそうと、眠いです。今も昔も睡眠障害気味で、朝起きることができず、遅刻ばかりしています。今も午前中の予定はほとんど入れませんし、中高生の頃はほとんど授業に行かず、行っても机に突っ伏して寝てるだけでした。

 だから他人に教育論を語れるような立派な人間ではないのですが、何を勘違いされたのか日本の教育について話してほしいと依頼してくる方がちょくちょくいます。今回もそうです。東大のような日本のエリート高等教育について話してほしい、と。だから私なりの認識と指針を描いてみたいと思います。ただ、珍しく午前中から起きて眠いので、主観と客観の混じった、エビデンスなのか論理なのか妄想なのかグレーな話ばかりします。どうか疑い深く聞いていただければと。「先生」が間違っていたり無知だったりするのが大学という場所ですから。

 大学教育といっても無数の切り口があります。まずは入り口、「誰を学生として入学させるのか」という大学入試から考えてみましょう。

 入試では2つの欲望が衝突します。透明性と多様性の衝突です。透明性の欲望は「合否の線引きを透明で公平で誰もが納得できるものにしたい」という発想です。いい例がペーパーテストの点による入試で、合格者がどんな基準で選ばれたのか、誰にでも分かる点数で説明できます。どんな生まれの人でも試験の点さえ良ければ逆転できるという公平性もあります。

 しかし透明性には犠牲が伴います。多様性です。「試験の点数みたいな単純すぎる指標に拘わらず多様な学生を採りたい」という欲望ですね。そもそも試験の点はごく狭い能力や知識を測るものでしかありません。五輪でメダルを取っても試験の点には換算されませんし、人の目を気にせず自分の信念に突き進むサイコパス性は測れませんし、TikTokでバズっても1点にもなりませんし、人に愛されるキャラも測れません。だから試験以外に秀でた、多様な才能や性格を大学に取り込みたいと考えるのも自然なことです。

 さらに試験でいい点を取れるのは一部のたまたま頭脳や教育環境に恵まれた子ばかりになることが多いです。アメリカでも日本でも、たまたま生まれ育った環境の貧富がその後の進学先を左右し、教育格差や経済格差が世代を超えて伝播してしまっているとよく嘆かれます。

 だから特にアメリカなどでは対策が講じられていて、不利な人種や性別、家庭環境の出願者を優遇するアファーマティブアクションや多様性施策が行われています。さらにそれ以前から、成績だけでなく面接、高校時代のボランティアや自由研究などの課外活動といった無数の要素を組み合わせて評価する総合的な選抜が行われてきました。

 しかし迷走感も漂っています。日本ではよく「アメリカの大学は多様な人材を集めていて素晴らしい」と雑に言われますが、無数の要素を担当者が評価して選抜すると、合否基準がどんどん不透明になり、差別や偏見が忍び込みやすくなりがちです。結果として「成績が良いアジア系の出願者が逆に差別されている」といった訴訟さえ起きて大騒動になっています。理想郷からは程遠いのです。

東大は勉強バカばかり

 透明化と多様化の欲望をうまく両立させたい。その点で今の東大などの日本の難関大学の入試制度は、そこそこ上手くやっていると私は考えています。昔は東大に入学するには入試でいい点を取るしかなく、「東大は勉強バカばかり」と失笑されてもいました。その東大も2016年度からAO入試(学校推薦型)を始めています。日本全体を見ても、AO入試的な仕組みで大学へ進学する人が、多数派になりつつあるようです。試験の点に基づく透明な入試に多様な総合選抜の要素を流し込み、機能不全を起こすことなく透明化と多様化の二つの欲望を融合しつつあるのです。

 歴史から学んでいるとも言えます。実は世界に先駆けて試験だけに基づくガラス張りの大学入試制度を作った国が日本でした。1902年、当時の文部省が「共通試験総合選抜」を始めます。東大の前身である第一高等学校など7つの旧制高等学校が全校統一の入試を課し、成績順に出願者を志望校に割り振っていく制度でした。最も透明な成績主義を徹底した制度で、その後多くの国が採用する仕組みの先駆けです。

 けれど、この先駆的制度は透明すぎ成績主義的過ぎもしました。旧制高校に合格するために必要な試験の点の敷居が上がってしまい、東京出身の優等生の覇権が高まり過ぎてしまいました。地方出身者や家庭環境に恵まれない人にとって不公平だという反対運動が起き、数年で元々の制度に逆戻りすることになったのです。この教訓を踏まえてか、現在の日本の国立大学入試では、出願できる学校の数に強い制限があり、本入試も学校ごとにバラバラですよね。そうしてノイズやリスクを振りかけることで、成績最優秀層が無双し過ぎないようにしているとも解釈できそうです。明治から続く、透明性と多様性のバランスをとる試行錯誤の終着点だとも考えられるのです。

 ただ課題も山積みです。たとえば性別に関する多様性の絶望的欠如です。学生に占める女性の割合は、2024年度で東大が19%、京大は21%。国会や上場企業の取締役会のような男子校状態が東大・京大などの学生段階から根づいてしまっているわけです。こうした属性の偏りの解消には数10年かかるでしょうし、属性枠(たとえば男女別定員)のような激しい介入なしに自然に解消することは考えにくいでしょう。

無意識のうちに“洗脳”

 いかんいかん、ついふつうの真面目な話をしてしまいました。ここまでは前座で、肝心なのは大学に入ってからです。今日お話ししたいのは、大学に入ると、ふつうで真面目なことばかり考えがちだという問題です。そして成績や単位を揃えてそれらしい就職先を見つけ、業績を上げて出世や転職をするように手と頭が動いてしまう。身も心も“洗脳”にかかってしまうことが、大学の一番大きな問題ではないかと私は思っています。

 東大のような大学に入った皆さんは似たような生き方をしてきた同世代に囲まれます。ペーパーテストで高い点を取るために勉強して、しかも勉強が得意で点数競争に勝利して親や先生から褒められてきた若者たちです。これが危険です。もう蟻地獄の中にいるようなものです。たまたま周りにいた東大生っぽい考え方や進路に気づけば乗っかってしまう準備が整っているのです。ほとんど無意識のうちにです。

当時の私も流された

 東大生が選びがちないかにもな進路というものがあります。私が学生だった2000年代後半は霞が関を目指す人が減って、外資系の戦略コンサルティング会社や投資銀行に行くのが典型的なエリートコースでした。今はIT企業や商社、起業が典型的勝者でしょうか。当時の私も周りの東大生に流され、外資系投資銀行のリーマンブラザーズのインターンに行きました。2008年夏のことで、その数週間後にはリーマンショックが起きてリーマンそのものが倒産しました。いい思い出になりましたし、いい教訓になりました。東大生がこぞって進みたがるような進路は沈みかけの泥舟かもしれない、東大生がある種の業界や進路を好んでいることに深い論理や情熱はなく、あるのは惰性と周囲への同調以上でも以下でもないのかもしれない、と教えてくれたからです。

(本稿は2024年の東京大学五月祭の特別講演を発展させたものです)

本記事の全文は「 文藝春秋 電子版 」に掲載されています(「 もっと対立や嫌悪を 東京大学五月祭講演録 」)。

(成田 悠輔/文藝春秋 2024年8月号)

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