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「勝手にハモらないでくれ!」しかもそんなにうまくない…なぜ人はカラオケで“自己中な行為”をしてしまうのか

文春オンライン / 2024年7月29日 6時0分

「勝手にハモらないでくれ!」しかもそんなにうまくない…なぜ人はカラオケで“自己中な行為”をしてしまうのか

©Paylessimagesイメージマート

 ちょっといけないことをしたとき、ドキドキして心が躍る。意地悪、自己中、復讐にも絶妙な快楽がつきまとう。なぜ、私たちはそんな気持ちになってしまうのだろうか。

 ここでは、そんな問いの答えに倫理学の専門家である戸谷洋志さんが迫る『 悪いことはなぜ楽しいのか 』(筑摩書房)から一部を抜粋。「カラオケで勝手にハモってくる自己中な人」の存在は、どのように説明できるのか――。(全3回の1回目/ 続き を読む)

◆◆◆

勝手にハモらないでくれ!

 カラオケは人間の本性が現れる怖い場所です。みなさんも友達と行ったときには十分に気をつけてください。楽しく歌って盛り上がる分には問題ありません。でも、一歩間違えると、周りから白い目で見られてしまうかもしれません。

 私が遭遇したことのある例を紹介しましょう。ある日、友達とカラオケに行った私は、そこで自分の十八番とも言うべき曲を入力しました。前奏が流れ、昂る気持ちを抑えながらマイクを握り、歌い始めました。ところが、途中から友達が横から割り込んできて、勝手にハモり始めたのです。私はそんな話聞いていません。しかもぶっちゃけそのハモりがそんなに上手くないのです。ただ、だからといって「やめろ」とも言えません。私は結局、そのまま最後まで歌い続けることになったのですが、下手なハモりに邪魔されてうまく音程を取れず、気持ちよく歌えませんでした。いま思い出しても腹が立ちます。

 では、なんでその友達は、勝手にハモってきたのでしょうか。多分、それは私のためではありません。そうではなく、その友達自身が、気持ちよく歌いたくなってしまったからです(実際めちゃくちゃ気持ちよさそうでした)。つまりその友達は、自分自身の快楽のために、私にとっては不快な行動をとってしまったわけです。

 この友達は、紛れもなく、「自己中」だと言うことができるでしょう。なぜなら、この友達は自分の快楽を中心に考えて行動しているからです。何かを中心に置くということは、別の何かを遠ざけるということを意味します。つまり自己中な人は、自分と引き換えに他者――この場合には私――のことを遠ざけ、配慮しようとしなくなってしまうのです。だから自己中は周りの人々から白い目で見られます。

 カラオケの自己中行為は他にもいろいろあります。一度マイクを握ったら離さない。歌いながら端末を操作して自分の曲を次々と入力する。注文した唐揚げに勝手にレモンをかける。歌っている人一人を取り残して全員でトイレに行く。歌っている人がいる傍で大きな声で会話する――あれ、もしかしたら私の心が狭いだけかもしれません。

 いずれにせよ、私たちはこうした自己中な行為を、よくないことだと見なしています。しかし人々は自己中になってしまう。そして自己中な人はとても楽しそう。それはなぜなのでしょうか。

 自己中とは自分を中心に置くことです。しかし、程度の差はあれ、人間は誰であっても自分を中心にして生きています。自分の人生の主人公は自分であり、自分が楽しいと思うこと、自分にとって価値があることを追い求める――それはごく自然な発想です。それの何がいけないのでしょうか。

 考えてみれば、このことは、あらゆる生物に共通する性格であるようにも思えます。どんな生物だって自分の存在を第一に考えています。生きるために食べ、自分の縄張りを作り、場合によっては外敵と戦うのです。そうした生物の行動はすべてが自己中です。言い換えるなら、自己中とは生物の本能のようなものなのです。

 そうだとしたら、自己中がなぜ楽しいのかは、実はとても単純な理由で説明できるのかもしれません。すなわち、それが生物の本能だから、ということです。

平等の弊害

 倫理学の世界では、自己中はエゴイズムと呼ばれる概念で説明することができます。「エゴ」とは「自我」を指す言葉です。常に自分を中心に考え、他者よりも自分を優先させること――それがエゴイズムの基本的な考え方です。

 生物の本能はエゴイズムである――たしかにそうかもしれません。しかし、それなら、そこからは次のような別の疑問が立ち現れてきます。つまり、もしもそれが本能であるなら、なぜ私たちはそれを悪いものだと認識しているのか、ということです。

 近世イギリスの哲学者であるトマス・ホッブズは、人間の本質をエゴイズムのうちに見いだしました。どんな人間だって自分が一番大事なのです。しかし、前述の通り、そんなことを言っていたら、善悪などという概念は説明できないようにも思えます。ところがホッブズは、このエゴイズムこそが、人間の倫理の基礎にあるのだ、と訴えます。

 なぜ彼はそのように考えたのでしょうか。その思考を探るうえで鍵になるのは、彼が人間を、あくまでも生まれながらに平等な存在である、と考えたことです。

 ここでいう「平等」とは、「平等な権利を持っている」ということではありません。「同じくらいの力を持っている」ということです。たとえば人間の身長は、どの人も、だいたい同じくらいです。もちろん、世の中には身長が高い人もいれば、低い人もいます。しかし、そうした個体差は大した違いではありません。たとえば身長に10倍の開きがあるということはありません。どんな人間だって、2メートル弱以下の身長に収まっているのであり、その意味では、だいたい同じくらいの身長なのです。

 知性についても同様のことが言えます。IQには高低差があります。しかし、それも知性の違いとしては、誤差のようなものです。コミュニケーションを取ったり、計算したりするということは、概ね誰にでもできます。ハサミを使って思った形に紙を切る、鉛筆で絵を描く、ということも、ほとんどすべての人が可能です。

 このように、すべての人間が平等――つまり同じくらいの力を持っている――ということは、そこに、絶対的な強者や絶対的な弱者が存在しない、ということを意味します。つまり、人々が互いに争い合ったら、戦いが拮抗してしまい、常に勝ち続けるなんて誰にもできない、ということです。

 もちろん、格闘技のようなルールのもとで戦ったら、話は別です。私は、リングの上では逆立ちしたってプロボクサーに敵いません。しかし、そうしたルールなしで戦うなら、筆者にも十分な勝機があります。そのボクサーの通り道に落とし穴を作ったり、料理に毒を盛ったりすればよいからです。

 体力が劣っていれば知力で補うことができます。それも含めて、人間の能力は平等なのです。各自が工夫すれば自分よりも能力の優れた人を倒すことができます。だからこそ、プロボクサーだって、ボディガードをつけたり、セキュリティ対策のされたマンションに住んだりするわけです。

 かつて、昭和の大スターとして知られたプロレスラー、力道山という人がいました。彼は、日本の「強さ」を象徴する存在でしたが、街のチンピラに刺されて死んでしまいました。もしもリングの上で戦ったら、力道山はそのチンピラを簡単に倒すことができたでしょう。しかし、路上でそうならなかったのは、チンピラが包丁という武器を使ったから、つまり力道山よりも劣っているだろう自分の体力を、技術によって、知性によって補ったからです。

 このように、どれだけ体力に優れた人でも、あるいは知性に優れた人でも、状況によっては誰かに殺されてしまうかもしれません。ところが、誰もが平等であるということは、別の困った問題を引き起してしまいます。それは、誰もが同じような存在だからこそ、同時に誰もが同じようなものを求める、ということです。人間は、だいたいみんな同じような身体の作りをしているからこそ、同じような食べ物を欲するし、同じような住環境を欲するのです。しかし、食べ物や住環境は、無限に存在するわけではありません。するとどうなるでしょうか。当然のことながら、限られた資源の奪い合いが起きてしまいます。

万人の万人に対する闘争

 限られた資源を奪い合う人間同士は、しかし、ほとんど等しい力を持っています。したがってその奪い合いは、明確な勝ち負けのつくことのない、終わりのない戦いへと発展していきます。しかもその戦いは、「私」と同じ資源を求める者との戦いであり、したがってすべての人間に対する戦いの様相を呈するのです。ホッブズは、この状態を「万人の万人に対する闘争」と呼びました。

 そんなことはオーバーだ、と思われるでしょうか。いえいえ、多分そんなことありません。たとえば次のような状況を想像してみてください。

 あなたは船で旅をしています。その船には100人の乗客が乗っていました。ある時、その船は高波にさらわれて難破し、あなたたち乗客は近くの無人島へと漂着しました。その無人島の中央には、小さな池があり、それが唯一の飲み水です。さてこのあと、この無人島では何が起こるでしょうか。

 ホッブズの想定に従うなら、戦いが始まります。誰かが「この水はおれのものだ!」と叫んだ瞬間に、戦いの火蓋が切って落とされるわけです。最初に独り占めしようとした人は、他の人によって殺されるかもしれません。しかし、その他の人だって、決して安心はできません。なんといってもそこには、あなたを含めて100人の人間がいるからであり、そして誰もがその水を求めているからです。

 この島に居続けることが、いかに危険であるかは、想像に難くありません。そしてその危険は、単に飲み物を確保できないかもしれない、ということではなく、他の漂流者によって殺されるかもしれない、ということに由来するのです。もしかしたら、漂流者のなかには、自分以外のすべての人間を殺せば、自分が飲み水を独占できる、とよからぬ考えを抱く人が現れるかもしれません。そうなれば、あなたは飲み水を心配するだけではなく、他の漂流者に対する身の安全についても心配しなければならなくなります。

 他の漂流者に対して、身の安全を確保するために、最善の手段は何でしょうか。おそらくそれは、先手を打って相手を攻撃することです。たとえば、自分以外のすべての漂流者を殺してしまえば、もっとも確実に自分の安全を確保することができます。論理的に考えれば、それが最善の答えです。ところが、問題は、すべての人が同じようにそう考える、ということです。つまり、あなただけではなく、その島のすべての漂流者が、先手を打って他の漂流者を攻撃しよう、と考えるようになるのです。

 ホッブズは、万人の万人に対する闘争は、ひとたび始まってしまうと、猜疑心によって全面的な戦争へと発展する、と考えました。つまりその状況では、すべての人が、問題が発生するよりも前に、先手を打って互いを殺そうとするのです。

 あなたは、もはや、飲み物を心配して他の漂流者と争うわけではありません。他の漂流者から殺されないために、殺し合いに巻き込まれてしまうのです。その先に待っている全面的な闘争が、どんな悲惨な結末に至るのか、想像するのも恐ろしいです。

〈 「カラオケで勝手にハモってくる人」は悪なのか? 実はルールを守らない人が“権力への反逆者”である理由 〉へ続く

(戸谷 洋志/Webオリジナル(外部転載))

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