1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

空気を読まないのは“悪いこと”なのか? 制服を着崩しただけなのに…演劇部の少年が「珍太郎」と呼ばれてしまった理由

文春オンライン / 2024年7月29日 6時0分

空気を読まないのは“悪いこと”なのか? 制服を着崩しただけなのに…演劇部の少年が「珍太郎」と呼ばれてしまった理由

©milatas/イメージマート

〈 「カラオケで勝手にハモってくる人」は悪なのか? 実はルールを守らない人が“権力への反逆者”である理由 〉から続く

 ちょっといけないことをしたとき、ドキドキして心が躍る。なぜ、私たちはそんな気持ちになってしまうのだろうか。ここでは、そんな問いの答えに倫理学の専門家である戸谷洋志さんが迫る『 悪いことはなぜ楽しいのか 』(筑摩書房)から一部を抜粋して紹介する。

 学生時代、制服を着崩していたために教室で目をつけられてしまった経験があるという戸谷さん。そもそも「空気を読まない」ことは、なぜ悪いこととされるのだろうか。(全3回の3回目/ 最初から読む )

◆◆◆

制服を着崩す権利

 どの学校にも、別にはっきりと校則には書いてないし、誰かがそう言っているわけでもないけど、なんとなくみんなが守っているルールがありますよね。

 私の高校では、制服と通学カバンが指定されていました。ただ、サッカー部やバスケ部などに所属している、いわゆる「イケてる」生徒は、それを着崩すことが許容されていました。いや、もちろん、先生が見逃してくれる範囲のことです。

 たとえば、ワイシャツをズボンから出してみたり、靴の踵かかとを踏みつぶしてみたり、通学カバンをエナメルバッグに変えてみたり、といったことです。今思えば、それのいったい何がよかったのかわかりませんが、とにかく、それが私たちにはめちゃくちゃカッコよく見えていました。

 ところが、前述の通り、このように制服を着崩すことが許されていたのは、「イケてる」生徒だけです。そして、何をもって「イケてる」かと言えば、サッカー部やバスケ部など、アクティブな部活動に属していることです。でも、何をもってアクティブかは曖昧でした。たとえば野球部や卓球部も大変アクティブですが、そうした部活に属する生徒には、制服を着崩すことはなんとなく許されていませんでした。

 さて、私は演劇部に属していました。当然ですが、演劇部の生徒に制服を着崩すことが許されるはずがありません。演劇部は――少なくとも私の高校では――「イケてない」からです。だから、私以外の部員はみんなしっかりと制服を着ていました。

 しかし私は、自分を「イケてる」と思い込んでいたので、その不文律に抗って、制服を思いっきり着崩していました。ヘアワックスで髪を遊ばせ、ワイシャツをズボンから出し、靴の踵を踏み、演劇の台本を入れるためにスポーツ用のエナメルバッグを持ち歩きました。

 言うまでもなく、私は教室で目を付けられることになりました。「調子に乗っているヤツリスト」に入れられ、「イケてる」生徒によって構成される共同体には、参入することが許されませんでした。

 幸いなことに、私の高校にはいじめがなかったので、特に辛い思いはしなかったのですが、「戸谷君って珍しいよね」という理由から、「珍太郎」というあだ名をつけられ、「珍さん」と呼ばれて3年間を過ごしました。そのあとの人生で、そんなふうに空気を読めないことでいろいろと苦労しましたので、今となっては後悔しています。

 なんで、あのとき私は、わざわざ制服を着崩していたのでしょうか。いま思い返すと、たぶん私は、そこにある空気を破りたかったのではないか、という気がします。つまり、この人は制服を着崩して良くて、この人はいけないという、暗黙の了解に従いたくなかったのです。

 私たちは、日常生活において、多かれ少なかれ、空気を読んで生きています。それに対して、空気を読めない人は、それだけで鼻つまみ者として扱われてしまいます。空気を読まないことは、たとえ誰も傷つけていなくても、空気を読んでいないというただその理由だけで、まるで悪いことをしているかのように扱われてしまうのです。

「空気」の同調圧力

 でも、なんで私は珍太郎などと呼ばれなければならなかったのでしょうか。

 私が制服を着崩していても、教室の中の誰も困っていなかったはずです。生活指導の先生は若干困っていたかもしれませんが、でも別に、人を傷つけていたわけではありません。私は、制服を着崩していた以外は、いたって品行方正な生徒でした。エナメルバッグの中に入れていたのは、ナイフや警棒ではなく、無害な高校演劇の台本なのです。

 それでも、教室のなかの空気を読まなかった私は、なんだか悪いことをしているかのような扱いを受けていました。私はそこで、誰も傷つけていないわけですから、その悪さは、空気を読まなかったことそれ自体にあるとしか、考えることができません。空気を読まなかった結果、誰かが嫌な思いをしたから、それは悪いことなのではないのです。空気を読まなかったこと自体が、悪いことだったのです。

 では、空気を読まないことが、なぜ、それ自体として悪いことになるのでしょうか。

 それはおそらく、私が空気を読まないことによって、それまでその教室を支えていた不文律が、いくから効力を失ったからでしょう。

 たとえば、お世辞にも「イケてる」とは言えない私が、制服を着崩していたら、もう「制服を着崩していいのはイケている生徒だけだ」という不文律は機能しなくなります。そしてそれによって、「制服を着崩しているということは、あの人はイケているんだ」という、不文律から逆算した生徒への評価も、できなくなります。そんな評価が機能停止に陥っても、私は何も困らないのですが、多分「イケてる」生徒たちにとって、それは困ることだったのでしょう。

 しかし、よく考えてみてください。なんで、「イケてる」生徒だけが制服を着崩すことができ、「イケてない」生徒にはそれが許されないのでしょうか。そもそも「イケてる/イケてない」はどのように区別され、その境界線はどこに引かれているのでしょうか。

 サッカー部が「イケてる」のはよしとしましょう。たしかに「イケて」いた気がします。では卓球部はどうでしょうか(もちろん僕は卓球部も「イケてる」と思っています)。パソコン部はどうでしょうか(「イケてる」に決まっています)。その判断を誰がどのようにして行うのでしょうか。そして、その不文律を決めたのは誰であり、それを承認したのは誰なのでしょうか。

 そんなことを聞かれても、きっと誰も答えられないでしょう。でも、それは考えてみればおかしな話です。だって、自分でもよくわからないものに、従っていることになるのですから。そしてここに、「空気を読む」ということの興味深い特徴があります。すなわち、周囲に同調して行動しているとき、私たちはそのように行動することが正しいという確信を持っているわけではありません。正しいか正しくないかはわからないけれど、とにかく「みんな」がそれに従って行動しているから、自分も同調してしまうのです。

 そうであるとしたら、空気を読むことはある意味で怖しいものです。なぜなら、正しくない行動に対して人々が同調することも、容易に起こりえるからです。たとえばその典型が、いじめでしょう。教室でいじめが起こるとき、多くの場合、いじめに加担する生徒の大多数は、ただ周囲に同調しているだけです。いじめられている生徒に対して、はっきりとした憎悪を抱いていたり、そのいじめを正当化できるだけの理由(そんなもの存在するはずがありませんが)を説明できたりする生徒は、ほとんどいません。

 だからこそ、ただ空気を読んで行動しているだけだと、知らず知らずのうちに暴力に加担することにもなりえるのです。

時代を支配する空気

 もっとも、学校を支配している空気からは、一歩でも学校を出れば逃れられます。だから、そうした空気が息苦しくなったら、そこから逃げ出せばいいのです。しかし、学校の外側には、別の空気が広がってもいます。国や時代を支配する空気から逃れることは、それほど簡単ではありません。

 スコット・フィッツジェラルドの代表作『グレート・ギャツビー』は、そうした空気のなかで人がいかに生きるべきかを問いかける作品であると言えるでしょう。

 主人公は、大学を卒業した後に戦争に従軍し、その後、就職のためにニューヨーク郊外のウェスト・エッグという街にやってきた若者です。彼の新居の近くには大豪邸が居を構えていました。その住人が、ジェイ・ギャツビーと呼ばれる人物です。

 ギャツビーは豪ごう奢しゃな人物でした。毎晩のようにパーティーを開き、客人をもてなして、大騒ぎしていました。しかし、その素性は謎に包まれており、誰も彼が何者なのかを正確に知る者はいません。主人公は、彼と少しずつ交流を持つようになり、彼の秘めたる想いを知ることになります。

 この作品の面白さを十分に味わうには、それが書かれた背景を知ることが必要です。『グレート・ギャツビー』が発表されたのは一九二五年。当時、アメリカは空前の好景気の最中にありましたが、同時にそこには、どこか退屈した空気が蔓延していました。たしかにお金は儲かるし、生活も豊かになる。しかし、その後に素晴らしい幸せが待っているわけではない。結局は、同じような毎日がこれからも繰り返していくだけであり、生きがいのない日々をやり過ごすしかない―そうした沈滞した雰囲気で満たされていたのです。『グレート・ギャツビー』の物語の舞台にも、まさにそうした空気が充満しています。

 その最中にあって、ギャツビーは懐かしき「アメリカン・ドリーム」を信じる男として描かれるのです。もう誰からも信じられていない時代遅れの価値観を持ち、自分の力でどんな夢でも叶えられると信じる大金持ち―それがギャツビーです。だからこそ、物語のなかで、彼は明らかに空気が読めない人間として語られます。

 ギャツビーは、一見すると華麗でカッコいいですが、大事なところではドタバタしていて、時々メッキが剥がれます。彼は明らかに不自然なのです。しかし、その不自然さは、かえって彼を取り巻く世界の退屈さを際立たせます。

 それを象徴するのが「灰の谷」と呼ばれる場面の描写です。ある日、ウェスト・エッグからニューヨークに電車で向かっていた主人公は、車窓からその場所を眺めました。そこでは、農場や庭園や家がすべて灰でできており、そこで生活する人々もすべて灰色をしているのです。このシーンは、物語の前後と直接関係がなく、かなり唐突に差し込まれている、非現実的な場面です。しかし、だからこそとても印象的であり、世の中の沈滞した空気を見事に表現しているように思えます。

 灰は、何かが燃えた後に残ったものです。たとえばそれが、この物語の文脈では、アメリカン・ドリームなのでしょう。「灰の谷」と化した現在のアメリカは、いわば、その夢が燃えてしまった後の灰のようなものである、だから、誰もが同じように浮かない顔で、味気ない毎日を送っている―そうした作者の思いが、この場面の描写には込められているように思えます。

 そうであるとしたら、空気が読めないギャツビーは、そうした重い空気に気づかせてくれる存在でもあるのです。私たちは、ギャツビーを空気が読めないやつだと笑います。でも、そうやって笑っている私たちは、果たして幸せなのでしょうか。彼を小馬鹿にできるほど、大した人生を歩んでいるのでしょうか。この作品は、当時のアメリカ社会に対して、そうした痛烈な問いを投げかけるものでした。そしてその問題提起は、時代を越え、国境をも越えた現代の日本社会においても、以前として色褪せていないように思えます。

(戸谷 洋志/Webオリジナル(外部転載))

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください