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「犯人に対して極刑を望みます」135万筆の署名を集めるも判決は無期懲役…《千葉小3女児殺人事件》被害者家族のその後

文春オンライン / 2024年7月16日 11時0分

「犯人に対して極刑を望みます」135万筆の署名を集めるも判決は無期懲役…《千葉小3女児殺人事件》被害者家族のその後

亡くなったレェ・ティ・ニャット・リンさん(写真:筆者提供)

〈 小児性愛、収入源は親から相続した“立派なマンション”…9歳のベトナム人少女を殺害した《千葉小3女児殺人事件》犯人男の人柄 〉から続く

「リンちゃんを殺害した犯人に対して極刑を望みます」――2017年、愛する娘(当時9歳)を殺され、犯人を死刑にするために135万筆の署名を集めたベトナム人のハオさん。それでも判決はくつがえらず、無期懲役。「日本の法律は何なんだと思った」と憤り、生活をも犠牲にして闘ってきた彼はその後、どんな人生を生きたのか? 事件後の家族や加害者を追った高木瑞穂氏と、YouTubeを中心に活躍するドキュメンタリー班「 日影のこえ 」による新刊 『事件の涙 犯罪加害者・被害者遺族の声なき声を拾い集めて』 (鉄人社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/ 前編を読む )

◆◆◆

リンに何と報告してよいか、わかりません

 殺人や強制わいせつ致死などの罪に問われた渋谷の裁判は進み、2021年3月23日、高裁でも控訴は棄却され無期懲役が言い渡される。当然、死刑を願い続けていた遺族は憤ったが、判例からして無期懲役も当然と言える。正論を突きつけられ、父ハオは何を思うのか。

 そんなとき、記者仲間から思いがけない情報が飛び込んできた。

「ハオさんが千葉でベトナム料理のお店を開くらしいよ」

 驚いた。リンをベトナムに埋葬していた彼は、裁判が終わったら日本を見限り家族でベトナムに帰るのだろうと思っていたが、この地に留まるというのだ。ハオがオープンしたのは新京成線の元山駅前の『ハーグェン』というベトナム料理店。私はすぐに同店を訪れ、開店祝いの心ばかりの花を手にハオを直撃した。

「私にとっては、リンを殺害した犯人は渋谷恭正です。残虐な犯人。反省もしないし公開処刑もできないし。人間性を持ってないですね。人間性を持っていないので、人間世界にいないほうがいいと思います。だからこの世から消えてほしいですね」

 彼は事件発生以来、ずっと極刑を求め続けていた。その思いを完遂するために、苦手な日本語を勉強し、自ら駅前に立ち、時にはインターネットを通じ日本だけでなく母国ベトナムでも、死刑を求める署名活動に邁進していた。

 それは、一審での無期懲役判決に驚き「ならば自分が仇を討ってやる」との思いからだった。街頭に立ち、「リンちゃんを殺害した犯人に対して極刑を望みます。千葉県に住んでいる方、全ての日本国民のみなさま、私はリンちゃんの父です」と覚えたての日本語で繰り返した。ハオの活動は多くの共感を呼び、135万筆もの署名が寄せられた。

 ハオは、殺害には計画性がなく無期懲役が相当だとした高裁の判決後も上告を直訴する。だが、検察は上告せず、事実上、渋谷に死刑判決が出されることはなくなった。

「日本の法律は何なんだと思った」

 ハオは事件発生からほどなく、勤めていた会社を辞め、千葉地裁の判決2ヶ月後に職場に復帰したものの、2020年8月頃にまた仕事を辞めている。精神的に、どうしても働けなかったという。ハオは生活をも犠牲にして闘ってきたのだ。

「渋谷恭正はどうしても許すことができないです。それ以外の(日本の)人はリンの事件に関係ない方だったら、もちろん関係ないと思います。良い人もたくさんいます。事件後に助けてくれた日本人もたくさんいます。でも、今後リンの取材は受けません」

 日本の司法は、納得はいかないまでも受け入れる。でも、リンの死だけは受け入れられていない。だから「これ以上は踏み込んできてほしくない」との明確な意思表示だ。

 彼の想いを汲み取った私は自分の無神経さを恥じ、質問を重ねることをやめた。

 事件について語りたい人もいれば、忘れるため一切語らない人もいる。被害者遺族として生きるのであれば、どちらがいいのか。正解はない。どちらを選択しても遺族に光など差しはしない。ただし、何かを話したくなったとき、私に何ができるのか。

 数日前の無礼を謝るためハオに電話をしてみると、意外にも彼は「娘のことを話せず、ごめんなさい」と詫びた。意を決して「また店に行きたい」と言ってみる。と、彼はすんなり受け入れてくれた。むろん、その場でリンのことは触れず。

「リンがいちばん大好きだったのが、この…」

 その日、ハオは店でメニューの貼り替え作業をしていた。

「今日は新しいメニューと値段を変更しました。みなさんとお店の両方が喜ぶことができるようにしないと良くないと思う」

 店は自分が見る限り好調のように思える。が、「自分だけが儲かるのは申し訳ない」とハオは言う。彼の人柄が表れている。

 貼り替えは終わり、真新しくなった壁を見つめ、ハオは呟く。

「この春巻きは、よくリンと妻が一緒に作ったものですね。で、リンがいちばん大好きだったのが、このマンゴーのスムージー」

 娘の取材は受けないと言っていたハオが期せずして語り出した。

「もしお店のオープンのときにリンもいたら、いちばんいいなと思った。想定できなかったですね、リンが3年生のままいなくなるなんて……」

 メニュー一つとっても、娘と過ごした思い出が込められているのだ。そして、自分を鼓舞しながらも、決して逡巡することなく前言を翻す。

「リンに関する取材、もう一度受けようと思います。これで最後になると思います。事件のことを思い出したくない、でも自分たち家族は前に進んでいかなければならない。だから私たち家族の今と一緒に記録してください」

 ハオは事件後、リンが残した作文などを辞書を片手に繰り返し読んだそうだ。その中には日本の友達にベトナムを紹介する文章もあったという。

「リンがやりたいことは、ベトナムの料理や文化を日本に紹介することだったから。だから自分が何かできるかを考えて、これからもやっていきたいなと思っています」

〈日本とベトナムをつなぐ架け橋になりたい〉

 ベトナム料理店『ハーグェン』を開いたのも、リンの言葉があったからこそだ。

 高裁での判決後、ハオは言った。

「最高裁が最後の望みだったので、検察にはどうしても上告してほしかった。いまはリンに何と報告してよいか、今後どうしたらよいのか、わかりません」

 渋谷が死刑にはならないことが確定した現在、ハオは毎月24日の月命日に、ピンクの祠に手を合わせ続けている。

「これからは家族でこのお店を守っていくことが目標です。リンもそれを望んでいると思います。だから、もう少し日本で頑張ります」

 リンの夢は、家族を一歩、また一歩と前に進ませていた。2022年春には店名を『ハオ・グェン』と、夫婦の名前を冠した屋号に改めた。そこに私は、潰えた“最後の望み”を悲観することなくリンと共に生きる遺族の決意を見るのだ。

その後の被害者家族

 2024年4月5日、ポータルサイト「CHANTO WEB」がリンの家族の近況を伝えた。

「【独自】リンちゃん殺害事件から7年 母親が初めて語る残された家族のその後『弟は夕方になると玄関で姉の帰りを待っていた』」 と題された配信記事によると、松戸市に開いたベトナム料理店はコロナ禍のなか経営不振に陥り閉店。

 その後、福島県二本松市の温泉街で売りに出されていた元旅館を買い取り、2023年6月、新たにベトナム料理のレストランをオープンさせたのだという。この地を選んだのは、東日本大震災による津波と放射能で、ある日突然平穏な日常を奪われた人々と、愛娘を亡くした自分たちの境遇が似通っていると感じたからだそうだ。

 現在は、旅館の宴会場を利用してレストランを営む傍ら、旅館の営業自体も再開すべく、客室の改装工事を9割ほど終え、営業許可が下りるのを待っているという。宿はベトナムから装飾品なども取り寄せ、ベトナムのテイストと日本の文化や特徴を合わせた温泉旅館になる予定らしい。また、リンの両親は彼女が亡くなった後、2人の子供を授かり、現在次女が6歳、次男が3歳。

 事件当時3歳だったリンの弟(長男)は10歳となり、地元の小学校に通っているそうだ。事件からすでに7年が経過したが、両親の悲しみはいまだ消えず、リンの思い出が詰まった松戸市の家はそのまま残しているという。

(高木 瑞穂,YouTube「日影のこえ」取材班/Webオリジナル(外部転載))

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