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「カラオケで勝手にハモってくる人」は悪なのか? 実はルールを守らない人が“権力への反逆者”である理由

文春オンライン / 2024年7月29日 6時0分

「カラオケで勝手にハモってくる人」は悪なのか? 実はルールを守らない人が“権力への反逆者”である理由

©RewSiteイメージマート

〈 「勝手にハモらないでくれ!」しかもそんなにうまくない…なぜ人はカラオケで“自己中な行為”をしてしまうのか 〉から続く

 倫理学の専門家である戸谷洋志さんによると、自己中な振る舞いが楽しいのは「自分を中心に考えること」は生物の本能だからだという。だとすれば、なぜ私たちは「自己中」を悪いものだと認識しているのだろうか。

 ここでは、戸谷さんが6月に上梓した『 悪いことはなぜ楽しいのか 』(筑摩書房)から一部を抜粋。「カラオケで勝手にハモってくる人」を自己中だと思う理由とは――。(全3回の2回目/ 最初 から読む)

◆◆◆

すべての人が「自己中」だと全滅する?

 すべての人が自己中だと、人々は争い合い、事態は殺し合いへと発展してしまいます。しかし、その結果として自分の身に危害が及ぶなら、元も子もありません。自己中は生物の本能です。だとしたらそれは生存を目的にしたものだったはずです。それなのに、その自己中によってかえって生存が危ぶまれることになるなら、おかしな話です。

 この問題はどのように解決されるべきなのでしょうか。みんなが殺し合って全滅する以外に、いったいどんな対処法があるでしょうか。

 これに対してホッブズは次のようなアイディアを考えました。すなわち、すべての人が従うべき絶対の権力を打ち立て、その権力に対して完全に服従し、その代わりに自分の生命を守ってもらう、ということです。

 たとえば先ほどの無人島の例で考えてみましょう。飲み水をめぐって争い合っていた人々の間に、ある日、突如次のように提案する人が現れます。「もうこんな不毛な争いはやめよう。みんなでルールを決めて、そのルールに従って順番に水を飲んで良いことにしよう。もしもそのルールを破る人がいたら、全員でその人を罰することにしよう。お互いを憎しみ合うことはやめて、全員が生き残れるように、協力しよう」。

 島でのバトルロワイヤルに疲れたあなたは、きっとこの提案に賛同するでしょう。どう考えてもそれが合理的です。しかし、それは自己中を部分的に放棄することを意味します。なぜなら、この提案に従ってしまったら、もう自分が飲みたいときに水を飲むことはできなくなるからです。

 それでもあなたにとって、この提案は魅力的に見えるはずです。なぜなら、ルールに従ってさえいれば、自分の生命の安全を確保してもらうことができるからです。

 ホッブズによれば、人類の歴史において出現してきた権力は、すべて、こうしたプロセスのなかで自然に発生してきました。たとえば、村の首長や、国家の王の権力も、同じような過程を経て生まれてきたのです。

 権力は、決して神から与えられたものではなく、人々が合理的に生き残ろうとした結果、必然的に出現してきたものである―彼はそうした権力のあり方を「リヴァイアサン」と表現します。リヴァイアサンとは、旧約聖書に登場する海の怪物ですが、それは、たくさんの互いに協力する人々による、束ねられた力を表しています。

 人間は対等な力を持つからこそ、殺し合ってしまうのです。そうであるとしたら、圧倒的な力を持った存在が出現すれば、ゲームバランスが崩壊し、戦争状態はストップすることになります。そうした圧倒的な力こそがリヴァイアサンとしての権力なのです。

 こうした議論によって、ホッブスはなぜ人間が自らエゴイズムを制限し、ルールを守り、他者と協力できるようになるのかを説明しました。ただし、ここで注意が必要です。権力に服従した人間は、決して、エゴイズムそのものを放棄したわけではありません。むしろ、エゴイズムに駆られているからこそ、権力に服従しているのです。

 なぜなら、服従する理由は、何よりもまず自分の生命を確保することにあるからです。人間がルールを守って他者に協力するのは、そうすることが自分にとってもっとも利益があるからでしかありません。

 こうしたホッブズの議論は、「社会契約論」と呼ばれ、人間がいかにして社会を形成したのかを説明する理論として、歴史的に極めて大きな影響な影響を与えました。もっとも、彼の考えには色々と問題があり、その後の思想家たちによって様々な修正が施されます。しかし、人間の本質をエゴイズムのうちに見定める現実主義的な視点を保ちつつ、そこからどのようにして倫理が立ち現れてくるのかを説明できる点で、非情に優れた考え方です。

よだかは「改名しないなら殺す」と脅迫される

 ホッブズの思想の長所の一つは、自己中がそれ自体で悪ではない、と考えることができる点です。もし、自己中そのものを悪だと見なしてしまったら、生物の本能は自己中なのだから、生きること自体が悪である、という非常に極端な思想へと陥りかねません。

 自己中そのものを悪とすることが、私たちにとってどんな意味を持つのか――それを問うた作品として、宮沢賢治の『よだかの星』があります。主人公である鳥のよだかは、毎日虫を食べて生きています。モデルとなっている現実の鳥類としてのヨダカは、口を開けたまま空を飛び、口の中に飛び込んできた虫をそのまま食べる、という習性があるそうです。この作品のなかのよだかも同じようにして生活しています。

 よだかは鷹からイジメられていました。ある日、鷹は、よだかが自分と似た名前であることに腹を立て、「市蔵」という名前をよだかに押し付けようとします。そして、改名しないなら殺すと脅迫します。鷹はまったくの自己中です。しかし、鷹と戦っても、よだかに勝ち目はありません。

 その日もよだかは虫を食べていました。彼は自分が虫を食べていることに対して無自覚でした。それは、日々の営みのなかで当たり前のように繰り返されることであり、特に意識する必要のない些細なことでした。しかし、突如として、自分の口のなかで殺される虫の存在を意識するようになってしまいます。そしてその瞬間に、非常に強烈な絶望感に襲われてしまうのです。彼は次のように言います。

 ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓えて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。

 こうしてよだかは、自分の住処を離れ、太陽へと昇っていき、燃えてしまいます。

自己中がそれ自体で悪ではない

 ここには、宮沢賢治に特有の、仏教的な世界観が現れていると言われます。よだかが絶望したのは、自分が虫を殺していることへの罪悪感でもなければ、自分が鷹に殺されることへの恐怖でもありません。むしろ彼は、どんな生物もエゴイズムを本能としており、他者に対して暴力を振るうのであり、そして自分もその輪の中に組み込まれ、そこから逃れられないことに絶望したのです。

 だからこそよだかは、生物であることをやめることで、この暴力の連鎖から脱出することを試みました。もっともそれは、この作品のなかでは、自殺を指すわけではありません。よだかが何を試みたのか。それは、実際に作品を読んでみてください。

 とはいえ、自己中をそれ自体で悪だと見なしてしまうと、それは生存すること自体を悪とする発想へと、どうしても行きつきます。なぜなら生物は、自分以外の生物に暴力を振るわない限りは、生き残ることができないからです。

 私たちは、見かけの上では他者と協力しているように見えても、実際には、自分の目の前にいない人を搾取していますし、あるいは人間以外の動物を殺して食べています。そこには明らかな自己中の暴力が発露しているはずです。もしも自己中がそれ自体で悪なら、そんなことをすべてやめなければなりません。しかし、それは生きることをやめることに等しいのです。

 実際には、こうした思想こそが正しい、と見なす立場もありえます。しかし、善悪の観念が社会契約によって生まれてきた、と考えるホッブズの思想に従うなら、そうした結論はやはり極端だということになるでしょう。私たちは、自己中だからこそ、他者に協力することができるのであって、自己中そのものは善でも悪でもないのです。

カラオケにおけるエゴイズム

 カラオケで自己中な人について、改めて考えてみましょう。

 なぜ、勝手にハモってくる人は楽しそうなのでしょうか。それは、その人が自分の快楽だけを考え、他者――この場合には私――の迷惑を考えない、エゴイズムに基づいて行動しているからであり、そしてエゴイズムは人間の本能だからです。

 では、なぜ私たちはそうした自己中な人を迷惑だと思うのでしょうか。私たちは誰でもエゴイズムを抱えています。自己中を批判しているつもりでも、自分だって心の底では自己中です。でもそれを行動には出さず、表面的には他者と協力しようとしているわけです。なぜなら、他者と協力し、みんなでルールに従っている方が、自分が安全だからです。

 たとえば私は、他者がどれだけ自分の十八番を歌っていても、横からマイクを奪いったり、突然一緒に歌いだしたりはしません。どれだけむずむずしても、です。でも、なぜそうしないのかと言えば、それは同じことを他者からしないでほしいからです。みんなが他者のことを考えずに、自分の好きなときに歌おうとすれば、マイクの取り合いになり、かえって自分の好きな歌を歌うこともできなくなります。

 カラオケを楽しむためには秩序が必要です。そうした秩序は、一人一人が「歌いたい」という自分の衝動を抑制し、明文化されていなくとも共有されているルールに従うことで、初めて実現されるのです。そのとき、カラオケの秩序は一つのリヴァイアサンとなり、絶対の権力として出現するのです。

 自己中な人はこの権力に反逆しているのです。みんなが我慢していることを、自分だけ我慢しようとしないのです。だからそれは間違ったことであり、権力に服従している人々は、自己中を悪として批判します。そうしたことを繰り返す人は、もしかしたらカラオケに誘われなくなり、友達の輪からも追放されてしまうかもしれません。

 もっとも、このことは、自己中を批判する側は自己中ではない、ということを意味するわけではありません。それがホッブズの思想の鋭いところです。カラオケのルールに従っている人は、そのルールを破る人と同じように、自己中です。なぜならルールを守るのは、自分が歌う機会を確実に確保したいからであり、その点では、ルールを破る人よりもはるかに歌への欲求が強い、とさえ考えることができます。

 唯一、両者の間で異なるのは、ルールを守る自己中な人は、ルールを守らない自己中な人よりも、合理的だということです。賢く考えるなら、他者と協力した方が、自分の利益を追求することができる――それが、私たちの社会の本質だと、ホッブズは指摘するのです。

〈 空気を読まないのは“悪いこと”なのか? 制服を着崩しただけなのに…演劇部の少年が「珍太郎」と呼ばれてしまった理由 〉へ続く

(戸谷 洋志/Webオリジナル(外部転載))

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